水葬
『生き物は責任をもって育てましょう』
※かなり気持ち悪いです
鍵が回らなかった。
水道メーターボックスの中に隠されたものをいつもどおりに拾い上げて挿したのだから、鍵が間違っているはずはなかった。いちど、引き抜いてみる。ぶらさがったプレートに、四〇二、とたしかに書かれている。
灰色のドアを見つめながら、僕は考えた。ドアの見かけには重量感がなく、じっさい、ドアノブをひねるのにそれほど力は要らなかった。その軽さは、この団地に住まう人間の生涯の軽さをそのまま表しているように、僕には思えた。
鍵が回らないということは、何者かが鍵を拾ってドアを開け、そのままになっているということだ。
しばし考え、僕は踵を返した。スタンスミスが縞鋼板を踏んで、目線を上げると、夏の西陽が余命を焚くのが見える。こめかみに脂が滲むのを実感しながら、見降ろす町へと、一歩を踏み出した。
そのときだった。
背後で、がちゃ、と音がした。
思わず振り返る。
目を丸くした、男、否、男児、がこちらを窺っていた。ばっちりと目が合う。しばし時間が止まったように思われて、人肌を想起させる風が、ふたりの間を吹き抜けた。
ドアの隙間から首だけを出して、僕を見降ろしている。
紛れもない、四〇二号室のドアだった。
「ここのひとじゃないよね。どうして鍵の場所、知ってるの」
部屋に上がるなり、いきなり、彼はそう訊いた。靴下で踏みしめると、フローリングはいつもどおりに軋んだ。シンクやエアコンにビニールがかけられ、クリーニング済み、と張り紙がしてある。換気が不十分なせいか、不清潔な空気に前の住人の生活の気配が残っている。埃が夕陽に照らされてちりちりと舞いしきる。
僕は仕方なく口を開き、アパートやマンションの空き部屋の鍵が水道メーターボックスの中に隠されているのはよくあることだ、と述べた。
「ふうん」
彼は興味薄に相槌を打った。僕が何と答えようと、彼はきっとそういう反応をしただろう、と思えた。
部屋の真ん中で、彼が立ち止まった。勢い、僕もその場に佇んでいた。
「じゃあさ、あなただったんだね」
一転して、楽しげなくちぶりでそう言い、彼は僕を振り返った。色づいたくちびるが、花開くように笑みをかたちづくる。
僕はその晴れやかな笑みから目を逸らして、
「ハムすけに、餌、あげてくれてたの」
部屋の真ん中に置かれたそのケージに、昏いまなざしをあずけた。
くすんだ部屋の白壁に、斜めに陽がさしこみ、まるで幻灯のように、縦に長い二人分の影が投影される。蒸し暑さと蝉時雨が、膜をはるように僕たちを閉じ込めていた。
彼のちいさな掌の中で、灰色の物体が動く。幼い彼にも、力を込めれば握りつぶせそうだ、と僕は思った。僕たちが胡坐をかいて座している部屋の四隅にまで、その小動物が餌を齧る音は響いた。壁は薄いはずだった。けれど、「ハムすけ」が餌を前歯で削る音以外、なにも聞こえない。夕が宵を連れてくる時間だ。この時間帯から働きに家を空ける住民が多いのだろう、と僕は察した。
目を細めて愛おしげに小動物を眺めていた彼が、顔を上げた。
「もっと」
僕は学生鞄の中に手を突っ込み、市販の餌の袋を探した。と、鞄の中で、固いものに手が触れた。
構わず、餌だけを袋ごと彼に手渡してやる。
「ハムすけ、よかったなあ」
「ハムすけ」は、彼が手づから与えた餌をさっそく咀嚼している。
「なあ」
「たらふく食えよ」
「おい」
「お、ほお袋、いっぱいになってきた」
「おい、ったら」
煩わしげに、やっと彼はこちらを向いた。僕の言葉はため息まじりだった。
「俺、帰っていい」
「だめ」
「どうして」
「計画を立てないと」
「計画って」
僕は訊き返した。
「ハムすけの世話。いっしょにやろう」
僕と彼は、毎日、顔を合わせることとなった。すでに小学校が夏休みに入っているという彼が、昼、ハムすけに餌をやりに四〇二号室に立ち入る。そして僕が夕方、学校帰りに合流する。僕の中学が夏休みに入ってからは、昼と夕の当番を交代することも約束してしまった。
「お前が夕方まで残ればいいじゃん。俺が来る必要あるわけ」
翌日、陽の落ちた四〇二号室で、僕は彼にそう漏らした。
「だって、あなただって」
と彼は言いかけて、
「あなたの名前、なんですか」
と尋ねた。僕はしぶしぶ答えた。
「伊織です」
「いおり、いおりもさあ、心配で見に来てたんでしょ、ハムすけのこと」
僕はすこし、言葉に詰まってしまった。
心配。
彼が大きく瞬きをして、僕の顔を見つめていた。僕は肩をすくめてみせた。
「まあね」
「でしょ」
「こいつ、ここに連れてきたの、俺だし」
彼は目を丸くした。
「ほんとう」
うん、と僕がいらえると、彼は無邪気に身を乗り出し、もっとくわしくはなして、とせがんだ。
「ハムすけ」は、この団地のすぐそばにある公園に捨てられていた。拾ってください、と貼り札がされたプラスチックのケージごと、ベンチに放棄されていたそれを、雨風がしのげるとはとても思えないケージの片隅でぶるぶると震える小さな命を、たまさか放課後の暇を飽かすのに用いていたこの空き部屋に、僕は持ち込んだ。つい一週間前のことだ。
「じゃあ、いおりはハムすけの命の恩人だね」
彼がそう言って、笑った。
その頬が陽の色に染まったように見えて、その和毛のまばゆさに、僕は、はっとした。
真、のつく夏だ。シャツの中、背中に汗が流れて、僕はすべてを理解していた。
彼は僕のことをよく知りたがった。僕が彼の質問に答えるたび、目を輝かせたり、えっ、と驚きの声を上げたり、ころころとその表情を変えて、きりがなかった。
「いおりは、ハムスターはすき」
声変わり前の甘ったるい声が、僕に問いかける。
僕が彼になにかを問いかけることはほとんどなかった。彼に興味がなかったからではなく、彼を眺めるのに一生懸命で、彼が勝手にしゃべってくれるのならその方がいいと思ったからだった。彼が僕になにかを問うときに、色づいたくちびるの中から赤い粘膜が覗いたり、僕を上目に見上げる白目がつやつやときらめいたりするのを見るのが、僕は大好きになった。
「ねえ、ハムスター、すき」
「嫌いじゃない、ってくらい」
「えー」
彼は子供らしくくちびるをとがらせた。僕は思わず笑ってしまう。彼の長いまつげが、束になって、やわらかな天使の頬に影を落とす。その奥で、西陽に刺された彼の虹彩が琥珀の色に透って、吸い込まれるようだった。
「じゃあ、心配してくれないの」
「なにが」
彼がケージの中に手を伸ばし、ゆっくりと戻すと、灰色のかたまりが、その中に収まっていた。
彼の手にうずくまる命は、長いひげをひくひくと動かし、彼を慕う仕草でらんらんと目を光らせた。彼はその耳の辺りの、ブルーグレーの毛をすこし逆撫でて僕にみせた。
「このあたり、ちょっと、毛が抜けてるの」
僕はその手の中身よりも、それを僕に見せる彼のことを見つめていた。
「病気かなあ」
「だいじょうぶだよ」
僕がそう言って微笑むと、彼の無表情に力ない笑みが滲んだ。僕は、背中から駆けあがってくるような興奮を抑えられなかった。
あたりはしん、と静まり返り、涼やかな夜気が、肺いっぱいに酸素を取り込むことを僕に許した。その夜、いつものように僕は四◯二号室に忍び込んだ。ぱたん、とドアが閉まる。回し車ががらがらと音を立てているのも、毎晩のことだった。
僕はケージに近寄り、膝をついて中身を観察した。「ハムすけ」は活発に動き回っている、ように見える。けれど、じつは、僕がここに連れてきたときより、かなり動きが鈍くなっている。
僕はケージの蓋を開け、それを手のひらに乗せた。
ハムスターを持つときは、よく伸びる首の後ろの皮を引っ張るようにする。そのように持つと、ハムスターは無抵抗になる。
僕はその首根っこを、思い切り引っ張った。
やわらかい、皮の感触。膚は薄いけれど、しっかりとした弾力があり、内側がつるつる滑るのがわかる。そこが血肉を覆う部位であることを、動物の身体の内側を間接的に触っていることを、僕に思わせる。
僕は右手に注射器を持ち直した。
ひと息に、その首に、針を刺す。
ぷちぷち、肉の繊維を針が潜っていく感覚。薬剤が半分ほど減ったところで、ギギッ、と鳴いた。こいつはいつまでたっても、薬剤投与に慣れなかった。
注射器の中の薬剤をすべて打ち終えると、ハムスターを鞄の中に放った。
外に出ると、やけに暗かった。僕は空を見上げた。
月が出ていない。月も、僕を見ていない。
僕は昔から、生き物が好きだった。小説より図鑑をよく読んで、夏はカブトムシの標本を作り、春が来たら蝶の体躯をピンで板にとめた。
僕はかなり幼いうちに、生き物の、内側に興味を持ち始めていた。物心ついたときから、両親のスマートフォンを用いて、動画投稿サイトで未熟児の解剖やサルの脳の解剖の一部始終に釘付けになった。
歳を重ねるごとに、とくに、美しいもの、愛らしいと思うものの内側を、知りたい、と思うようになった。こじ開けて、その中身を、すべてを知ったら、思うままに支配できるだろう。所有したい。みずからの手で。その欲望は、日を追うごとに、腹を空かせていった。
結果、僕はちょうどよいサンプルを見つけた。
鞄からそっとハムスターを取り出す。
つぶらな黒い瞳が、僕をじっと見つめていた。体の震えが、重みが、その内側にぷりぷりと蠢く臓器を思わせる。
演者は多い方が、盛り上がる。
彼によって、ハムすけ、と名前のつけられたこいつは、しかし、僕が見るかぎり、紛れもないメスのハムスターだった。
僕は、あらかじめ用意しておいたオスのハムスターを、「ハムすけ」と同じケージにしまった。
彼はひどく驚いた顔をした。
「じゃあ、ハムすけは」
僕はいかにも神妙ぶって答えた。
「俺の友達が、引き取ることになった。最後まで言い出せなくて、ごめん。ハムすけには、もう、会えない」
ううん、と彼が首を振る。殊勝なことに、彼は薄く笑んだ。その横顔に透ける青白い血管を、僕は夢中になって見つめていた。
「ハムすけも、そのほうがきっとしあわせだ」
僕はうん、とうなずいて、穏やかに笑っていた。
次の言葉を、彼が発するまでは。
「じゃあ、いおりとも、もう、さよならかあ」
僕は思わず、がばっ、と身体ごと彼の方を向いていた。
「え」
まるで、氷水が背筋を伝っていくみたいだった。
僕は大切なことを見落としていた。彼は、僕だけのサンプルではないのだった。
僕はその瞬間、次にするべきことを、完璧に把握した。
息を小さく吸って、告げた。
「三週間後の今日、ここにきて」
「えっ」
「ハムすけに会わせてあげるから、きて」
うまくいけば、僕はふたつのものを同時に得ることができる。
彼を連れて自室のドアを開けると、押し寄せる薬剤の臭いに彼が一歩退いた。理科室から盗んだものや海外サイトから取り寄せたもの、様々な薬品の瓶が、異様な臭気を発しながら、スチールの棚に並んでいる。真昼なのに暗い部屋。薬品の刺激臭の奥から、かすかに冷房の匂いがしている。「ハムすけ」が一時的に僕の家に来る、という誘い文句に呼び出された彼は、遮光の黒いカーテンがひかれた僕の部屋を前に、明らかに委縮していた。
僕はそんな彼の手を引いて、かまわず窓際に向かった。
「ほら、ハムすけだよ」
彼の表情が、ぱっと晴れた。
「ハムすけ」
二つ並んだケージのうち、布をかぶせていない方に、「ハムすけ」はしまわれていた。四〇二号室で「ハムすけ」を飼っていたころと同じケージだ。
僕は、もう昂ぶりを抑えきれずに、彼に告げた。
「じつは、ハムすけは赤ちゃんを産んだんだ」
「えっ」
彼の顔に、驚きと、たしかな喜びの色が広がった。
僕は内心で哄笑する。
「ハムすけは、じつは、女の子だったんだよ」
「赤ちゃんは、ねえ、早く見たい」
食い気味にそう言って、彼は僕の服の袖を引っ張る。
待ちわびた瞬間だ。
僕の指先は、微かに震えていた。
隣のケージを隠していた布を、震える指で、そっと、取った。
ケージの全貌があらわになる。
その真ん中。
まだ体の小さな、毛も生えそろっていないハムスターが六匹、おが屑を身体にまとわりつかせて、蠢いていた。
彼が小さく息を呑んだ。
そのハムスターたちには、眼球が、四つあった。本来目がついていないはずの顔面の中央の空白に、黒光りする瞳が宿っているのだった。
僕がいちばん気に入っていたのは、脚だった。この個体は、脚を失くすことに成功したのだった。その成果があって、ハムスターたちはアメーバにも似た原始的な美しさを醸し出していた。
生まれるまで、僕にもどんな奇形が現れるかわからなかったが、結果的に薬剤投与は大成功だ。僕は誇らしい気持ちでいっぱいだった。
僕は彼を見やった。その顔色は、暗がりでもわかるくらい、真っ青だった。
大きな目から、涙が溢れる。感情がこぼれて、というより、ただ水の落ちるような、涙だった。
「やだ、こんなの、こわいよ」
彼は涙を流しながら、言うと、かち、と奥歯が鳴った。震える声が、さらに続ける。
「気持ち、わるい」
僕は告げた。
「お前のせいだよ」
彼がひどく衝撃を受けた様子で、僕を見上げた。
彼に言うべき、たったひとつの冴えた台詞は、するすると僕のくちびるの端を滑った。
「ハムすけはずっと前から、妊娠していたんだよ。それなのにお前が、部屋に入るたびに、べたべたとハムすけに触っただろ。握るみたいにさ。そのせいで腹の中の赤ん坊が、潰れてこんなことになったんだよ」
彼の薄くあいた唇から、意味もなく、ひゅ、と空気が漏れだす。
「お前がこいつらを生んだんだよ」
彼の目が、眼球がこぼれ落ちそうなほどに大きく見開かれる。
僕はあふれるように笑って、その耳元にくちびるを近づけた。
「いっしょに、最後まで育てような、ママ」
囁いたとき、彼の細い手首が、目についた。
ケージにじゅうぶん収まりそうな、あえかな、細い手首が。