水葬
『朝陽』
「動いてるよ」
目の前に椅子があるのだから座ればいいものを、収まり悪そうに屈んだ姿勢で、彼女はレンズを覗く。
「ゆーはさ」
耳から脳みそが流れ出しそうな強い眠気を堪えながら、うん、と相槌を打ってやる。眠気、だけではない。風穴の空いたような虚無感。脳髄がかさかさするせいで、凭れかかった砂壁の硬さすら、今は全く気にならない。
彼女の方を見やる。突き出た丸い尻。
僕の方を見向きもしないままの、甘く掠れた声が、いとけなく問いかける。
「どうして顕微鏡なんか持ってるんですか」
どうしてでしょうねえ、と答えた声はあくびまじりだった。僕の目の焦点は、万年床に投げ出されたミッキーマウスの柄の毛布に、意味もなく固定されていた。続きの居間に付けっ放したテレビの猥雑なひかりが、電灯をつけないままで夕と夜のあわいの群青に沈む部屋全体に、ちかちかと色彩をもたらす。
僕はふたたび彼女に目を戻した。
「いいから、パンツ履きなよ」
うん、といらえたまま微動だにしない彼女にため息をつくと、僕は畳に落ちたコンドームの口を縛って、残りの精子ごとゴミ箱に投げた。
壁に貼った野球選手のポスターが捲れかけているのが目につく。
もうひとつ、ため息をついた。
「僕の精子、そんなおもしろい」
「うん。だって動いてるもん」
「ミジンコだって動くよ」
彼女は、そこでようやく僕の方を見た。透明なまなざしは、罪のない子供を思わせる。
その丸い唇が開いた。
「ミジンコってなに」
大きな目が、ひとつ、瞬く。
不思議そうに首をかしげる。
それは僕も同じことだった。
「お前、高校どうすんだよ、まじで」
「わかんない。ゆーみたいに頭良くないし」
心までもが乾いてくるのを感じて、僕は、口を噤んだ。彼女はきわめてどうでもよさそうに、ふたたび顕微鏡を覗く。
なにかを振り払いたくて、痒くもないこめかみを掻くと、かぶりの向きをテレビの方へ、ゆるやかに移した。
暗い室内に、小さなテレビの光線だけが眼窩を痛めつける。
そういう特集だろうか。中学受験を目前に控えた小学生が、学習塾の長机に向かって殊勝に鉛筆を動かし続ける映像が流れている。頭に巻いた日章旗の鉢巻が、日出づる国日本の未来は僕たちが担います、と言いたげだ。
僕はその赤い丸をぼうっと見つめていた。
意識の端で、そういえば、と僕は思い出す。そういえば、やりかけの参考書を今日はやってしまわないといけない。
考えごとに耽るとき、僕は厚い膜に覆われたようになってしまう。いつもそうだ。
だから、彼女に呼ばれているのに気がついたとき、そのひときわ大きな声が
「ゆー」
僕を突き刺したように思えた。
僕は驚いて彼女を見上げた。
「そろそろ帰るね。おかあさん帰ってくるでしょ」
僕がああ、ともうん、とも言わないうちに、彼女は下着を身につけ、服を着て、鞄に荷物をまとめた。
いちど、僕が、親、そろそろ帰ってくるから、と言って彼女を追い出して以来、彼女は決して僕に、帰って、とは言わせなくなった。十七時のパンザマストが町に鳴り響くと、まもなく彼女は帰ってしまう。
その頃になって、いつも僕は、彼女の体温が惜しくなる。
じゃあね、と言い残して立ち去る彼女を、僕は布団の上で膝を折ったまま見送った。
とつぜん、部屋が広くなった気がした。
けれど、須臾の間のことだ。僕はすぐにうとうとし始めた。目蓋が降りてくる。春の雨に優しく包まれるような、まどろみの心地よさに身を委ねる。
「ゆー」
はっとした。
彼女の姿は、襖の陰に隠れたまま、見えない。テレビの灯りを背に、床に長い影が伸びるばかりだ。
なに、と寝起きの僕のすげない声がいらえる。
襖の向こうで、気配が口を開くのが伝わった。
「いつか、ゆーにご飯作ってあげるね」
遠ざかる足音を、ぼんやりと聞いていた。