「いま時間あるわよね?」
穏やかなトーンであるのに有無を言わせない強さでそう告げる彼女はカフカさんと言い、この家の主である。こうして時々帰って来ては、私の手を引いてくすぐったくなるような戯れをするのだ。
「ん、肌艶に問題なし。あら、もしかしてこの前買ってきたリップ使ってくれてるの?」
「はい。保湿力が高くてお気に入りなんです。色味もとっても可愛くて」
「君に似合うものを選んだもの、可愛くて当然だわ」
「……色の話ですよね?」
含みのある言い方にジトリとした目を向けてしまう。どうにもこの美しい女性はいつだって私に甘い。そんな彼女との出会いは見知らぬ場所に放り出されて途方に暮れていた時だった。
気が付けば普段とは違う知らない街の路地裏にいて、帰り道を探すために歩いていたら目の前に見たことも無い大きな化け物があらわれた。もう駄目だ、と諦めたその時に助けてくれたのがカフカさんだった。
流れるような一太刀で化け物を切り伏せた彼女はそのままくるりと振り返ると、腰が抜けてへたり込んでいた私の元へ歩いてきて、目線を合わせるためにしゃがみ込む。
「君はエリオの脚本に必要ではないけれど。うん。やっぱり気に入った」
「え、えっと」
困惑する私を余所に、その細身の体でなんなく私を抱え上げた。それもお姫様抱っこだ。私はさらに困惑した。
「いつも頑張っている私へのご褒美ってところね」
「え、あの、どこに向かっているんですか?」
迷いなく歩く彼女に不安になって問いかけると、見下ろす瞳とかち合う。深く、絡めとるようなマゼンタが喜色に満ちたように歪められる。
「私たちの家♡」
そんな感じで連れてこられたのがこの家だった。最初に来たときは最低限の物しか置かれていなかったこの部屋も、時間が経つうちにカフカさんの趣味に合わせた家具や私へのプレゼントで溢れかえるようになった。
彼女が帰ってくる度にアクセサリーや洋服なんかが山のようにあふれかえるものだから、こんなに貰っても全部は使えないと断りを入れるけど、その都度「私の楽しみを奪うの?」なんて言われてしまうから強く出ることも出来ない。
「今日はね、素敵なネイルポリッシュを見つけたから君に塗ってほしくて」
「私に?その、恥ずかしい話なんですけどあまり器用ではなくて」
「アハハ、気にしないで」
どうせ手袋で隠れて見えないんだから。そう言いながらスルリと両の手袋を外す。晒された手は白魚のように繊細で美しいのに、武器を操る人特有の硬さがある。
私は道具を準備して、意を決して彼女の手を取った。手入れの行き届いた爪を一つ一つ丁寧にアルコールで拭いてベースコートを塗る。
「こんな特等席で真剣な君を眺められるなんて、仕事を頑張った甲斐があったわ」
「今回のお仕事は長かったですもんね、お疲れ様です」
「ありがとう。フフ、さみしかった?」
そう告げる彼女の声音があまりにも艶やかだったから、危うくベースコートがはみ出してしまうところだった。素知らぬふりをして寂しかったですよ、なんて言うけどこの動揺はカフカさんには筒抜けだろう。
私は、カフカさんがどんな仕事をしているのか知らない。ただ、どうやらその内容は危ない物のようだから、どうか彼女が無事に帰ってくるのを祈る事しかできない。
ネイルポリッシュのキャップを開ける。特有のツンとした匂いはせず、瑞々しい花の香りがふわりと漂った。
「とてもいい匂いですね、ボトルもお洒落できれい」
「気に入った?おそろいで買ってきたから後で君にもあげるわ」
「え、また私に?嬉しいですけど、こんなに貰ってもなんのお返しもできませんよ」
「お返しなんて必要ないわ。好きでやってるんだもの」
それに、こうして君が私の事を考えてくれるのが何より嬉しいの。頬杖をついて嫋やかに微笑みながら彼女は言う。今度は手に持っていた筆を落としてしまった。ごめんなさい!と謝りながら慌てて机に塗り広がってしまったオイルを、除光液を染み込ませたティッシュで拭う。
「そんなに慌てなくても大丈夫よ」
「でも、机が汚れてしまいましたし。それにオイルがもったいない」
「些細なことよ」
クスクスと笑いながら彼女は私を見つめる。こういう揶揄い方をカフカさんはよくするのだけど、正直心臓に悪いからやめて欲しい。
ここへ来てからというものの、あまり外へは出ていない。彼女が帰ってきた時に偶にに一緒に出掛けるくらいだ。私の居た世界と違ってこの世界は危ないから一人で出歩かないようにと言い含められている。
実際、戦う力の無い私は少し外に出るだけで簡単に死んでしまう。この世界に来た当初、はじめて感じた死の迫りくる恐怖は未だに私の中に根付いて離れてくれない。
こうしてカフカさんしか話せる人、ましてや頼れる人もいないという現状には危機感を抱く。それでも、私にはどうする術もないから現状を享受するしかない。
いつか、彼女が私に飽きてしまったら。そんな日が来ることを考えて自立する方法を考えた時期もあったしカフカさんに相談した事もあった。この世界にだって戦えなくても生きている人は沢山いるのだから、街中であれば私だって一人で生活できるはず。
そう話してもいつのまにかボーッとしてしまって、最後にはカフカさんとずっと一緒にいればいいんじゃないか?という考えになってしまう。
いけないと分かっていても、最近ではもうこのままで良いんじゃないかとすら思うようになってしまった。安心するバラの香りに包まれて、甘やかに微笑む彼女の帰りを待つ。これ以上に幸せなことは、きっと他に無い。
「お待たせしました、カラー塗りますね」
「よろしく」
指先一つ、丁寧に色を塗る。薄い桜色の爪は筆を滑らせるたびに発色の良いダークレッドに彩られていく。その工程を十回終わらせれば、トップコートを重ねて全ての作業が完了した。
「ありがとう、とても綺麗に塗れているわ」
「それならよかったです」
カフカさんは光の当たり具合を確認しながら手を動かして色味を眺めている。光沢のあるネイルは彼女が手を翻すたびにキラキラと光って綺麗だった。
「それじゃあ、お礼に私が君の分を塗ってあげる」
「え!?じ、自分で塗れますよ」
「イヤ?」
私の手を取って伺うように首を傾げる。どんな朴念仁でも彼女の仕草ひとつで落としてしまえるような魔性であった。う、だの、あ、だの言葉にならない声をもらし、私は降参の旗を上げた。完敗である。
「顔真っ赤」
「誰のせいだと……」
「私以外いないわ」
ねぇ、そう言って掴んでいた手をするりと撫でる。耐性の無いわたしは思わず小さな悲鳴を上げた。
「お願いだから、私以外にそんな顔をしないでね」
ナハトムジークと眠る