ぼやけた視界で目を覚ます。寝起きで焦点の定まらない瞳を何度か瞬きを繰り返すことで覚醒へと促した。すると、近くでクスクスと笑う声がする。

「おはよう。昨晩はよく眠れた?」
「あれ、カフカさん……?」

 隣を見れば、いつもと変わらない美しい微笑みを湛えたカフカさんが横になっている。昨日は一人で寝たはずなのにいつの間に帰って来ていたのだろう。そんな疑問を抱きながらも、寝ぼけた思考のまま「おはようございます。それと、お帰りなさい」と告げれば花が綻ぶような柔らかな笑顔を向けられる。
 それがなんだかくすぐったくて、一人でにこにこと笑っていればカフカさんはシーツの隙間を縫うように私に手を伸ばして、おでこにそっとキスを落とした。

「私は先に起きて準備をしているから、君もしばらくしたらおいで」

 そう告げてベッドから降り、リビングへと向かう後ろ姿を眺める。自分のおでこに手を伸ばして彼女の触れた場所を抑えた。こういった事をサラッとされるのは未だに慣れていなくて、心臓の鼓動が早まる。
 ある意味、丁度いい目覚ましになったかもしれない。一人になったベッドの上で小さく唸りながらそんなことを思う。隣にあったぬくもりが消えて、シーツの無機質な温度だけになった頃、私も起き上がって朝食の準備を手伝いに向かった。

 リビングへとたどり着けば、先に起きていたカフカさんがキッチンに立っている。鼻歌を歌いながらプレートに盛り付けている隣に立ち、今日の朝ご飯は何だろうとのぞき込んだ。
 クロワッサンに生ハムとレタスを挟んだサンドイッチとサラダ。それから端には切ったゆで卵とフルーツが幾つか盛り付けられている。スープカップには温かなコンソメスープが注がれていて、思わずお腹がぐぅと鳴る。

 私がそのプレートをテーブルに運んでいる間にカフカさんは自分用のコーヒーと、それから私用の紅茶を淹れてこちらへ持ってくる。それぞれの席へとコトリと置いて、椅子に腰かける。食前の挨拶をすませてスープに口をつければ、ホッとするようなじんわりとした温かさが体を満たした。
 私はカフカさんのいない間の出来事を話しながら朝食を進めていく。正直代り映えの無い生活で話す内容も面白みに欠けたものではあるけれど、それでも彼女は楽しそうに耳を傾けてくれるから私は張り切ってお喋りをしてしまう。

「今日は一日お休みなんですか?」
「ええ。久しぶりにまとまった時間が取れてね。せっかくだから、今日は君と過ごしたいな」

 それがとても嬉しくて「今日は何をしましょうか」と弾んだ声で問いかければ、「そうね、まずは久しぶりに二人でお風呂に入りましょう。そこでゆっくりこれからの事を考えれば良いわ」と返される。どぎまぎしながら頷いて、食器を片付けた。
 私は夜にお風呂に入るのに慣れていたけど、ここでは朝にシャワーを浴びるのが主流で、時間がある時には浴槽に浸かってリラックスすることが多いのだとか。朝からお風呂に入る事自体は忙しい時なんかにもあったから良いのだが、問題は二人で入るということだ。

 ただでさえ誰もが羨む美貌の持ち主である彼女の隣にいるという事実に気が引けているというのに、更に素肌を晒して、無防備なままで傍にいるというのは大変気恥ずかしい。だけど、私にはカフカさんの提案を拒否するという選択肢は無いので渋々ながら受け入れることとなった。

 バスタオルと着替え、それからカフカさんが最近買ってきたバスボムを持って二人で浴室へ向かう。何度か一緒にお風呂に入っているとは言え、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。

「そろそろ慣れればいいのに」

 彼女は何の躊躇いもなく纏っていた衣服を脱ぐ。絹のように透き通った肌が無遠慮に晒されて、なんだか見てはいけないようなものを見てしまったような、言いようのない罪悪感に襲われた。
 私も腹を括って服を脱ごうとするのだが、妙なためらいが生まれて一つ一つの動作がもたついてしまう。

「私が脱がせてもいいけど?」
「自分で脱ぎます!」

 揶揄い交じりにそう告げたカフカさんは私の反応を見てくすくす笑う。まるで熟れたリンゴのようね、なんて言いながら私の頬をひと撫ですると先に浴室へ向かった。頬の熱を冷ますように手で扇いで、それからしばらくして私も浴室へと入る。

 窓から取り込まれる柔らかな朝の光が真白のバスルームを照らす。浴槽の側に置かれているアンティークの蓄音機からは彼女のお気に入りのクラシックが流れていた。この空間の主である彼女は既にバスタブに浸かっており、私を見てなだらかに目を細める。

「おいで」

 それは何の強制力も無い普通の言葉だというのに、私はカフカさんの声につられるようにフラフラと彼女の近くへ寄った。浴槽に入って、持ってきていたバスボムも一緒に浸かる。
 素肌と素肌の触れ合う距離で、吸い付くような滑らかな彼女の腕が私を後ろから抱き寄せる。触れた部分が熱くて、まだお風呂に入ってすぐだというのにのぼせてしまいそうだった。

 私は気を紛らわせるために、持ってきたバスボムを見る。手のひらにあるピンクと紫のグラデーションで彩られた丸いそれはしゅわしゅわと溶け、透明だった浴槽のお湯はみるみるうちに淡いピンクに染まっていった。
 中に入っていた花びらに触れれば、ほろほろと崩れお湯に溶ける。ふわりと香る上品な花の匂いに身も心もほぐれてしまいそうだ。

「あら、随分と余裕ね」

 耳元で囁かれてビクリと肩がはねる。耳の裏を細い指先で擽って、首筋に食むように口付けをする。思わず逃げ出そうと体が動くが、カフカさんの腕が私のお腹に巻き付いて引き止める。逃げようと思えば逃げ出せるような軽い力なのに、私はその場で諦めたように力を抜く。
 後ろに居るカフカさんにジトリとした抗議の視線を送るが、相も変わらず笑みを浮かべて私の体を撫でるものだから制止のために彼女の手を掴む。

「カフカさん!」
「あら、嫌なの?」
「嫌とか嫌じゃないとかではなく、こういうのはあんまり良くないんじゃないかと……」

 しどろもどろに答え、自信を無くすように語気が萎んでいく。なにせ、当のカフカさんは心底不思議ですといった表情でこちらを見ているものだから、私が間違っているんじゃないかという錯覚に陥ってしまうのだ。
 そんな事は無い。私は正しい。意識をしっかり持たなくちゃと深呼吸をしていれば「揶揄いすぎたかしら」とあっけらかんとした声がして私は脱力した。

「カフカさんの揶揄い方は心臓に悪いので出来れば止めてほしいです」
「出来れば、ね」
「絶対に!」

 きっと私の話など聞き入れるつもりは無いだろうといった様相で適当に相槌を打つものだから、もう一度彼女の名前を呼んで振り返る。
 思いのほか近くにあったカフカさんの顔に驚いて仰け反るが、彼女はそれを許さないとばかりに距離を詰める。

 ちゃぷんと水面が揺れて、彼女の目を惹く紅い唇が私のソレに重なる。触れるだけのキスを終えてそっと離れていくカフカさんを間の抜けた顔で見つめた。
 次第に状況を理解した私の顔は赤く染まっていき、彼女の首元に顔を埋める。頭上からは楽しそうな笑い声がして、余裕のあるカフカさんのことを恨めしく思った。

「随分と甘えたねぇ」
「カフカさんのせいですから、責任取ってください」
「あら、まぁ……」

 彼女の言葉が止まる。不思議に思って顔を上げれば、驚いたような表情のカフカさんがいた。それに私も驚いてぱちぱちと瞬きをすれば、彼女はとろりと溶けるように破顔した。

「そうね。ええ。私のせいなのだから、責任を取らなくちゃね」
「いや、あの、別に言葉の綾といいますか、重く捉えなくて大丈夫です」

 聞いているのかいないのか、カフカさんは楽しそうに鼻歌を歌いながら私の髪を撫でる。

「今日は午後から美容室の予約を入れているから二人で行きましょう。その後は服やコスメを見て回るのもいいし、疲れたらカフェで休むのもアリね」

 謳うように告げる彼女に、それは素敵な休日だと私も頷いた。カフカさんとお出かけができるのは、私も嬉しい。

「それから、君の居た場所では婚約の際に指輪を贈るのだったかしら?それも買いに行かないとね」
「え?待ってください、カフカさん。冗談ですよね?」

 もう一度念を押すように冗談ですよね?と告げるが彼女はニコリと微笑むだけだ。

「私は仕事柄ずっと指輪を着けていられないけど、ネックレスにすれば肌身離さず身につけていられるわ」
「えっと、そうですね……?いや、そうでは無く!」

 慌てて言葉を紡ごうとするが、どう言葉を並べれば良いかわからない。婚約って、つまりは彼女にとって私はそういう対象になるのだろうか。
 正直な所、私はカフカさんとの関係を測りかねていた。甘やかに微笑み、こちらの胸中を引っ掻き回すようなことをよくするけれど。それは恋人に向けるものというよりは、愛玩動物に対する戯れのような物だと思っていた。

 戸惑うように彼女を見れば、私の左手を取り薬指の付け根をなぞる。

「私は最初から君をそういう目で見ていたけど」

 体温が一気に上がる。このまま逆上せて死んでしまうんじゃないかと思った。

◆

 星間旅行、というものがある。今いる星から別の星へと移動することだ。

 ある日カフカさんは帰ってくると「海を見に行きましょう」と言った。近くに海があるのかと思って了承すれば、二泊三日の旅行準備を言い渡された。
 戸惑いながらも、彼女と長く一緒にいれるのは嬉しいなと呑気な思考の私は服や化粧品など必要なものをパッキングしていき準備を終える。

 そのままの流れで彼女は私の手を取り、星を越えた。絡まる指がどうにもむず痒い。うれしいけど、恥ずかしい。贅沢な悩みを抱えたまま、私は知らない星へと降り立った。

 あまり整備の行き届いていない道を二人で歩く。道端で揺れる草と、風に乗って流れる潮の匂い。人の気配の無いその場所をゆっくりと進んでいく。
 防波堤まで辿り着きその場で腰を下ろすと、鞄からペットボトルを取り出し水を飲む。結構な距離を歩いて喉が乾いていた。無理をさせてごめんなさいね、と謝るカフカさんに首を振り目の前に広がる青い海を眺めた。

「時々ね、無性に海が見たくなるの」

 寄せては返す波のさざめきの合間に、彼女はぽつりと言葉を落とす。隣を見れば、遠くを見つめるカフカさんがいる。その瞳に映る感情を推し量ることはできない。

「昔はね、夏になると必ず海を見に行く星があったのだけど。ある事をきっかけに足を運ぶ気になれなくなっちゃって。この星の海は穏やかなのに、どうしてかしら。君と見に来たくなっちゃったの」

 困ったように笑う彼女の肩に頭を乗せる。カフカさんはそんな私の髪を優しく撫でるが、依然としてぼんやりとしていて心ここにあらずといった様子だった。

「私、カフカさんとこの海を見れて良かった」
「そう言ってくれるのなら、連れてきた甲斐があるわ」

 二人で海を眺める。繰り返す波の音と空を飛ぶ鳥の声が辺りを包んでいる。決して静かだなんて言えないのに、それでも、今ここには私達しかいないのだと強く感じる。
 誰にも邪魔されない空間で、ただ寄り添い合う。カフカさんが何を考えているかはわからないけど、それでも彼女の傍にいれることが幸せだと思った。

「私は恐怖という感情を知らないけど」

 彼女は私の方を見て、困ったように目を細める。自分の中で整理できていない感情をまとめるように、ぽつりと溢す。

「君を失うことを考えた時に抱く悲しみは、私の知覚できる中でもっとも恐怖に近い感情だと思うの」

 カフカさんはそっと私を抱き寄せる。抵抗することもなく、彼女に身を委ねた。

「そうであるのなら、私は恐怖を知らないままでいいわ」

 それはきっと、彼女にとっての愛の告白だった。私はカフカさんの苦悩の一割も知らないけど、それでも。そう彼女が思ってくれるほどに、私の存在は大きいのだと思えた。

「私、突然この世界に来てしまったから。だから、いつか帰ってしまうかもしれないけど」

 そっと彼女を抱きしめ返す。少しだけ、彼女の体が震えたような気がした。

「それでも、叶うことならずっと。カフカさんの傍にいたいと思うんです」




粛々と愛で満たそう