水葬


 彼は水のようなひとだった。
 便箋を見つめる。人を形容するためのいかなる言葉を使おうと、あの頃の彼を切り取ることはできない。
「結生、先生がおっしゃってた警察の方、いらしたわよ。あなたの部屋にあげてもいいかしら」
 あの頃の記憶を辿るとき、僕はいつも夏の盛りの只中に引き戻される。それも夏の夜だ。
 ひるなかの太陽に照りつけられたアスファルトが、辺りが暗くなってもまだ熱気を孕んで、涼やかな月明かりをも燻らせてしまう。頬にまとわりつく風はべたべたと粘っこい。
 そういう時分にいつの間にか立っているのだった。
 封をするように、おもむろに目を閉じる。
 無色に透き通った彼の姿が、濃紺の空に、とろりと生ぬるい夜気に、まるで植物のように不安定に揺らめいている。
 彼と過ごした時間は秋から冬にかけての半年あまりのはずである。だから、空想の盛夏の景色に、溶け入るように彼が立っているのは不思議なはなしだった。
でも、僕にはそのわけがわかっていた。
 水。
 彼の手はやわらかくて、それでいてつめたかった。思い返せば、そのことで僕はいつも、自分の掌を血が巡っているのだと実感を得ていた。彼と手を繋ぐと、まるでふたりでつめたさに生き熱に溺れているようで、息苦しくなった。
 その息苦しさこそが、夏の夜に似ていたのだった。
 閉じた目蓋の裏が、にわかに花開くように、赤く染まる。血管を透かす、ひかりの色だ。
 僕は目を開けた。
 今日は朝から蓋をするような曇り空がわだかまっていたが、今しがた、雲間が裂けて陽が覗いたらしい。窓の外は三月上旬の午後らしい、幻めいた春の色に染まっていた。
「結生ってば」
 僕はゆっくりと立ち上がった。
 読書灯がうろたえて瞬きをするように高速で点滅した。電球が切れかかっているのだ。
 桜が咲くまでもたないだろう。


 今にして思えば、その味は草いきれの匂いに似ていた。 
 炎暑に蒸された植栽や、雑草の生い茂るそばを通ると、むわっと立ちのぼる、あの匂いである。視神経を撫でるような鮮やかなみどりとはうらはらに、腐乱をも想起させるその臭みはどこか湿っぽい。電車を乗り継いで高校へと通う毎日に、久しく忘れてしまっていたけれど、地元の中学に通っていた頃は、川沿いの通学路を蚊柱とあの匂いに巻かれながら歩いたものだった。
 深いキスの味は、草いきれの匂いに似ている。
 唾液を流し込むごとく奥深くに侵入する舌を受け止めると、ぬるり、と蠢くあつい感触に、溶かされた吐息は鼻から抜けていく。
十六歳。八月の終わり。僕は三十搦みの女とラブホテルにいた。
 間接照明は、部屋の四隅を写真の周辺減光のように暗く切り抜いて、空間の中央のみを薄ぼんやりと橙色に染めている。この部屋で交わった熱の数々がいつまでも部屋に居座り、空気をあわく染め上げているかのような色だった。僕はこの部屋に来るといつも、眠れなくて不安の掌の中にすっぽりと収まってしまっていた子供の頃の夜を思い出す。外気を纏った服から滲む無機質な匂いと、部屋に残る仄かな煙草の香が混ざり合って、不安の気配をつくっているのだと思う。
 舌と体温が退き、ようやく酸素らしい酸素を吸うことを許されると、僕は彼女の裸体を覆い隠すバスローブの袂から差し入れた右手を、その艶のある白い膚に這わせた。僕と向き合って座す恰好をとった彼女は、やわらかな手つきで頭を撫でてくれる。僕は、彼女にそうされるといつも、時間がゆったりと流れているような心地がする。
 いつだったか、コウくんの髪撫でてると思い出すのよ、昔飼ってた犬をこうやって撫でたなあって、と彼女は口にした。犬と一緒にされることはいささか意に沿わないけれど、とにかくそれほどに、彼女は僕の頭を撫でるのが好きらしい。思い返せば、初めて会った時からそうだ。
 中学三年の、やはり夏、であった。
 あの夏、僕は真ん中にいた。
 携帯電話からアクセスしたそれは、援助交際専門の掲示板だった。主に女性(稀に男性)が金で買える男を探す欄に、その書き込みは並んでいた。
 当方三十代女性、都内、月三回のペースで大人できる(セックスする、の意)定期様募集。ホ別三(ホテル代別途に、セックス一回につき三万円貰えることになる)。
 僕はその書き込みを見て即座にキーボードを叩いた。
 当方中学生ですが、よろしいでしょうか、172/53(これは僕の身長/体重で)、P17(これは勃起した時のペニスのサイズが17cmという意味だ)、よろしくお願いします。
 ハンドルネームを入力する欄に、すこし迷って、コウ、と書いた。
 彼女の乳首を愛撫する。彼女は吸ったり噛まれたりするよりも、軽く掠めるように舌を往ったり来たりされるのが好きだった。金で買われる立場として、雇い主の趣味はしかと押さえておきたい。余裕たっぷりで優しげだった目の色が、焦がれるようなものに変わっていくのには、僕も満足してしまう。
 僕の書き込みからすぐ、彼女から返信があって、その週末の十三時に京王線新宿駅の改札口で待ち合わせることになった。
 僕は事前に伝え合っていた服装の特徴をもとに、流れゆく人の隙間を、あるいは頭の上を覗いて、改札前に立ちどまる幾人かの中に彼女を探していた。すこし離れた券売機の前に立って目を凝らし、人波に押し流された残留物のように点在する人々の服装を素早く見極める。その間も構わず目の前を横切っていく人の姿に、何だか水族館で魚の群れを眺めているような気分になってきた。あらゆる危うさを孕んだ逢い初めに、僕の気はたしかに高揚していた。
 淡い青のサマーニットに、長い丈の白いスカート……を身につけた人物は、すぐには見つからなかった。
 しだいに人通りは少なくなる。やがてとめどなかった人の流れはほぼ途絶えた。
 電話で誰かしらと話しながら歩いてくる男性が、目の前を横切る。
その時だった。
束の間。
 僕を取り囲んで追い立てるように、真っ白な静寂が訪なう。
続けて、氷柱に突き刺されたような、鋭い緊張にとらわれた。
 彼女だ。
 泳いでいた僕の視線が惹きつけられたのは、彼女の唇の赤色だった。音を立ててきつく嵌まったかのように、僕の目をとらえたまま離さないその赤に、僕はなぜだか、彼女が彼女であることを疑う余地はないような気がしていた。
 須臾の間、そうしていたように思われた。ようやく遠くに、先ほどの男性が電話の先に語りかける声を聞くことができた頃、その声が遠ざかっていくのを意識しながら、僕は自身の胸の裡がこんなにもひりひりしていることを、疑問に思っていた。
次の電車が到着したのか、遠くから足音のかたまりが近づいてくる。しだいに勢いを増す人の流れを縫うように、彼女がそろそろと歩み寄ってきて、時間は解けた。手のひらにかいたつめたい汗を握って、僕がコウと名乗ると、彼女の香水が誘うように匂った。赤く塗られた唇が、きゅっ、と結ばれる。
背中がぞわりと泡立つ。
 風に揺らされるような、それは、微かでもたしかな、恐怖だった。
 情事の最中、まったく関係のないことを考えてしまうのはなぜだろう。遠く離れてもう手繰り寄せることもないだろうと思っていた記憶が、糸引きくじのように、ふいに目の前に迫ってくる。
 今思えば、と僕は考える。今思えば、正常だったのだ。まだ、あの頃は。自分の体を投げやりに扱うことに、身が凍るような緊張と恐怖を覚えるほどには。
 けれど、もしやり直せたとしても、僕はまた彼女に会いに行くだろう。
 彼女とするときは、義務付けられてでもいるように、必ず彼女が上に乗る。規則的な律動が引き出すそれは、眠ってしまいそうな健全な気持ちよさから、氷が溶け出すように、徐々に快楽へと変貌を遂げる。意識が揺れながらとろけ始め、快感がきつくこみ上げてくる。
 うう、と声が漏れて、僕は此岸を離れた。
 ぎゅう、と瞑っていた重い目蓋を持ち上げると、満足そうに笑った彼女の唇から、白くて整った前歯がのぞくのが見えた。
身体が離れ、僕は上体を起こす。しばらくの間、ぼうっとしていた。
枕元からティッシュを二枚引き抜きそこを拭っていると、ふいにベッドを降りた彼女がボストンバッグの中を漁り始めた。
「どうしたんですか良子さん」
 眠気が声色にあらわれてしまう。
「今日はこれもコウくんに使おうと思って。追加でおこづかいあげるからさ」
 良子さんは、あった、と小さく呟いて、バッグの中から手を引っ張り抜いた。
人工的に赤く染め上げられた麻縄が、持ち主の有無を言わさない意思を存分に発揮させながら、握られていた。


 九月と聞くと、熱気も散り、群青の風が樹々の間隙をさやさやと吹き抜けるさまを思い描いてしまうが、実際のところ、日盛りに気温はまだまだ高く、アスファルトの灼ける匂いに眩暈のするような日が続いている。
 満員電車から降りると、ホームの自動販売機でつめたく冷えたジュースを買った。一口飲み下し、ボトルを首筋や二の腕に当てて熱を冷ましながら改札に向かう。暑日の通学時の習慣だった。それも一学期の終業式ぶりなので、なんだか懐かしい感じがするが。僕は財布をポケットにしまった。今日は週初めなので母が一週間分、三千円の昼食代をくれた。そのため、財布はポケットの中にすこし重たく存在感を主張している。
 改札を抜けて茹だるような暑さの中を歩き出すと、途端に汗が滲んでたらたらとこめかみをつたった。新宿区、のはずがこの辺りはわりに田舎くさい。コンビニに入るには駅から離れて商店街に向かわなくてはならないし、放課後に寄り道できるような書店やゲームセンターは一軒もなかった。学校を通り過ぎてまっすぐ十分ほど歩けば新宿駅東口側の歓楽街に繰り出せるのが信じられないような鄙びようである。学校に近づくにつれて増えてくる生徒の姿も、陽炎のなか、どことなく気怠げに伸び切っていた。
 正門をくぐると校舎までは勾配のきびしい坂道が伸びている。舗装された地面が膝に負荷をかけてくるのを感じながら、垂れてくる汗をハンカチで拭き、とろく歩みを進める。それでも今日はホームルームと始業式のみで解放されるので鞄に教材を詰めていない。歩くたびに鞄の中で筆箱が踊るかたんかたん、という音だけが、寝不足の心身に嬉しかった。
 昇降口で上履きに履き替える。学校という建物は埃っぽいわりになぜか壁も床もひんやりとつめたく冷えている。尊大な夢やら短絡的な怒りやらでいつも顔を赤らめている動物たちをひとまとめに冷却するためだろうか。女子の突き破るような甲高い声と男子の這うような低い声がないまぜに交差して耐えがたい喧騒として鼓膜をふるわす。ときおり聴こえてくる断片的な言葉の数々は、乱反射するひかりを撒き散らしながら無分別に砕けて散りゆくプラスチック破片のようだった。
「この投稿うちらだけタグ付けされてないんだよねー。ねー、これはないっしょ」
「可愛くてエッチ下手な子とまあまあでエッチ上手い子だったらさあ」
「バ先の先輩の家に入り浸っててー。課題やってないんだよねー。オワリだよ、クズすぎ」
 うるさい。うるさいうるさい。全員殺したい、と思いながら顔を伏せる。鞄の持ち手を握る手にぎゅっ、と力を込めると、短く丸い爪は薄紅色から白に、恨めしげに色を失くした。
 目を瞑っていても辿り着けるであろう教室の自席につく。椅子の金属部分の感触が手のひらに痛かった。机からたつ古い木材の匂いにうんざりしていると、ほどなくして担任が入室しホームルームが始まった。
 僕は黒板を背に立つ担任の顔からわずかに視線をそらし、なにもなければどこでもない空白を見つめていた。
 視界の端、窓の外を埃のかたまりのような雲が流れて、教室は影の色の中に沈む。
 生は、あの空のように続きゆく。穏やかに、果てしなく、退屈に、救いなく。
 そっとため息をついた。
そのとき、担任が入り口に向かって手で人を呼ぶしぐさをした。
 僕はゆるやかに目線を移す。
 開いていた引き戸から、ひとりの男子生徒が入室し、黒板の前、教卓の横に立った。
 耳にかかる長さの黒い髪が、頭のまるさとほっそりとしたおとがいを際立たせるように、まっすぐに下りている。白いシャツに包まれた腕や襟から覗く首は線が細くて生白い。
 それでいて彼が自身を貧弱そうに見せないのは、その立ち姿ゆえだった。肩にかけた鞄に添えられた両手や、踵をつけて開いた足先に、快晴にも似た健全な気高さをおぼえる。
 担任が転入生の彼に自己紹介を促す。僕は窓際の自席から頬杖をついてその姿を眺めていた。
 彼の唇が薄く笑みをかたちづくる。ひと呼吸おいて教室を見渡してから、その唇が音を発した。
 彼の声は特徴的だった。男子にしては高かった。発音に透き通るような明瞭さがある。そのことですこし一方的な感じがした。
名前と趣味を述べるまでの簡素な自己紹介が終わる。クラス一同は歓迎の意味を持たせて拍手を送った。僕は顔を逸らし、窓外を流れる白雲と、そのガラスに映った自分の面差しを眺めた。生気のないまなざしにスカイブルーが透けている。先ほど通った灰色の大きな雲は、もう彼方に過ぎ去っていた。
「じゃあそこの、廣瀬の前の席に座って」
 いきなり名前を呼ばれて、肩が跳ねそうになる。
 顔の向きはそのままに、僕はもう空模様など気にしていなかった。机上に放っていた頬杖をついていない方の手を、なにか手繰るように軽く丸めてしまう。
僕が他所を向いていたことを、担任は咎めるだろうか。
どうしようもなく胸が泡立つのを感じる。それは怯えではなく、期待に近かった。
僕は意識してゆっくりと瞬きをした。青、黒、青、と視界がちかちか切り替わる。
けれど、青が僕の浅い呼吸をほとんど飲み込みかけた頃、教室に響いたのは、彼の、
「はい」
というほどよい返事のみだった。
 据わりの悪くなる思いがして、僕は前方に向き直った。
 彼が近づいてくる。机と机の間、人と人の間を、あからさまな、もしくは密やかな視線を受けながら通ってくる。教卓からその席までの目と鼻の先に迷いも何もないものではあるが、彼の歩き方は他人に有無を言わさないような、彼自身の意思を強く感じさせるような、不思議な、まっすぐとした歩き方だった。
 彼が僕の目の前の席にたどり着いた。椅子に腰掛けるために、僕からは背中が見える格好になる。
 僕は彼の背中の白地が皺を寄せたり伸びたりするのをぼうっと見ているのもなんだか違う気がして、手元に目線を落とした。
 そのときだった。
「あの、先生」
 一陣、水色の風が立った。
 一同がはっとして顔を上げた。
 彼が声を発したのだった。あの鋭いほどよく通る声だ。
 名簿を開きかけていた担任も驚いたように彼の方を見ていた。が、すぐに経常どおりの顔つきに戻ると、
「なんだ。どうした」
と彼に声をかけた。
 教室の空気がぴん、と背筋を伸ばす。その場にいた人間がみな、彼が唐突になにを言い始めるのか待っていたし、僕も例外ではなかった。
 彼は薄く唇を開いて、言った。
「誰かの席ではないですか」
「えっ」
「ここ、ほかの誰かの席ではないですか。ここに名前が」
 彼が覗いてみせたのは椅子の背の裏側だった。椅子をひいたらちょうど手がかかる部分だ。
 このクラスでは、その部分に名前と出席番号を書いたシールを貼ることになっていた。彼が軽く持ち上げた椅子のそこには、十五番、松崎、と書かれている。
 松崎は四月の中頃から一度も学校に来ていなかった。初めは通用していた、体調不良、の四文字も次第に白々しいものになり、このクラスの生徒は、きわめて前向きに、新しい常識が音もなく浸透するときのように、松崎という存在を忘却していた。
 そのような都合があり、担任は転入生の彼に松崎の席に座るよう指図したのだ。教卓の方に目を移すと、眉を寄せた担任は彼の手にある椅子を、あるいは彼を、煩わしげに見ていた。
「あー、その席なら使ってしまって構わないから。大丈夫大丈夫」 
 その口ぶりは、なにか事情が存在することを思わせた。担任はもしかしたら、松崎と直接に連絡を取り、転校もしくは退学する意向をうかがっているのかもしれない、と僕は思った。
けれど、彼は間髪入れずに、ですが、と口を開く。
「誰かの席を無くすのは良くないと思います。今日は事情があって欠席しているかもしれませんが、この席の彼もこのクラスの一員ですよね。僕がここに座るということは、それを蔑ろにする行為だと思います。先生、それでもいいとおっしゃるのですか」
束の間、教室が水を打ったような静寂に浸される。
全員が呆気に取られて彼を見つめていた。頭の奥でしん、と音が聞こえるような、そんな空気だ。
次いで、雪解水のしたたるように、徐々に空気が淀んでいく。
担任は狼狽えていた。生徒には、眉を顰める者、堪えきれず、または堪えようともせず歪んだ嗤いを浮かべる者もいる。
好奇に満ちた、もしくはひどく厭わしげなクラス一同の視線が、ただひとり、彼に集中する。
 やがて、平静を取り戻した担任が、言葉尻を濁しながら、渋々といった様子で、
「じゃあ、ええ、廣瀬の、後ろに。机と椅子は後で取りに来い」
と彼に投げかけた。それを合図にしたようにチャイムが鳴り、ホームルームは終わった。
 教室がどよめき始める。どこからか、女子のなにあの子ー、という声が球を投げたように届いた。彼は机と椅子を取りに向かうのか、素知らぬそぶりで教室を出て行った。僕は彼の姿が廊下に消えてしまうと、何食わぬ顔をして鞄の中からジュースを取り出し、ひとくち飲んだ。ごくり、という音とともに、彼の声の残響が脳内を反復する。
突き刺すような響きをもつ声だった。
 眩しさに目を細める。
 思わず窓の方を見やると、空にはいつの間にか雲ひとつなくなって、ひかりが降り注いでいた。
生きづらいやつ。
 太陽に呟いたつもりが、ジュースの甘さとともに口の中に残った。


 翌日の三限目と四限目は水泳の授業だった。
 更衣室で制服からジャージに着替え、プールサイドへ向かう。
 三日前に良子さんとしてから、身体の至るところが痛むうえに、スポーツとは無縁で日焼けのない肌に、縛られた跡がくっきりと浮かび上がっていた。僕はここ三日間、風呂に入ろうと脱衣所に立つたびに、蛇のように身体のぐるりを這うその跡を呆然と眺めていた。
そのため、授業は水着を忘れたふりをして見学することにしたのだった。
 プールサイドにはまだ誰もいなかった。風が吹くと塩素が匂いたつ。鮮やかな水の色は網膜に焼き付くように、どこか毒々しい。
 はだしの足に灼けた地べたの感触をうけながら、日除けが落とす長方形の影のもとに、腰を下ろそうと屈んだ。
 僕は一驚に声を上げそうになる。
 日陰がかたちづくる、ひと区画の低彩度。
 その片隅に、彼がいた。
 喉元まで出かかった短い声を飲み下し、平静を装いながら、膝を抱えて座す彼とすこし間隔を開けて座る。まさか既に人がいたとは。
と、彼は寸刻、こちらを見た。とくとく、と鼓動が早まる。僕は、話しかけられたらどうしよう、と心の裡に汗をかいていたが、彼は黙ったまま目線を自身の骨っぽい足に戻した。
 やがて、授業が始まった。
 ビニルの地面が焦げる匂いが、飛び散った水滴に蒸されて立ちのぼる。体育教師の吹く笛の音、シャワーを浴びに走る生徒の足音が、どこか遠くに聞こえる気がする。
切り分けられた世界での出来事のように、すべては滞りなく進んだ。僕は目の前を過ぎていく事象と同時に、地球の裏側の人々の生活までもがゆくりなく進んでいくのを、目の当たりにしているような感覚に陥る。いつもそうだ。客観してしまうといたって単純に見える。一歩退いて俯瞰するとこうも事もなげに見えるものか、と思う。高校にあがって、授業をたまにさぼるようになってから気づいたことだ。
さぼることは、僕にとって諦めることと同義だった。溺れていた海で自身の体がとつぜん魚に化したかのように、僕はあまりに違和なく、どこか受け入れるように、諦めてしまった。
 ぼうっとする。
 担任は時折、僕を呼び出しては問いただす。お前は中学にいた頃は早退、遅刻は一度もなかったそうじゃないか、と。それが今になって、どうしてそうなる、と。
けれど、僕には今の僕のすがたが、ごく自然なもののように思えていた。
 なぜだろう。
 ときおり、水飛沫が僕の足にかかった。そんなことは毫も気にならなかった。視界に靄がかかったように、否、正確には視界を視界と認識する部分が靄で包まれたように、白く薄れてゆく。
 くる。
 僕にはわかっていた。それがくる時はいつも。それがくると、頭がじいん、と痛くなって、全ての音が遠ざかる。僕はある記憶を呼び起こす。何度も何度も、フィルムを取り出しては巻き戻して再生するように。いつか本で見た、その光景のみを思い浮かべる。それは僕の創造した光景とふくざつに折り重なり、やがてまったく新しい像となって克明に心の幕に映し出される。
 僕は立ち上がる。歩み寄って、服が濡れるのも構わずプールに足から浸かる。なかば飛び降りるような格好だった。大きな音を立てて、飛沫が散る。僕が飛び入った時。その瞬間に発生した大きな音より、飛び散った水の一粒ずつが真っ赤に塗装されたプールサイドに着地し、ほどなくして染み込んでゆく、じゅっ、という音の方が、僕の耳には鮮明に届く気がする。僕は波を立てながらぐいぐいと進み、ひとりの小柄な男子生徒の前で立ち止まる。彼の目つきはゴーグルに隠されているけれど、僕を訝しがっているのが、引き結ばれた口の表情から読み取れる。水の中で、制服姿の僕と、水着を着た男子生徒とが、対峙している。教師も周りの生徒も、何が起こっているのかわからないままだ。僕はジャージのズボンのポケットの中を探り、そこにあるものを確かめるように握る。
 ちりり、と鳴る。
僕の人生が、潰える音だ。
 僕は刺した。ひとおもいに。ぐっと力を込めて柄を握る。プールの水に、僕の手の中のカッターナイフは揺らめいて見える。僕は表情を変えずに、それを行う。けれど、その裡で僕は後悔する。その男子生徒の、ゴーグルを予め取っておかなかったことを。男子生徒が目を瞑ったか、見開いたか、生理的に涙が溢れたか、細かな表情が読み取れない。ただ、その唇はなにか大きな塊を飲み下そうとして取り落としたかのように、いびつに歪む。遅れて、その腹部を押さえて呻く。僕は引き抜いた。彼岸花のようなかたちに、赤が噴いた。青の空間に鮮血が咲く。ゆらめいて、混ざり合う。かたまりの血と、水に溶けて薄まった血が揺蕩いて、僕のジャージの白いTシャツを染めていく。僕は続けて首筋に刃を立てる。今度は、自分の行為を確かめるようにゆっくりと刃を進め
「くん」
 はっと我に帰った。
 なにかを隠すように、ポケットの中のカッターナイフから手を離す。
ねじ切るように大きくかぶりを振って声のした方を向いた。
 彼だった。
かすかに聞こえた柔らかな言葉尻とはうらはらに、鋭く射るような瞳で僕の目をとらえていた。黒い髪が風に遊ばれている。
「廣瀬くん」
 まじまじと、心中まで見透かそうとするような視線だ、と僕は思った。
プールの方からとつぜん日陰にあずけた目が、ちかちかと弾けた気がして、僕は目を逸らした。彼は制服のままだった。シャツの白がぱりっ、と乾いている。
 目線を外したまま、僕はなんとかいらえた。
「なに」
「放課後、学校の中を案内してもらえないかな」
 僕は思わず、彼の目を見てしまった。瞳の強さはそのままに、そのまなじりは半月のカーブに細められていた。
笑っているのだ、と気がつくまでに時間がかかる表情だった。
けれど、その奇妙な強張りは僕を油断させた。
「いいけど」
「ほんとう」
 声色が明るくなった。目は丸く見開かれる。
「うん」
 そんなに嬉しいだろうか。
「ありがとう」
 ワントーン上がったままの声で、彼は言った。
 そして驚くべきことに、至って自然に、こぼれるように笑ったのだった。
 僕ははじめて、彼の面立ちをまともに眺めた。
 僕が目を見開く番だった。
 束の間、彼に天界の残滓を見る。
 すべらかな頬。丹念に削がれたような鼻梁より流れだす唇は、複雑にいろづいている。長いまつげが、瞳に影を落とす。
 今まで気が付かなかったのを不思議に思うほど、彼は美しかった。
 僕は瞬いた。
 まるで夏に掬われそこねたような、僕の見ている、陽の陰った世界。
その世界で、僕は彼と会話を重ねた。たわいない、趣味や転入前の学校の話題があわいを行き交う。
「この学校は校舎が新しくて、そこが気に入ったんだ」
「あっ、うん」
「僕が卒業したとき、中学が百周年だった。それに較べるとまだ十年しか経ってないなんて、すごいな」
「へえ。あっ、地元どこなの」
「地元は福岡。で、今住んでるのは三鷹」
「ふうん。その、最寄りも三鷹なの」
「いや、仙川」
「マジで。途中まで一緒だ」
 そうなの、すごい、偶然だね、と彼はまたほころびるように笑った。その目に、力のこもった様子はもう見受けられなかった。
さっきの目は何だったんだろう。意識の片隅でそんなことを思っていたら、つい、一緒に帰ろうぜ、という言葉が口をついて出ていた。
 すっ、と潮が引くように、束の間の沈黙が訪なう。
 しまった、と思った時には、彼は面食らったように押し黙っていた。
 胸にほろ苦い後悔が生まれる。
僕はいつも、人と距離を縮める方法と時機を間違えてしまう。いつもそうだ。
「いいよ」
 僕は思わず目を丸くする。彼は、すでに微笑を取り戻していた。
笑顔の本当に意味するところはわからない。しかし、僕は考えないことにして、ひとまずの安堵に胸を撫で下ろした。
 授業終了の笛が鳴った。

 更衣室は、人の血肉を直接的に想起させる汗の生臭さと、人工的な制汗剤の匂いで、噎せ返るようだった。僕はジャージから制服に着替える。彼は制服のままだったから、すぐに教室に帰ってしまった。
 僕はジャージのTシャツを脱いだ。そして、そのまま下着も脱ぎ、上裸になった。
 キスマークと拘束具の跡がみずみずしく残る身体があらわになる。僕はだらだらと喋りながら水着を着替える同級生の陰で、しばらく何もできずに立ち尽くしていた。
 赤く花咲く身体を晒したまま、なにかを探しているとでもいったように、僕は鞄の中を漁るふりをした。無論、何も探してなどいなかった。身体はそのままに、勘案したのち、つぎは裸足の足に靴下を履いた。時間をかけて履こう、と思っていたが、湿った足に靴下の布地の滑りは悪く、意識して動作を遅くするまでもなかった。靴下を履き終えてしまうと、また鞄の中をごそごそとやり始めた。
 誰かが僕の醜い身体を見たら騒ぎになるだろう。クラスメートは僕を無視し始めるかもしれなかった。
しかし、僕はそうしていた。
 僕はようやく下着に首を通す。一度袖を通した衣服に特有の柔らかさと、柔軟剤の香りがふわりと僕を包んだ。けっきょく、跡は誰にも見つからないまま着替え終え、僕は更衣室を出た。


 放課後、彼に校内を案内した。エアコンの効いた教室を離れ、階段を上り下りしながら廊下を歩き回ると背中が汗に濡れた。
 四階の廊下の突き当たりを指さして、
「ここが音楽室」
と僕が言うと、彼は、
「入れるかな」
と、ついとドアをひいた。
 音楽室のドアは防音のために厚くて重たいつくりになっていたので、彼が力を込めてドアをひくと透けるほど白い腕の血管が怒るように隆起した。
鍵がかかっているのではないかとちらと思ったが、意に相違してドアはもったいぶるように開き、楽器や、譜面台、棚の隅に束になった楽譜などが、薄く埃を被りながらひっそりと息づく中に、僕たちは踏み込んだ。
 そうする必要はないと思いながらもなんとなく自分の席を見つけ荷物を置く。大きな窓が採光して、ここではすべてのものが日なたの中に飽和している。音楽家の肖像画までもがのびのびと呼吸するような、音楽室の独特の匂いを深く吸い込む。
 首をめぐらせると、彼は、教室の後方、ピアノの傍に立っていた。
 ひかりを背に、ピアノを見つめている。
 僕は目を見張った。
 彼の目は、さみしげな目蓋にそのほとんどを覆い隠されて、哀しく愛おしげに細められていた。死に別れた恋人の幻を見るような純朴なまなざしは、敬虔でもっとも穢れない愛を、たしかにそこに感じさせるのだった。
寄り添う彼の姿は、しつらえられたかのように、そのグランドピアノと完璧に調和していた。高潔に黒光りする鍵盤蓋を這う白い手。
僕は彼から目を離すことができない。
「峰」
 僕は怖くなって彼の名を呼んだ。さもないと彼がどこか遥か遠い場所に行ってしまうような気がしていた。
 彼はすぐに気がつき、僕を一瞥すると、行こうか、と何かを手離すように呟き、足早にドアの方へと向かった。僕は鞄をひったくるようにさらって彼に追従した。
 と、彼がドアの手間で立ち止まって、
「峰じゃなくてさ」
僕は自身の貝殻骨のあわいをひとしずくの汗が伝って落ちていくのを強烈に実感していた。
「湊って呼んでよ。結生」
 ぽた、と汗が地面に砕ける音がした、気がした。


 その夜、夜勤の母に代わって一人分の夕飯を準備していたら、指を切ってしまった。無名指の関節ちかくにあわく血が滲んでいる。が、出血が止まらないほど深く切ったというわけではなかった。
 僕は、大したことない、と思いながら手を止めた。居間の戸棚の片隅から救急箱を取り出して、その場に膝を折る。消毒するほどではない、と思いながら消毒をし、絆創膏を貼るほどではない、と思いながら二番目の大きさの絆創膏を貼った。
 僕はこの頃、それがどんな些細な傷であれ、絆創膏を貼っていた。
 しるしをつけるように。
 立ち上がる。夕飯の準備を再開しようと台所に戻ると、手元を照らす蛍光灯が急に明度を増したように思えた。包丁を手にする。今日は副菜にマリネを作ろうと、にんじんを切っている最中だった。
 冷蔵庫の中身を思い出す。
食後に林檎を切ろう、と僕は思った。



「結生」
 音をひとつずつ伸ばしながら、湊が僕の名前を呼んだ。
 僕は噛み締めるように、すこし間を開けて振り向く。
「おはよう」
 あの日から数日。僕たちは一緒に下校するようになり、急速に距離を縮めていた。
 湊が僕の隣に駆け寄る。正門から校舎までの坂道を息を弾ませながら登っていると、
「今日あれだね、講演会」
と、対してきつくもなさそうに湊が言った。僕はやっとの思いで、そうだな、五時限目、といらえた。と、湊は暫時、僕の顔を見つめた。
「結生、きつそう」
 湊が笑った。僕は隙間を埋めるように笑いながら、思った。
湊が笑うたびに写真を撮って、瞬間を永遠に残せたらいい。


 五時限目の開始を告げるチャイムが鳴り、喧騒は波のように引いていった。
 小体育館。その日は二年生だけを集めて、ある女性が講演会を行う日であった。本当は夏休み前に行われるはずだったその講演会は、先方の都合で延期になっていた。パイプ椅子の軋む音があちこちから響いている。窓からひかりが差して、空中を舞うこまかな埃がきらきらとさんざめく。僕は冷房の効かない体育館の暑さと退屈に、上履きのつま先を擦り合わせた。
「皆さん拍手でお迎えしましょう」
 女性が登壇すると、拍手はすぐに止んだ。
マイクを通した女性の声で、簡単な自己紹介がなされる。
僕は、早々に微睡に潜って、一時間分の良質な睡眠を確保するつもりでいた。しかし、そうはしなかったし、できなかった。
 このとき女性が語った内容を、当時の温度、湿度、匂い、女性のイントネーションや表情まで、細かに再現しながら、僕は今でも精緻に思い描くことができる。
 三年前の、穏やかな春の日でした。私の愛する娘、この世でいちばん大切だった、娘の横井華は、十九歳で自ら命を断ちました。
直接的な死因は、出血性ショックです。華は湯を張った浴槽の中で手首を切り、私はそれを見つけました。その光景は、今も目に焼き付いて離れません。抱き上げた華の、力ない肉体の重さも。
 今日は、どうして華は死ななければならなかったのか、皆さんにお話ししにきました。
華は、ドラッグ依存によって、社会的に孤立してしまったのです。
華は十四歳の時、部活の先輩に勧められて初めて覚醒剤を吸って以来、薬物依存に苛まれることとなりました。これは後から聞いた話ですが、今はインターネットを使って売人と待ち合わせれば、誰でも容易くドラッグを入手できるみたいですね。
華は覚醒剤が切れると家の中で暴れるようになりました。私の腕には華を取り押さえようとして噛みつかれた傷が今も残っています。ほら、ここ。これです。この傷すら、今は愛おしいのです。
中学を卒業してから、入院と退院を繰り返しつつも、団体からの支援を受けながら華は働き始めました。団体の方には本当にお世話になって、今も感謝してもしきれません。どこまで堕落しても、救ってくれる手はあるんです。私はそのことを、身をもって感じました。華は、仕事にやりがいを感じたみたいで、活力に満ち溢れた毎日を送って、その瞳は日に日に輝きを取り戻していった。本来は、人の役の立つことに喜びを見出す優しい子だったんです。私は、本当に嬉しかった。あの子が幸せでいてくれたら、私はそれだけでこんなにも、嬉しかったんです。
でも。薬物の誘惑を完全に断つのは難しかったのです。華は、十八歳の時に経験した仕事上の大きなミスを乗り越えられずに、またドラッグに手を出してしまいました。家に引きこもるようになって。仕事もやめました。
私は華のことを、よく知っていたつもりでした。でも、全然わかっていなかった。私は結局、華の部屋の外で、様子を見守ることもできずに、立ち尽くすことしかできなかった。
 あくる年の三月、華は亡くなりました。
僕は話を聞きながら、物質感を持った重たい悲しみが、急速に胸に広がりゆくのを感じていた。
 僕が日常を生きている間に、同じ世界でこんなことが起きているだなんて。僕は、自分が凡庸の淀んだ海に浮かんでいることを実感するとともに、横井さんたちと自分との間にたしかに存在する、遥かな距離を感じていた。僕は横井さんたちが不幸の森に彷徨わなければならなかった悲惨な運命を呪った。はげしく揺り動かされる感情に、喉の辺りになにかがつっかえたような感じがする。
 膝の上で拳を固く握った。
 黒い靄に追い立てられた僕は、これ以上気持ちが沈むのから逃れたくて、壇上に釘付けになっていた視線を生徒たちの頭のあたりに下げる。
 とたんに、僕はもっと胸が悪くなった。
 ある生徒は、壇に背を向けて友達と私語している。またある生徒は、舟を漕いでいて、もっと前方には、明らかに熟睡している生徒もいる。横井さんなど、まるで存在していないかのように。
僕は唇を嚙んだ。制服のトラウザーズのポケットに手を突っ込んで、カッターナイフの刃をちり、と出す。人を殺すことは犯罪で、どうして無関心は罪に問われないのだろう。
僕は、こういうとき、結局自分は正当な人間なんだな、とどこかで思っていた。僕はまだ汚れ切っていなくて、それどころか、まっさらでいるような気がしていた。僕はそんな自分を嫌悪していた。今でも、その嫌悪の切実さは嘘じゃない、と、僕は言いたい。
けれど、今にして思えば、僕は自らの純真さを、他人を見下すために持ち出すこともあった。
このときみたいに。
僕はけっきょく、何者なのだろう。ただ、僕は卑しくて、卑しいから、あんなことになったのだという、客観的な感想しか持てない。
このときの僕は、当然、そんな矛盾した自己に気づいてなどいなかった。だから、せめて残りの講演を一言も聞き漏らすまいとすぐに背筋を伸ばすと、壇上に強く視線を送った。
皆さんは絶対にドラッグを使用しないでください。一度使ってしまったら、元には戻れないのです。
 約束してください、と締めくくり、講演は生ぬるい拍手とともに終幕した。横井さんが頭を下げる。
 僕は痛くなるほど手を叩いた。僕にだけはあなたの痛みがわかるのだと、告げるための熱い拍手だった。
 魚の跳ねるような音の越流が絶えると、学年主任がマイクを持った。
「えー、横井さん、素晴らしい講演ありがとうございました。ええ、そうですね、誰か、感想を言いたい人はいますか」
 空気が、ぎこちなく固まった。まずい、と思った。誰も手を挙げるはずがなかった。誰ひとりとして、横井さんの話を聞いていなかったのだ。そして生徒が誰も手を挙げなかったことで、無関心を上回る刃渡りを以て横井さんを傷つけてしまうと思うと、耐えられなかった。
 僕は淀む空気の中、思い切って手をあげた。横井さんはまっすぐに伸びた僕の腕を見て、まなじりを下げてほほ笑む。僕は学年主任にマイクを渡され、立ち上がる。
 百人あまり、全員の視線が僕に注がれる。
「僕は、あの、今日の、お話を聞いて」
 その、ええと。僕の口の中に、泡のように音が芽生えては、生れ出づることなく消えてゆく。頭に一文字の言葉も浮かばなかった。僕はなにかを取り戻そうと唇を舐めた。しかしはじめからなにも手にしてはいないのに気づく。斜め前の席に座る女子生徒が口元をゆがめているのと目が合う。手にじっとりと汗をかいている。静謐が僕の二の句を待っている。上履きの中、足が震えているのがわかる。
 あの、と口を開きかけた時、僕は汗に濡れた手に、握っていたマイクを落としてしまう。きいん、と耳をつんざく音が体育館に響き、きゃあ、うわあ、という高声が続く。あ、あ、と意味をなさない声が僕の唇の端をつたうように漏れる。僕は生徒の舌打ちと嘲るような嗤い、教師のやれやれ、という白い視線の渦にひとり、立ち尽くしていた。
 大勢の人がばらばらにものを呟くことで、音の連なりが何層にも、何層にもなりゆくにつれて、しかし僕は徐々に冷静さを取り戻していた。僕は集中する。僕に戻れ。もとより存在する僕に。
 そのとき、ぶれてぼやけていた僕の輪郭が、ぴったりと像を結んだ。
 気づいたら赤が迫っていた。
目に返り血を浴びたのだ、と気づいたと同時に、どこからかつんざくような悲鳴が聞こえてきた。それを契機に、握りこんだカッターナイフの柄の硬さが、急に実感を伴った感触として僕の手のひらにぶつかった。僕は据わった眼をして、もう一度穴をあけ、さらに奥深くへとねじ込んだ。と、その女子生徒は力なく前方に倒れた。寸前、倒れるな、と思ったので、仕方なくうなじから刃を抜く。僕は、背中をめがけて振りかぶりながら
「はい」
 近い場所から声があがった。ぷつん、と音がした気がした。僕はいつの間にかポケットの中のカッターナイフを強く握りしめていたのに気が付いた。
「はい、ではそこの彼」
 僕は顔を上げる。そして目を丸くした。
 湊だった。
 湊が今しがたの妄想の僕のように、その細い腕を迷いなく、ぴん、と伸ばしていた。
 学年主任が湊にマイクを渡しに近づいてくる。湊はマイクを受け取ると、軽やかに立ち上がる。
あのよく響く透明な声で、すらすらと話し始めた。
「本日は貴重なお話をありがとうございました。僕が特に印象に残ったのは、華さんの一番の理解者であったはずの横井さんにも、華さんを助けることができなかったという事実です。横井さんの気持ちを自分に置き換えて考えてみると、辛すぎて、もしも横井さんのように、大切な人に先立たれてひとり残されたとしたら、僕なら今頃死んでいただろうなと思います。僕は本当に華さんが可哀想で、横井さんも可哀想で」
「おい」
 突如として響いた怒号に、場が静まり返った。
すべての音が、呼吸を失くして凍えているみたいだった。
 僕は一瞬、なにが起こったのかわからなかった。はっとして、怒声のした方を振り返ると、数学科の加藤が立っていた。加藤は朝礼の際、生徒がなかなか静まらないと怒鳴り散らすのが常だった。その表情は、こちらからは陰になって窺うことができない。
 一番驚いていたのは湊だった。マイクを手にし、唇を開いたまま唖然として声の主を見つめている。気の毒なほど跳ね上がったままの肩。見開かれた目がガラスのかけらのように、ひかりをてらてらと反射している。
 空気が痛いほど張り詰めるのに反し、体育館の外で木々が風に揺れる音が二巡りもしたころ、加藤はまるでたった今怒鳴ったのが自分ではなかったかのような平然とした面持ちで、どうぞ、と学年主任に進行を促した。その所作ひとつで、湊の発言の場はなかったことになった。
 加藤は生徒の隙間を通って湊に近づくと、ちょっとこい、と耳打ちして、湊の腕を引いて出て行った。
 空気の緊張が徐々にほころびるのにつれて、人と人の密集する熱が思い出したように蒸し返される。
 僕は、壇上で横井さんがどんな顔をしているのか、恐ろしくて見ることができないでいた。


 日が落ちるのが早くなった。景色は青から溢れるような橙色に、目に見えて様変わりしてゆく。夕方に聞こえる虫の声も涼感のあるものに変わってきた。真昼のかんかん照りと較べるとこの時間の気温はどこか中途半端で、晩夏と秋の間の空気もくたびれているように思う。
道の途中に、かなり築年数の経った私立の女子高がある。くすんでひび割れた白壁にツタが這い、燃えるような夕焼けを背に昏い陰を纏ってそびえる姿が、その日は一段とうら寂しげに見えた。
 湊は俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「わからないんだよね」
 湊の透き通る声は、僕といると随分と角が取れた丸いものになった。
その横顔を見る。ほのかに浮かべた笑みは親に忘れられた子供のようで、見ていられなかった。
 僕は何も言わずに、というより言うべき言葉を見出せずに、前方に向き直った。景色は僕たちが歩みを止めない限り後方に流れゆくけれど、その中のひとつにだって今の僕と湊を助けてくれるものはなかった。
「でも、思ったことは言いたいよね。嫌われてもいいし怒られてもいいから、嘘はつきたくないっていうか」
 湊は気を取り直すように言った。お互い前を向いているので、表情は窺えない。僕は舌の裏に、そうだね、と隠したまま、逡巡していた。同調したら湊が背を向けて行ってしまうような気がしたし、同調しなくてもそうなってしまうような気がしていた。
 僕は悠遠とも思われる時間を考えることに費やした。そして、開き方を忘れてしまったようにわななく唇をなんとかかたちづくる。
立ち止まって、湊と向き合うと、押し出すように僕は言った。
「俺も」
「え」
「俺もわからないよ」
 僕の目を見つめる湊の目から感情は読めない。
 僕はたしかにわからなかった。嘘ではなかった。ただ、この頃の僕にとってわからないことをわからないと、湊に対して打ち明けるのは耐え難い辱めだった、はずだ。
 でも、僕はそれをやってのけていた。ほかでもない、湊のために。
 僕は湊の反応を息を詰めて待っていた。期待と不安がないまぜになって胸の中身が零れだしそうだった。
 けれど、その反応を待つうち、胸の中で不安のかさだけがどんどん増していった。
それは、湊があまりにも強いまなざしで僕を見つめるからだった。湊の瞳は虹彩がつやつやした黒色で、その黒が肉薄してくるような、なにかもの言いたげなような、そういう目で僕を見つめることを、湊はいつまでもやめなかった。
僕はいや増していく暗澹にほとんど溺れそうになりながら、いや、溺れそうになっていたからこそ、でも、と思い切って告げた。
「あの人の話に感想を持てるひとがいたこと、すごく感動した。俺、手挙げようかと思ったけど、結局勇気なかったし。怒られたかもしれないけど、でも、湊みたいにちゃんと感想言おうとした人は、ほかにいなかったわけだし」
 湊がひとつ、息をつく。僕は呼吸が浅くなっていくのを感じていた。
 涼しい風が通って、僕の首筋の体温を掠め取って逃げた。湊の黒い髪が揺れる。
 やがて、湊がゆっくりと口を開いた。
「うれしい」
「えっ」
「ありがとう」
 照れたように、湊は吐息をこぼしながら笑った。
 涼しい、と思っていた風がまだ生暖かかったことに、僕は気づいた。
 歩き出した湊を追いかけながら、なにがうれしいの、と笑い交じりに問うた。
 湊はすこし困ったように笑って、言った。
「僕を、理解してくれること」


 ホテルのデスクに向かうと何故か勉強が捗る。良子さんがシャワーを浴びている間は特にそうだ。後方遠くに聞こえるざあざあ、という水音が、雨の日の教室に聞こえる音に似ているからだろうか。僕は学校は嫌いだけど雨の日の教室は好きだった。閉塞感と暖房に暖められた湿気の匂いがわだかまる狭い空間。雨水という羊水に、部屋ごとくるまれてしまったような感覚。たとえ扉を見つけようと、外には出られない。もし立ち上がったとしても、もうどこへも行けない。そんな気がしてくる。
僕はその感覚に、どんな自由よりも開放感を覚えていた。
 浴室の方でがたん、と音がして、バスローブ姿の良子さんが現れた。いつもの香水とは違う、ホテルのシャンプーの匂いに背後から包まれる。
 初めて良子さんと寝た事後、シャワーを浴び、死に体の芋虫のようにベッドに横たわりながら、僕は失墜と活路を両手にしたのだった。水音を遠くに聞きながら。
 雨の日の教室。
 あのとき、僕はやっと僕になった、と思った。
 眼前に壁があって、四方を囲まれているような心地がした。行き場がなくて一歩も進めない。固いベッドは奈落の底を思わせた。
 欲求が満たされていく。僕の寝食に近しい、生きるのに不可欠な欲求が。僕は膝を抱えた姿勢でしばらく多幸にも似た安心感を味わっていた。
「なにしてるの」
「現代文の課題です。自由読書感想文」
「いいね。高校生って感じだね」
「『斜陽』で書こうと思って。ちょっとありきたりですけど」
 できたら見せてごらん、と言い残して彼女は髪を乾かしに行った。
 作文の優劣なんかわかるのかな、と苦笑しながら手元に目を戻す。あらすじを二、三行にまとめた段落に続いて、これは作者の太宰によるともっとも美しい滅亡の物語である、と文字が羅列している。
 可哀想、という三文字が頭に浮かんで、すぐに消える。
僕は続けてペンを動かした。
 破滅、と書いたら、あと、書けなくなった。


 真っ暗な家に帰ってきた。
 衣類などが形成していると思われる自宅特有の匂いに出迎えられながら手探りで電気のスイッチを押す。
 僕はリビングに入ると、冷蔵庫から母の用意してくれた夕食を取り出し、レンジにかけた。そのまま自室へ向かう。
 自室は二階にある。父がこの家を建てたとき僕は小学五年生で、二階に階段を登っていく自室、というものに並々ならぬ憧れを抱いていた。しかし今となっては、夜の九時ごろには寝てしまう父を起こさないよう音を殺して階段を上るのは相当難儀で、僕は四つある洋室のうち唯一二階にあるこの一間を自室に選んだことを後悔していた。
 自室に荷物を置き、着替えてからリビングに戻ると、夕食は温かくなっていた。僕はダイニングチェアに腰掛ける。
 肉じゃがは母の得意料理だった。母の料理はなんでも不味いということはまずなかったが、肉じゃがは僕の好物でもあり、いちどそのことを母に伝えるとそれから夜勤の日の献立は肉じゃがになる確率が高くなった。
 母は徒歩十分の大学病院で看護師をしている。この家が建ったのと、母がそこで勤め始めたのと、週に二度、翌日の朝にかけて夜勤に出るようになったのは同時期だ。
 僕は箸を進めながら考える。
 つまりは、普通の家なのだ。子供が援助交際していることを除けば。
 箸を止めた。
 僕は普通の空気で普通に生きることが難しかった。
 たとえば、五歳の頃のことだ。僕が当時、殊に仲の良かった男の子は、昆虫が好きだった。保育園でも、アリやテントウムシを見つけては、僕にその細かな特徴や生態を話して聞かせてくれた。あるとき、僕たちがしゃがみこんでダンゴムシを観察していると、先生もやってきて、僕たちの輪に加わった。その子はいつものように、
「ダンゴムシは、黄色い点々が背中にあるのがメス。ないのがオスなんだよ」
と僕たちに教えてくれた。すると、先生は感心した様子で、言った。
「しゅうやくんは昆虫博士だね」
 僕は、その言葉に疑問を感じ、感じたままに、間違ってしまった。
「先生、昆虫博士って、大学に行った人がなるんでしょ。大人がなるんでしょ。しゅうやくんは、昆虫博士じゃないよ」
 僕は、先生がどんな顔をしたか覚えていないし、わからなかった。
 そういうことの繰り返しで、僕の人生がある。僕にはわからない。僕は長い時間をかけてようやく、沈黙していればいい、ということだけを覚えたが、それは根本的に僕を楽にはしてくれなかった。
 それでも、母だけはそんな僕を、愛しすぎるほど愛してくれた。
 なぜだろう。
 逃げたかった。僕は母に愛されれば愛されるほど、どこに逃げればいいのかわからなくなった。そもそも逃げることそのものが許されないような気がした。
 すべては僕が恵まれているから。僕は愛情という太陽を浴びて、水を所与のものとした。
それなのにどうしてお前はそうなんだと、常に誰かに言われているような気がした。
人はみな、目に見えてわかる弱者にやさしくする。明らかに異質なひとに。僕だってきっと、他人に対してそうしていると思う。
けれど。
僕は、真ん中にいたのだ。すべてを鈍感に受け取れるほど健やかではなかったのに、誰かに手を差し伸べてもらえるほど病んでいなかった。あきらかに異質、ではなかった。
その真ん中にいることが、僕は常に悔しかった。
 僕は夕飯を食べ終わると空の食器をシンクの水に浸けて、自室に戻った。
 箪笥の引き出しを開けると、服の下に隠してあるその箱を取り出した。メビウスと書かれたパッケージのそれは、父の部屋からときどき拝借しているものだ。一本取り出して、火をつける。
 僕の部屋には大きな窓が付いていた。僕はあの頃、必死で黒い海を藻掻いていた頃、それでもなんとか懸命に岸辺を目指して泳いだ頃、よくこの窓から夜空を眺めて涙を乾かしていた。この大きな窓から暗闇は、まるで腕を広げるように見えていた。
 中学三年の夏までの話だ。
 僕は自らの手で窓を開ける。
 さわやかな風に、吐き出した毒の紫煙が溶けた。黒の空は相変わらず僕を吸い込むように広がっていた。


 十月上旬。その日、湊は図書室に寄りたいと言った。僕は頷いた。湊がそうしたいと言うのだったら、思考がきざすまでもないことだった。同時に、僕は借りていた本の返却期限が一ヶ月前だったことを思い出す。
「行こうか」
 一か月あまり前に借りた本だったが、まだ読んでも開いてもいないのが本当のところだった。僕はほぼ毎日本を読んでいたが、それは自分で買ったものだった。
 階段を降りてすぐのドアを、湊が開ける。
 図書室には、二人組の女子生徒がいるほか誰もいなかった。二人はこそこそと何かを囁きあっては、小鳥の囀るように笑い声を立てている。
僕はいつも疑問に思うのだけど、図書室はいつ来ても蛍光灯が印象的だ。閉め切ったカーテンに陽のひかりは遮断され、そのはずなのに灯りにあたたかみがある。
 湊は無人の受付にて、借りていたらしい本を箱にそっと返してから、純文学系の本が窮屈そうに並んでいる棚を丹念に眺め始めた。
 僕はさして興味もない棚を興味深そうに眺める。
視界の端に湊の横顔を盗み見ていると、
「この学校の図書室大きいよね」
と過剰に声量を絞った囁き声で湊は言った。
 僕が微笑を返り言のかわりにすると、湊の興味は平穏に本棚へと移っていった。
 九月下旬の現代文の授業は、自由読書感想文の発表にその時間が割かれていた。僕はその一切を聞き流して、湊の発表だけを天啓を受けるように真摯に聞いていた。湊が題材に選んだ本は、岩井俊二という作家兼映画監督作の、『リリイ・シュシュのすべて』。読書感想文なのに、湊はむしろこの本を原作とした映画について事細かに説明と感想を述べていて、僕はそういうところも含めてとても湊らしい発表だったな、と思った。映画『リリイ・シュシュのすべて』にはドビュッシーのピアノが効果的に用いられていて、そこが好きだと湊は語っていた。僕はその日の夜、その映画のビデオと原作本をインターネットで注文した。
「あの」
 卒爾、僕の耳に声が飛び込んできた。
 咄嗟に、かぶりを振るように隣に目をやるが、湊の姿はそこにはなかった。
 声がしたのは読書スペースの方だ。
 僕は長机と椅子が等間隔に並んでいる読書スペースを棚の陰に隠れる格好でそっと覗いた。
 そこには、二人の女子生徒を前にして、湊が立っていた。
 僕はなぜだか、息をひそめてしまう。
 湊が、息を吸う。
そして、言い放った。
「静かにしないとダメです。ここ図書室なので」
 瞬間、空気がぴりっ、と緊張した。
 湊はこちらに背を向けていて、表情は窺えない。けれど、その突き刺すような声色は二人を威圧するのに十分なように思われた。女子生徒は恐怖と困惑の入り混じった複雑な面持ちで湊を見上げている。それは僕も同じことだった。
 女子生徒はゴムの部分が赤く色づいた上履きを履いていて、それはこの学校では一年生であるということを示していた。ひとりは黒い髪をポニーテールに結っていて、もう片方は短い髪で眼鏡を掛けている。
 僕は動揺を隠しきれない。
 彼女たちは全く騒がしくなどしていなかった。
 現に、考えごとに耽っていた僕の耳に彼女たちの喋り声など全く届いていなかったのだ。否、仮に僕が本棚にて本を吟味することに集中しようとしていたとしても、彼女たちのたてる音が邪魔になったとは考えがたかった。
 僕が書架の陰で呆気に取られている間に、彼女たちは平常を取り戻したのか、すみません、と小声で残して逃げるように図書室を後にした。
 湊が踵を返す。
 唖然として湊を見つめていた僕の目と、湊の目が、合った。
 こちらに歩み寄ってくる。
湊は無言のまま、何かを探すように僕の目を見つめている。否、僕の瞳の奥に何かを見つけて、それを取り出そうとしているようにも見受けられた。黒曜石のような瞳。僕は、この黒の強さをどこかで見たことがある、と思っていた。
ぱりっ、とひびが入りそうな沈黙が、透明な壁をつくって、僕たちの間に隔たる。
僕は湊に何かを言うべきなのだと思った。でも、わからなかった。今、自分がどのような顔をしているのかわからなかったし、どのような顔をしたらいいのかもわからなかった。
 だから、突然現れたその闖入者は、僕にとっては救世主のように思えた。
「廣瀬」
 僕と湊が同時に声のした方を向いた。
 そのひとは緩慢な歩調で入り口からまっすぐに歩いてきて、僕の目の前に立ち止まった。
そのひとは国語科の教員だった。たしか今は三年生の授業を担当していたはずだ。初老の
女性だったが、それらしくない頭の切れを思わせる棘のある喋り方をした。彼女は、僕の一年次の担任だった。
そして、彼女は図書室の管理を請け負っていて、つまりは僕が一か月以上前に借りた本をまだ手元に置いていることを把握していたのだった。
 彼女は細めた目でじっとりと僕を睨めている。
 僕は曖昧な笑みを貼り付けながら、その脅迫めいた視線をまっすぐに受ける。
こうなることをはじめからわかって、ともすると、ずっと望んでいたような、そんな気がしていた。
「返します、明日返します」
 彼女のまなざしが、手のかかる子供を見るものにふっ、と和らいだ。意想外にも、僕がすぐにそこに思い至ったことに満足した様子だった。
 湊を横目に見ると、感情の読めない顔で僕と彼女を交互に見つめたあと、するりと棚に目を戻した。
 僕は、必ず、と言葉を継いでみせた。
 彼女は僕に背を向けると受付の椅子に座り、何やら作業を始めた。彼女は上履きに健康サンダルを履いていて、歩くとざっ、ざっ、と床を擦る独特の音がした。
 僕は、胸に宿るあたたかさに苦笑しつつ、天を仰ぐ。蛍光灯が母なる月のように丸く灯っていた。
 でも、ふと首をめぐらせると、湊が無言で僕を見つめていたので、その胸のあたたかさはどこかに遠ざかってしまった。
僕は気の緩みゆえにあからさまに驚いてしまう。湊は、それでも無言のままだった。まるで、感情を削ぎ落とされたかのような面持ちだ。
 この頃の僕は、湊に失敗や失態を見られることに、もう抵抗など覚えなくなっていた。でもそれはあくまで僕のプライドの問題だ。僕はさきほど女子生徒を注意した湊の突き刺すような声のことを思い出していた。
 何か言おうと勘案していると、僕の瞳の奥底を凝視するようだった湊の視線が、すっ、と本のならびに戻っていった。
 そのときの僕はほとんど湊に取り縋るようだった。必死で、何か言わなければならないと考えを巡らせる。
僕は考えに考え、霧の中を彷徨うような気持ちのまま、結局、
「みなと」
と恐る恐る声をかけた。
 湊が振り向く。
 返ってきた声に、僕の胸にはまるでさかづきを返したように、安堵が広がる。
「なあに」
 丸く柔らかい、僕にだけ聞かせるいつもの声だった。その声が、風にのせるように小さな音で囁くものだから、僕は、からからに乾いた口の中に、蜜をなめたような甘い味が広がった気がした。
飛び跳ねて喜びたくなるのを堪えて、呼んでみただけ、と僕は嘯いてみせた。湊は、変なの、と吐息だけで笑った。
 湊と図書室を出ると、廊下の窓から暮れなずむ西陽が直線を伸ばして、僕を指さしているようだった。
駅に向かいながら、今日は寄り道をしていく、と伝えると、湊はそっか、とだけ漏らした。
 その心なしか残念そうな様子に、良子さんと会う約束を断って湊と電車に揺られていたい気持ちをぎゅう、と堪えた。
遠くに夜が迫っている。最近のこの時間は長袖のシャツでも肌寒く感じられるようになった。呼吸のしやすい季節だ、と僕は大きく息を吸った。
「湊は小説が好きなの」
「うん。読む本は物語が多い。古いものをよく読むかもしれない」
「たとえば」
「うーん。今日借りたのは、トルストイとか、この前は、川端康成とか」
「頭良さそう」
「ふふ、頭良さそう」
「うん、頭良さそう」
「結生はいつもなんの本を読んでるの」
 後頭部からじわじわと真っ白になっていく感覚。
 けれど、それは焦りとは違った。驚いているわけでもなかった。
湊にこの本を見せる機会がついに訪れて、エクスタシーにも似た嬉しさがこみあげたのだった。
 湊にこの本を見せてみたい、という欲求は、果たしてどんな反応をするのだろう、という好奇心とは似て非なるものだった。相手に独りよがりに期待する、卑しく最低な欲求だった。
 卑しい。寝食に近しい、僕の生存に不可欠な欲求。
 湊の質問に、驚けるような僕だったらよかったと思った。今になって。
 驚いて、絶対に知られてはいけない、この趣味のことだけは……、そう思える僕だったら。
 でも当時の僕は立ち止まった。僕はわかられたいのだと思った。湊がわかってくれる方の可能性に賭けてみたいのだと思った。
 卑しい僕自身、ではなく、僕の欲求を。
 わかった上で、すべてを注いで僕の欲求を満たして欲しかった。
「これ」
 僕は鞄から一冊の本を取り出し、書店のロゴが入った紙のカバーを剥いた。
 湊も立ち止まり、僕の手から本を受け取って表紙を見た。
 僕は自身の鼓動がこんなにもうるさいのは初めてだと思った。
 その本はハードカバーで、手にずっしりとした厚さがあった。黒の本体が堅い印象を与える。白い字で、『20××年××月××日〜僕が獣物になった夜〜』と本のタイトルが記されている。
 そのさらに下、××町連続殺傷事件、の文字。
 それは、ある快楽殺人事件の犯人の手記だった。
 湊はその文字を認識した瞬間、眉を顰めた。
 しかし、湊のそれは友人が倫理に逸れた本を読んでいることへの軽蔑の現れではなく、このような本が存在することへの素朴な驚きが顔に出ているのだと気づいたのは、、湊が全くの笑顔で
「えー、読んだことないけど、面白そう」
という反応を示したからであった。
 僕は僕がこういう本を読んでいると知ったいくばくかの与人の反応(全く僕の期待通りであった)を湊がしてくれなかったことにいささか残念な気持ちを抱いていたが、湊の輝かしい瞳は全く想定外のもので、これはこれで良かった、と思った。
 湊は興奮しきった様子で、僕にこう告げた。
「うち親が厳しくて、こんな本が部屋にあったら、それこそ殺されちゃう」
「そんなやばいの」
「うん、やばい。まずお小遣いないし、買い物とかも許してくれない。寄り道もできない」
 僕は驚いて、え、と声を漏らした。勢い、もっと聞きたい、とせがむ。
 湊は小さく唸って、かすかに言い淀んでから、また今度ね、と笑った。
 僕があからさまに残念がると、湊は慌てたように、継いだ。
「買い物も寄り道もできないのはほんとで。だから僕、前の学校でもあんまり友達できなくて」
 湊はそこで言葉を切ったのち、
「ひとりが嫌いなわけじゃないから大丈夫だけど」
と笑いまじりに語った。
 僕は何の気もなしに相槌を打った。
「すごいね」
 けれど、その言葉を境に、湊の瞳が夜の色に染められはじめた。
 その瞳は、僕の両目を正確に捉える。この目に捕まえられて、逃げることのできる人はいないだろうと思われた。
 まただ、と頭のどこかで自分の声がした。
「でも、嫌われるのって怖くないんだ。僕は僕のまま、誰かに認められたい。だから」
 僕は、認められたい、という言葉に、短絡的にも反応してしまった。言葉は僕が理性を以て考えるより一歩先を転んだ。 
「わかるよ」
 湊がはっとしたように目を見開いた。
 ふたりして、つかの間、言葉を失っていた。
僕が驚いたのは、自分の言葉が湊の話を遮って出てきたからではない。
僕は瞬きをした。シーンが切り替わるように暗転したのち、夜を背にした湊の姿が、はっきりと現れる。
 湊の目。
その目は、恨めしそうに僕を睨めていた。
乾いた風が向き合うふたりの間を無遠慮に吹き抜けていった。僕は自分の手のひらがいつの間にかぐっしょりと濡れていたことを、その風に乾かされてはじめて知った。
 僕は自分が幼な子になったような気がしていた。頭の中には、寒くて薄暗い、ただ何もない広い空間が広がっている。
 喉から、破れた窓を風が通るような、あえかな音が鳴った。
 僕はなにもできずに佇立している。
 風が吹いた。
 妙につめたく思えた。
 そのとき、僕はとつぜん、すべてがわかった気がした。
「湊、さっきも騒がしくしてた一年を注意しててかっこよかった。嫌われるかもしれないのもためらわないでああいうこと、できるのは湊のすごいところだって、俺はちゃんとわかってるよ」
 木々の揺れる音。
車が一台、向き合う僕たちの傍らを過ぎていった。
湊の目つき。
徐々に、柔らかさを取り戻してゆく。
僕は、湊にとってあらゆる意味で僕がいちばんになれたことを悟った。
「そっか。わかってくれて嬉しいな」
 僕は溢れるようにわらっていた。
「ねえ結生」
 夜。
「これからもずっと仲良くしてね」


良子さんとベッドに入り、制服を脱ぐと柔軟剤が体温のうえで豊満に香った。湊のあの目が脳裏によぎった。僕は何故か全く違うはずの自分の柔軟剤の香りが湊の香りと似ているような気がしていた。
 良子さんは、今日、元気ないね、と呟きながら、さしてそれを気にするふうでもなく、僕のズボンと下着を下ろした。
 僕は最中、上の空だった。
わかるよ。
 手に取って確かめるように、心の中で呟く。
それは今思えどいったい考えうる限りもっとも愚かな行為であった。僕は自分のしてほしいことは湊に期待したくせに、湊のそれを無邪気にも蔑ろにしようとした。
でも。
あの射るようなまなざし。
わかるよ。湊。
 やだ、何を笑ってるの、と良子さんの声が遠くに聞こえる。
 湿った感触をそこに感じ、僕はさすがに思考を止めざるを得なかった。
 ホテルの椅子はやわらかい。手元の本をじいっと眺めると、文字が浮かび上がってくるような錯覚を覚え、はっとした。背後に、ざあざあ、と水音が響いている。
 快楽殺人犯の手記。
 僕がこんな趣味を持ちはじめたのは、良子さんを抱くようになってからだった。
 部屋は相変わらず薄暗い。
 おかしくなってしまいたかった。理由が欲しかった。僕がうまくできない理由が。僕が正当に屈折しているという証明が。健全や可能性や倫理から対極にある場所が、僕を特別にしてくれる気がした。
僕は可哀想と思われたかった。可哀想になって、心配してほしかったし、可哀想な子だから仕方がないと言ってほしかった。どうしようもない欲求。僕が生きるためにはもはや同情が不可欠だった。
 そのうち、学校で遅刻や早退が増えた。嫌いな授業はさぼるようになった。
 底辺にいる。普通じゃない。凡庸未満。僕は誰かにそう思われることの安心感に、次第に自分らしさを見出していた。
堕ちていく。僕はもう真ん中にはいない。
 本のページを繰る。
 良子さんがいつの間にかシャワーを浴び終えていて、僕の背後から本を覗き込んで唇を歪めた。
「やめなさいって前にも言ったでしょう」
 僕は良子さんの目をまじまじと見た。 
「そんな本読んでると、ちょっとおかしい子みたいよ」
 
 
 湊のさみしさについて。
湊は、嫌われるのは怖くない、と言った。本当にそう思っていたら、はたして僕の前であのように振舞うだろうか。今思えば、僕は湊が愛おしかったのだ。世界に負けないようにつくりあげた建前を、本音のように語ってしまう危うさが。強いひとと言われたくて、僕の返り言のひとつずつに期待してしまう核のなさが。
湊は決して正しいわけでも正しさが好きなわけでも、さらに言えば自我に一本筋が通ったような一貫性があるわけでもなかった。僕はあのとき、やっとそのことに気が付いた。
水みたいなひとだと思った。色もかたちもなくて、つめたい心。
僕は友達なんていらないと本気で思っていた。湊に出会うまで。それだけではない。先に述べた通り、僕の不真面目で、倫理に逸れた、おかしい言動は、すべてが誰かの胸に抱かれたいがためのものだった。
僕も湊も一緒だ。僕はたやすかったし、それは湊だって同じことだ。僕は胸を張って、僕は湊の親友だ、と言うことができた。


僕には人の重さ、を量る癖があった。そのひとにとって僕はどの程度なのか、に応じて、僕の心の裡に沈むそのひとの重さも決定してしまうのだった。
地下のホームにはいつも無機質な薄暗さがある。
それまで沈黙していた湊は、とつぜん、僕に告げた。
「僕、片親なんだ」
各停の電車が滑り込む鈍い金属音がホームに反響する。プラスチック製のベンチは固かったが、今は毫も気にならなかった。
僕には、僕の心に湊が深く沈みゆく音がはっきりと聞こえていた。
いちばん。
僕の心に醜い天蓋がやまがたをなしてゆく。そのとき湊がどんな顔をしていたのか、おぼえていない。おぼえているのは、胸に躍る優越と、くわしくきかせて、とせがんだことだけだ。
 僕ははじめて湊の顔を見た。僕には理解しがたい、複雑な笑みをかたちづくっている。
「うーん、細かいことは、ちょっと」
 そのひとことで、僕は気が付く。それまで確かに目の前にあったものを、追い求めるあまり壊してしまったのだと。
 電車が参ります、とアナウンスがふたりの間を分け入った。広い空間に大きな音が鳴るときに特有の、痺れるような残響が、温かくも冷たくもない濁った空気に溶ける。
僕は着ていたカーディガンの袖を引っ張る。
ごめん、と言うべきなのかもしれなかった。でも言ってしまったら、もうこの場所に戻っては来られないような気がして、言い倦ねていた。
僕たちの沈黙を、やってきた特急が切り裂いた。やがて速度を落としながら電車が停まると、僕たちは開いたドアから中へ乗り込んだ。
席に着き、無言のまま振動に揺られていた。口をきけないわけではない。でも常にはない空気だった。僕はこんな気持ち悪さの中に残されるのは生まれてはじめてだった。
電車が地下にもぐったり夕焼けの地上に出たりするたび、僕たちの顔は西陽にじかに照らされたり、モノクロのワントーンに塗り替えられたりした。僕は真向かいに座る男の革靴に焦点をフィックスしながら、ふさわしい糸口を見つけようとしていた。
湊の降りる駅が近づいたころ、ふいに湊が口を開いた。
「明日からさ」
 僕は湊の顔を見た。がたん、ごとん、と電車が走る音と、早くなる自身の鼓動が重なって訪なう。僕は唾を呑んだ。
「うん」
「各停乗って帰ろうよ」
 驚いて湊の目を見つめた。その目もまた、僕の目を覗きこんでいた。
黒い瞳。強い力のこもった、あの目だった。
湊が続けて口を開く。
「もっと長い間、結生と話がしたいなって」
湊の言動の意味は間違う余地もなく明白に僕に伝わった。僕は湊のシャツから、また僕と同じ香りがするのを感じ取っていた。
 湊が窺うように僕を見つめる。
「だめかな」
 考えるまでもないことだった。
 細く息を吐きだすような音がして、電車は湊が降りる駅に停車した。


けれど、彼のそれは、けっきょく僕のそれとはまったく別のものだった。
僕は今、彼のことを思い出すと、途方もない彼我の距離をまざまざと感じて、悲しくなる。


 芦花公園、とアナウンスがあって停まった駅に、人は降りなかった。
車内はすいている。今日は六限が自習になったのでさぼって帰ることにしたのだが、鞄を提げて教室を出るときになって湊が待って、僕も帰る、とついてきたことには驚いた。太陽がまだ高い位置にあるのがうれしい。ホームの奥に見える街路樹の紅葉が普段よりいろめきたって見えるのは、自習を放棄して抜け出したせいだけではないような気がした。
「結生、今日も用事があるの」
「えっ」
「毎週、金曜日はひとりで帰っちゃうじゃん」
 僕は、僕の名前、僕という存在が、湊の心にたしかに記されていることが改めてわかった気がして、うれしくなった。それで、口調がつい浮かれたものになった。
「いや、うん、今日はないよ」
 嘘だった。もともとは新宿に向かって、書店を見たり喫茶店に入ったりして良子さんとホテルにチェックインするまでの暇を飽かすつもりだった。それを湊と過ごしたいがために仙川駅まで一緒に電車に乗って、湊が降りてからふたたび反対向きの電車に乗ろうとしていた。そんなこと、本人に言えまい。
 湊はふうん、と相槌を打ってから、
「じゃあ今日はこのまま帰るんだ」
と僕に問うた。
 僕は笑い出しそうになり、堪えながら、そうだよ、といらえる。
 湊はふたたび、ふうん、とひとりごとのように呟くと、緋色のシートに座った足をぶらぶらさせ、鞄から携帯電話を取り出して触り始めた。
 電車は街を通過していく。近くに一軒家や小さなアパート、遠くに大きなマンションが流れてゆくのが見える。風景は金色のひかりの中に眠っているようだった。建物の窓のひとつずつの向こうに、人間ひとりひとりの営みがあるようにはとても思えない。
 僕は隣を見た。
日光のヴェールを被った湊の横顔が、そこにあった。
 息をのんだ。
 湊のすべらかな頬は、陽のひかりを正面からたたえて、細かな和毛がまばゆくきらめいていた。その儚い美しさは、神秘的な宗教画のようだった。
 僕はなぜだか、泣きたかった。すべての感覚が遠ざかって、あるものをあるものとして捉えることだけが残されていた。僕は自身が映画の登場人物や、名画に描かれたあの少年や、神々しい音楽の一節になったような気分を味わった。美しき永遠たち。そんな永遠に、じっさいにはなれない。でも、過ぎ去ってゆく、それすら愛おしいと今は思った。僕は、目頭にぎゅっ、と力を込めた。
 薄く開いた唇から吐息をこぼしながら、ふたたび隣を見やる。と、湊はなにやら神妙な面持ちで、俯きがちに、何かを堪えているようだった。
 僕ははっとして湊の顔をのぞき込む。僕の身体が、そのこわばった面持ちに影を落とした。
「どうしたの。体調悪いの」
 湊は手遊ぶように指先を動かした。そういうわけじゃ、と口ごもる。
 電車が速度を落としてレールの上を走る音が伝わってくる。風景は過ぎてゆき、湊の降りる駅に流れ着いてしまう。ホームの屋根がひかりを遮って、急に明度を落とした視界に目がちかちかするのを感じた。
 音を立ててドアが開いた。十月下旬ごろから急に冷たくなった外気が流れ込む。誰も乗ってこないし、誰も降りなかった。ドアはただ、湊のためだけにぽっかりと口を開いていた。
「みなと」
「今日さ」
 うん、と僕は口の中で呟いた。
 湊がはっきりと僕の目を見た。
僕の言うべきことは、その瞬間に決定した。
「結生の家に、行ってみたい」 
 ドアが閉まる音は聞こえなかった。


駐車場の脇を通ると、忘れられた様子で何年も停められている青い車が、今日もそこにあった。銀色のカバーの皴に砂ぼこりが積もっている。
「なんだか、急に曇ってきたね」
 湊がなんでもなさそうに言った。
閑静という言葉がよく似合う淋しい静けさだった。辺りには白い壁がまだ新しげな似たり寄ったりの住宅が並んでいるけれど、子供の気配もしなければ、歩道に人がいるわけでも車道に車が通るわけでもなかった。僕はそれをいいことにすこし声を張って、この前ここでもぐらが横切るのを見た、多分あの公園にいる、と湊に語りかけ、車道を挟んで向かい側を指さした。湊は目を丸くして、もぐら、と言ったかと思うと、栓を抜いたようにさんざん笑った。
「もぐらって実在するんだ」
 可笑しくなって、そうだよいるよ、などといらえながら、雨粒の転がるような湊の笑い声にかぶせるように笑っていると、僕は唐突に大切なことを思い出した。
 思い出した途端に口に出してしまうものだから、和やかな空気が途切れるのを感じた時には、もう言葉は僕の掴めるところを離れている。
「そういえば、お母さんのこと大丈夫なの。寄り道しちゃいけないんじゃ」
 曇天の鈍い灰色を背景に、黒の学生服を着た湊の輪郭はくっきり浮かび上がっていた。
湊は僕に後悔する隙を与える前に、
「だって、さぼったからまだ時間あるし。それに、先生の教材準備手伝うから遅くなるって言っちゃった。慈悲の心で人を手助けするのはいいことだ、って言ってた」
と笑った。
湊のいたずらっぽい口ぶりに、僕たちは普段の空気を取り戻した。
「慈悲の心って。大袈裟な言い方するんだなあ」
「うん」
「あっ。この階段から川沿いに出られるんだよ。行ってみようか」


 鍵を取り出そうと鞄の中をまさぐると、ちょうど良子さんから了解の旨のメッセージが携帯電話に届いた。
 鍵を開けて中に入る。よく馴染みのある自宅の匂いに加えて、新鮮な木材のような匂いがした。この家に住まい始めた当初、帰宅するたびにこの匂いがしてうれしくなっていたことを思い出した。いつの間にか鼻が慣れてしまっていたらしい。
おじゃまします、と小さく呟きながら入ってきた湊は、僕が二人分のスリッパを並べて靴を脱いで履き替えるまでの間、ぼうっとその場に佇んでいた。
「どうしたの。入れよ」
 湊はふわり、と笑うと、
「ごめん。人の家来るの久々だから」
とすぐに家に上がった。
 自室に入ると、湊はわあ、と声をあげて本棚に歩み寄った。
「すごい数。見てもいい」
 こめかみを掻きながら、どうぞ、と促すと、面映ゆさから逃れるように、僕は下へ降りた。
 電気をつけないままの台所に立つ。小さな正方形の窓から、夕になりきらないひかりが仄かに差している。壁に揃って並んでいる、調味料やハーブの瓶。そのスチール製の蓋のみがかすかにひかりを反射して、ひっそりとほの暗い光景にきらりと存在感を放っている。
 ミネラルウォーターを注ぐと、流動性も柔らかさも感じさせない、からんころん、という金属的な音が小さなやかんの空洞に響いた。普段なら全く気にならないはずの些細な音がこうも耳につくのは、来客にお茶を淹れて出す、などはじめての経験だからだと気づく。
 やかんをガスコンロにかけてスイッチを押す。ぼうっ、と産声をあげて青い炎が現れると、僕はなぜだか、その不規則な揺らめきを食い入るように見つめていた。温められた水があつい蒸気と化してガスコンロを見下げる僕の顔に張り付く。鼻と口が塞がれて、熱の膜に閉じ込められたみたいだ。
僕は自然と、両手をガスコンロの青い炎にかざしていた。
みるみるうちに、指先があつくなる。
目蓋を閉じる。
 湊と、石でできた階段を上って、細い遊歩道に出た。川沿いは寒かった。高校に上がってから、この道を通る頻度はぐっと減っていた。すこし見ない間に、歩道の脇に青々と茂っていた雑草がすべて刈られてしまったらしい。かつてはアスファルトで舗装された歩道にまで及んで、踏みしめるとさくさくと音を立てたそれは、今や根元のみを残されて白っぽくへこたれている。
色づく木々が舞い踊り、からりとした空気を鮮やかに染める季節。それでも、遠くに、着実に冬は迫っているのだと、確かに感じた。
「仙川には仙川って名前の川があるの」
「あるにはあるみたいだけど。こんなに大きくないかな」
「大きな川の近くに住んだこと、ある」
「そういえば、ないな。横浜の海の近くに住んでたことならあるけど」
「かっこいい」
「そうかな」
 湊は照れたようにふふ、と笑った。その笑い声がもの寂しい静けさに溶けた頃、空気がつめたいね、とビー玉を転がすようにそっと湊は呟いた。
 遠くを、名前のわからない黒い鳥が飛び立っていく。
 僕は冷えた手を制服のポケットに入れようとした。
 トラウザーズの布地を指先が掠める。
 その間際、痛いほどつめたいものが手の甲に当たった。
 あまりにつめたすぎて、僕は手が切れたのかと思った。それが湊の手だ、と気が付くまでにいくぶん時間を要したほどだ。
 僕は半ば反射的に手を引いた。湊もまた驚いた様子で僕の顔を見た。
 ふたりの目と目が合う。
「ごめん」
 湊は、はっとして、
「ううん、ちょっとびっくりした」
と言ってから、はにかむように笑った。
 しばし無言の時間が流れた。
 厚い雲がまるで緞帳を下したように、流れもしないまま居座っている。
 先に口を開いたのは湊だった。
 えいっ、とふざけた調子で短く声を上げ、猫が戯れつくように僕の手を取った。
「あったかい」
 僕はその間、湊の皮膚の下を巡るつめたい水のことを考えていた。僕があたたかいのではなく、きみがつめたいのだ、と湊に言わなかったのは、憚って、あえてそうしたのではなく、わかりきったことを敢えて言うまでもないと思ったからだった。僕はその瞬間、人生で最も素朴にほほ笑むことができた。
 湊が、僕たちなにしてんだろーね、と笑いながら柔らかく手をほどくまで、ふたりはそうしていた。
ティーカップをふたつ、盆にのせて二階へ運ぶ。本棚をしげしげと眺めていた湊は、足音に気が付くとすこし恥ずかしそうにこちらへ向き直った。
「ありがとう」
 湊の前に盆を置く。ティーカップから湯気が立ち上り、霧散して消えていく。いただきます、と小さく呟いて、湊はそろそろとティーカップを持ち上げた。椅子がなくて申し訳ないな、と、正座する湊のまるい膝を見ながら考える。
 僕は片膝をついた姿勢を直そうとした。
 胡坐をかいて座したそのとき、カーペットの上に、なにか固くて軽いものが落ちる音がした。
 湊の視線が、ティーカップに湛えられた紅茶の水面から、音のした方へ、ゆるやかに移る。
 僕も咄嗟にそちらを向いた。
 僕は、思わず、あっ、とかすかに声を漏らした。それは、たしかな驚きだった。ただ、それを見せてはいけなかったからひやりと背筋を凍らせたのではなく、単純に、卒爾この機会が訪れたことに驚いたまでだった。
 僕の足元。
転がったのは、カッターナイフだった。
 それは、僕が姿勢を変えた拍子に、僕の制服のポケットから、僕の怨恨と憎悪と自己愛と、あらゆる汚い感情を世界に拡散しながら、ただそこに落ちた。
 沈黙の水滴が波紋を広げる。
 僕の胸にはもはや、期待以外に、何も浮かんではいなかった。湊が僕を軽蔑して避けるようになるとも思っていなかったし、いつかの放課後のように純粋な好奇に目を輝かせるとも思えなかった。
湊はなかなかそれから目を離そうとしなかった。でも僕は、待ち遠しいと鼓動をはやらせることも、しだいに退屈してしまうこともなかった。必ず帰ってくるとわかっている人を温かく暖炉を焚いて待つような、そんな感覚だった。
 掛け時計の秒針の動く固い音が、規則的に空間を切り分ける。熱くもなく寒くもなかったし、明るくもなく暗くもなかった。実際にそうだったのか、僕の意識がそれらを感じる部分を遮断していたのか、定かではない。いつになく穏やかで乱れない、僕の呼吸だけがそこに存在した。
 やがて、湊は僕の負の感情の象徴から、たおやかな仕草で目を離した。
 その目が、僕の目と、合った。
 僕が湊に言ってほしかったこと、してほしかったことは、僕の胸にたしかな硬度をもって存在していた。僕は湊のことを知っているのだから、湊が僕に気づいてくれるのも時間の問題だと、僕は当たり前のようにそう思っていた。
 だから、その反応は最悪だった。
「結生、落ちたよ」
 湊は、きわめてなんでもないことのように、そう言ったのだった。事実以上の含みを一切感じさせない、言い方だった。
 僕は焦った。間違えるはずのない問題を間違っていたことを知ったような気持ちだった。間違えるはずはないから、僕は念を押すように、湊に言った。
「俺、これを毎日持ち歩いてるんだ。なにかに使って、それをそのまま、ポケットに入れておいたのではないんだ。毎日なんだよ。これがあると思うと、なんだか、落ち着くんだ」
 喋りながら、目が乾くのを感じた。気が付くと僕は目を見開いていて、その皿のような目で湊を凝視していた。僕は早まる鼓動に息が荒くなるのを実感しながら、湊に目で以て訴え続けた。湊の足元で祈るようでもあったし、湊の華奢な肩を掴んで揺すぶって、脅しているようでもあったから、僕は自分のことがよくわからなかった。
 ただ、湊が僕に、僕の欲しいその答えだけを、くれるのを待っていた。
 呼吸がしづらくて、僕は肩で息をしたかった。けれど、そうすると湊の瞳に映る僕がみっともなく揺れ、息をのんだままもだしてしまった湊とふたりきりの空間に、僕の息遣いがやけに大きく響くので、必死で抑えた。
 なのに。
 湊は、えっと、とほとんど口の中で呟いて、困ってそうするしかなかったように眉を下げて笑った。
 僕の目がこんなにも暗くて鋭く湊を見つめているのが、不可思議で仕方がないようだった。
 僕は憮然として、そうするしかなく、一度瞬きをした。湊の像はなにひとつ切り替わることなくそこにあった。僕は力なく手を離すような気持ちで、
「なんか、ないの」
と呟いた。しおれた花が風に揺れるような、自分で驚くほどかさかさした声だった。
 湊は須臾の間、僕を見つめていた。唇を何度か開閉させて、続く言葉を探しているようだった。
僕はその様子に、またあわく期待した。
けれど、湊は瞳の中に僕を正確にとらえると、
「なんか、って、なにが」
と問うたのだった。問うたのではない。意に介さなかった、と言ってよい。僕はほとんど癇癪を起こしかけていた。
「なんとも思わないのか」
 それで、語気が荒くなった。湊はひるむでも怯えるでもなく、ただ困惑しきった様子でそこに座していた。
 僕を見つめたまま、湊は口をつぐんだ。僕も黙っていたから、曇り空のような沈黙が、ふたりの頭上に重く圧し掛かっていた。
 痛いほどの無音が空間を包囲する。
 耳鳴りがした。脳内に、つーっ、と音が廻る。その音のほか、何も聞こえなくなった。僕は軽く耳を抑え、耳鳴りが止むのを待った。
やがて、その音は小さくなった。
湊がおそるおそるといった様子で口を開く。
「結生、どうしたの」
「もういいよ」
 僕は衝動的に立ち上がり、湊の言葉を半ば遮るようにして、吐き捨てるように言った。
 湊が僕を見上げて、長く長く息を吐いた。音もなく、肩の動きだけで、細く吐かれた息は、僕たちの間にふたたび張り詰めた静寂に溶けて消えた。僕は立ったまま、湊の顔を見ていた。湊をこの部屋から追い出したい気持ちと、みずからこの部屋を出て行ってしまうかもしれない湊を引き留めたい気持ちがぐるぐると混ざり合って、目の前がくらんだ。僕は拳を固く握りしめた。手のひらに爪が刺さって痛かった。この部屋の外にあるものの気配はまるで消え失せていた。
 卒爾、湊が僕から目をそらした。
咳払いをしたかと思うと、ティーカップを持ち上げて口づけた。
 すべては緩慢な仕草で行われた。
 湊は、ちらっと、窺うように僕の目を見上げた。かと思うと、また目線を落として、紅茶を一口飲んだ。
 僕はやるせなさに失望しかけていたが、カッターナイフ一本で、僕の欲しいものが手に入らないのも無理はないことに、このときはじめて気が付いた。
湊が、僕の目をじっと見ていた。
僕は、腰を下ろすことにした。
 湊と目の高さが合うと、湊はもう僕の方を見ようとはしなかった。その代わり、何かを探すように、うろうろと目を泳がせていた。
 僕は、黙って待つことにした。
 時計の秒針の音が耳につく。先ほどまで意識から全く消え失せていたその音は、今は感触を耳介に伴うかのように、大きく響いている。一糸乱れず連続する固い音の連なりを意識していると、突如、話し声が耳に飛び込んできた。家の目の前の通路を、学校帰りの男児が数人、通ったらしい。まだ稚く高いトーンの声がだれかの名前を呼んで、何か語り掛けている。声は近づくにつれて膨れ上がって、遠ざかるにつれてしぼんで、やがて聞こえなくなった。僕は自分が、壁で隔たれた空間の中にいて、外の世界を歩く人々はみな、この部屋にどんな光景が広がっているのか知りもしないということが、だんだん不思議に思えてきた。外の世界に意識を集中させると、川にかかる大きな橋を車が通る音が、続いて、どこかの犬の鳴き声が、きわめてかすかに聞こえてきた。
 かちり。
 はっとして音のした方を向いた。
 湊がティーカップをソーサーに置いた、陶器の鳴る音だった。
 僕は湊の瞳に吸い込まれる。
 それはあの目だった。僕を強い力で引き込み、鋭いひかりで刺すような、あの目だった。
 僕は身動きがとれない。
湊がゆっくりと口を開いた。
「この前、図書室に寄ってて、帰るの遅くなった時、すごく怒られたんだ」
 そこで、湊は長いまつげで風を起こすように大きく瞬きをして、
「お母さんに」
と言ったのだった。
 僕が何も言えずにいると、湊は僕の瞳の奥底を見つめたまま、
「お母さん、僕に食べさせるものとか、全部決めたがるんだ」
と継いだ。
「変だよね」
 湊が畳みかけるように言う。
 僕は何かを思い出そうとした。なにか、薄暗くて閉塞感のある場所で、湊とふたり、同じ壁にぶつかったことがあった気がする。
 頭が痛い。脳内がぐるぐると回る感覚。
 湊はさらに、
「これ」
と言うと、僕の本棚から一冊の本をそっと抜き取った。
「僕、この本、中学の同級生に教えてもらったんだ。映画も」
それは『リリイ・シュシュのすべて』だった。湊が自由読書感想文の題材に選んだ、あの本だ。
「お母さんに見つかると怒られるから、こっそり隠れて読んだ。読ませるものも、全部決めたがるから」
 湊は本のページをぱらぱらと繰った。湊の目が僕を開放して手元に落ちてしまうと、僕まで、湊のしらうおの指から目が離せなくなった。その指が、最後のページにたどり着く。
 指の動きが止まる。気配で、湊が僕を見つめるのがわかる。僕は糸を引かれた人形のように、自然と顔を上げていた。
 湊の目に、とらわれる。
「変だよね」
 僕はとつぜん、湊の言葉の続きを壊してしまった、あの地下鉄のホームでのことに思い至った。
 黒曜石の瞳。
 湊は僕を連れ戻したがっている。尾ひれを覗かせば、僕が食いつくと、そういう言葉をちらつかせることで、僕の心を繋ぎとめようと、思っている。
僕は、嬉しさと、愛おしさとともに、あることを確信した。
 僕は湊を見つめ返した。強い力を込めた目で。
湊の目に宿るひかりと、僕の目が反射する一筋のひかりが、ふたりのあわいでぶつかる。
僕はたしかな勝算をしかと確かめるように、ぴったりと張り付いてしまった唇を舐めた。
そうして、湊に告げた声は重々しく響いた。
「本当のこと」
「えっ」
 湊が虚を衝かれた様子で大きく瞬いた。
「話してほしい」
 今なら湊の手を取って、ふたりで、あのホームの向こうがわへ行ける。
このとき、僕は湊を利用したのだろうか。湊の心に取り入ろうとした、僕はずるいのだろうか。
湊は。
今となってはよくわからない。
 ただ僕は、湊のことをもっと知りたかった。湊が僕を知らないのなら、湊のすべてを知ることで、湊という対岸に縋りつくしか、僕にはやりようがなかった。
 僕は湊の表情を注意深く観察した。
湊は逡巡していた。
 不思議だった。湊から仕掛けてきたはずだ。なぜ、僕の発した言葉に驚いたのだろう。なにを、そんなにもためらう必要があるのだろう。
 僕はぐずぐずする湊を見ているうち、もう二度と取りこぼすことはできないと思った。湊の本当のことを引き出して、離さないように、掴まなければならない。さもないと、湊と僕の距離がこれ以上縮まることも、湊が僕を知ろうとしてくれることも、一生なくなってしまうような気がした。
 僕は立ち上がった。湊の隣に座す。
 湊の瞳が僕のとつぜんの行動にゆらいで、僕の顔を見ていた。
 僕は湊を抱きしめた。湊が小さく息をのんだ。痩せた肩の骨が、僕の顎のあたりに当たる。その肩が跳ねあがったのを、僕は右の手で包んだ。
「ぜんぶ、うけとめるから」
 湊の呼吸が、荒いものに変わっていく。肺から空気が押し出されて細い喉を通る、苦しげな音を耳元に聞いていると、やがて、決壊したように、湊は声を上げ始めた。
 泣いていた。
 とぎれとぎれにしゃくりあげ、そのたびに胸の中で身体が跳ねる。涙で濡れる肩に、あたたかで湿った感触を受ける。湊の涙と、不規則に乱れる吐息のもつ熱とがこもって、僕の体温までもが上がっていく。
 僕は湊の頭を撫でた。
 僕がしてほしかったことを、自然としていた。
規則的なリズムで、優しく丁寧にそうする。と、湊は徐々に落ち着いてきた。
 どのくらいそうしていただろうか。
やがて、平静を取り戻しつつ、湊が言った。
「ごめんなさい。どうしたらいいかわからない。頑張ってるつもりだけど、あんまりたくさんのことは言えないかもしれない」
 うん、と僕は湊に囁いた。
 湊は言葉を切ると、僕の肩に顔を隠したまま、
「結生は、どうしてそんなに僕のことを知りたがってくれるの」
と子供のような声で言った。
 僕は、
「湊のちからに、なりたいからだよ」
と笑みながらいらえた。
 ふたたび、湊がはげしく嗚咽を漏らす。肩が大粒のしずくに濡れた。湊の泣き声が、僕の胸の中にじんわりと染みをつくる。
 湊は何度も、ごめんね、ごめんなさい、と言った。僕はその意味をよくわかったうえで、なんで謝るの、と言い続けた。すると、湊もそれを言わなくなって、やがて、嗚咽も落ち着いてきた。
 しばらくすると、泣き止んだ湊は僕をそっと押し返した。
 僕は、湊が僕の顔を見て話したがっていることに気づいて、素直に体を離した。
 湊の赤く弱弱しい目が、僕のそれと合う。
 湊は小さく息を吸って、話し始めた。
「僕の家ね」
「うん」
 僕は神妙な面持ちを浮かべて、相槌を打った。
 湊は、そう言ったきり、目線を外した。膝をすり合わせたり、目を落ち着きなく泳がせて、続く言葉を必死に紡いでいた。
僕は湊の手に自分の手を重ねた。
 湊がうるんだ目をこちらに向けた。
 僕は、そっと微笑む。
手をぎゅっ、と握った。
 湊は口をかすかに開けたり、閉じたりしていた。
が、やがて意を決したように、口を開いた。
「僕の家、毎日、神様にお祈りするんだ」
「うん」
「それだけじゃない。花とか、飾るんだ。いや、供えるっていうのかな」
「うん」
 湊は、間を開けてから、
「もう耐えられない」
「うん」
「ごめん、もうあんまり、言いたくない。こんなこと、誰かに話すのははじめてで」
 そう言ったきり、黙ってしまった。
 僕はできるかぎりの慈しみを込めた目で、湊の気持ちが和らぐように見守っていた。湊がすべてを告白しなかったことに、すこしの苛立ちとわだかまりを感じながら。
 ただ、僕の胸に抱かれて湊が泣いたこと、湊が事実を僕に打ち明けようとしたことは、僕の胸の中に、夢みたいな輝きをもって、温かく広がっていた。
「みなと」
「うん」
 湊の瞳の中に、僕が映っている。
 湊の目が涙を表面に張って、無数の星をちりばめたように、いつにもなくきらきら輝いて見えた。
 僕は息を吸って、吐いた。
 唇の端で笑みをかたちづくる。
口を開いて、湊に告げた。
「俺の話も、聞いてくれないかな」
 そのとき、湊がどんな顔をしたか、僕は覚えていない。
 ただ、湊は押し黙った。
 そして、大きく瞬いた。
目蓋がふたたびひらいたとき、もとどおりの湊の瞳が、そこにあった。
「うん」
湊は、そう言って柔らかく笑ったのだった。
 僕ははやる気持ちのまま、話しだした。
 僕は話しながら、涙を流した。
 湊は僕の涙を見ながら、始終を黙って聞いていた。
僕が話し終わると、湊は優しく言った。
「そっか」
 湊がおもむろにティーカップを持ち上げ、紅茶を飲んだ。僕は湊の仕草を目で追いながら、湊の次の言葉を待ち焦がれていた。
 心配してほしい。同情してほしい。僕を優しく包んでほしい。
 もうひとつ、僕のさらけ出す弱さを、信頼の証として受け取ってほしい。
 かちり。
 ティーカップとソーサーがぶつかって、音が鳴る。
 湊は僕の目を見て、相好を崩した。
そして、言ったのだった。
「みんな、一緒なんだね。いろいろあって辛いのは」
 僕は湊を見つめた。野に咲く花のように、無邪気に微笑んでいる湊の顔を。
 僕がいくら見つめても、湊の表情は動かなかった。
 僕は、なにもわからずそうした。
 湊の細い両手首を掴む。なに、と呟く湊の、油断して脱力しきった腕をひとまとめに掴むと、頭にもう一方の手を添えて、わざと時間をつかって体重をかけた。わけがわからないのか、湊はえっ、と声を上げた。
 押し倒され、床に押さえつけられた湊が僕を見上げる。
「キスしていい」
 その目が、大きく見開かれる。掴んだ手首が、微かに揺れ動いた。
 つめたい肌。
 僕は湊を嫌いになれない。そのつめたさを気持ち悪いと吐き捨てることができない。
 僕の熱に対する無関心も、ああきっと、これが正しい反応なのだ、と僕は既に納得しかけている。
僕は返事も聞かないまま、強引に口づけた。
前歯があたって、小さな音が鳴った。湊が、ん、とくぐもった声を漏らす。その唇は柔らかくて、やっぱりつめたかった。
しばらくそうしていた。
唇を離すと、
「みなと」
と呼びかけた。
 湊の頬に、ぽた、としずくが落ちる。
 それで、僕は自分が泣いていることに気が付いた。
「結生」
 湊が僕を見つめた。
 僕は手首を掴んでいた右手を離した。
 湊の身体を挟むように膝をついた姿勢で上体を起こすと、頭がぼうっとした。
ふたりが呆然と、ただお互いを眺める虚ろな時間が過ぎた。
 そのとき、湊がみずから、僕の手を取った。僕が驚いて湊を見下ろすと、湊は僕の目を見ながら、さらに指の一本ずつを絡ませた。
 僕のあつい手に、湊の手がつめたかった。


湊の手はいつもつめたかった。
 僕はそのつめたさに触れるたび、自分の昂りを知ることになった。
熱帯夜。星は見えない。鬱蒼と茂る草木に、生命は生き延びようと泥臭く熱を籠らせる。
 濡れた草陰。
 僕たちは密やかに、幾度となく手のひらを重ねた。指の一本ずつを絡ませて。学校の空き教室で。放課後の、僕の部屋で。そのたびに、僕たちは夏の夜に攫われた。
僕の手のひらに滲んだ汗が、湊のひんやりとした手のひらとのあわいで蒸される。
 草いきれの匂い。
湊はたびたび、最中に顔を隠した。僕は湊の奥の奥を知りたくて、その手を退けた。
「みなと」
細い手首をやわく掴みながら、僕は呼んだ。
「たのしいね」
そう言うと、湊は、僕の手から伝った熱を持て余して、顔を火照らせた。
 あるとき、僕は事切れてすぐに眠ってしまった。
 夢を見た。
 湊はつめたい水になった。気づいたら、僕も水になっていた。僕たちは柔らかく姿を変えながら抱き合った。僕は湊の広がるのに応えて、湊の中に広がった。湊はさらに広がって、僕を受け止めた。ふたりにかたちはなかったから、そうするのは容易だった。なにより、ふたりは、そうするよりほかに、わからなかった。湊はいつまでもつめたかった。それを肌に受けながら、僕は水になれてよかったと思った。色もかたちもない湊がいて、僕がいた。やがて、ふたりはひとつの大きな水になった。僕にはもう、僕なのか湊なのかわからなかった。
 目が覚めた。
 頬にあついなにかが伝う感覚。
 勢いよく起き上がる。
 隣に、湊も眠っていた。
 僕は湊を揺すり起こして、たのしいよね、と早口で問うた。湊は開かない目をこすって、何も言わなかった。
僕はもう一度、みなと、たのしいよね、と訊いた。
 湊はやおら起き上がると、僕のあごにそっと手を添えて、口付けた。
 そして、言ったのだった。
「いけないことするのって、たのしいね」
 今度は、僕から湊に口付けた。
 湊は閉じていた目をゆっくりと開いて、滲むように小さく笑った。
「ゆうきがいてくれたら、僕はそれだけでいい」


 十一月下旬の休日。待ち合わせた駅の改札に、湊は制服姿で現れた。
 言葉を失って、湊のつま先から頭の頂を舐めるように見てしまった僕は、
「ごめん」
と言う湊の声で我に返る。
「ううん。でも、どうしたの」
「お母さんが」
 湊はわずかに言葉を探してから、
「学校の用事って言わないと外に出してもらえなくて」
と、つとめて明るく言った。
 僕は、かけるべき言葉を見つけ出せずに、しばし沈黙した。やってきた人が改札をくぐる電子音が、遠くに聞こえる気がする。と、構内から、何重にも重なる足音が群れを成して響き、電車を降りた大勢の人が押し寄せてきた。迫りくる人の波に、とにかく行こう、と湊の手を引いて駅を離れた。
 目的地のショッピングモールの最上階は映画館になっていて、今日は湊と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の再上映を鑑賞する約束をしていた。
すこし駅から離れた場所にあるそこへ向かう道すがら、湊はこの映画を見るのははじめてだと言った。
湊が僕を気遣って話を振ったことに、僕は気が付いた。それで、笑顔をかたちづくって、僕は言った。
「俺のいちばん好きな映画だよ」
 湊は、そうなんだ、楽しみ、と顔をほころばせた。
 ショッピングモールの入り口をくぐると、暖房に温められた空気、館内アナウンス、どこかの店員の呼び込み、家族連れののどかな会話の端くれ、が一体となって僕たちを迎え入れた。軽やかなBGMについ浮足立ってしまう。照明の色が、親しみやすくかつ煌びやかな、ささやかな幸せを演出する。
エレベーターに乗り込むと、僕は汗ばんでしまってコートを脱いだ。次にドアが開くと、映画館のロビーが、薄暗い娯楽施設へ入るときに特有の高揚感を誘った。
「けっこう混んでるね」
「うん。でも時間あるから大丈夫だよ。並ぼう」
 列の最後尾に着くと、鞄から小ぶりな財布を取り出す湊を見ながら、僕は思い出した。
湊は以前、親から小遣いをもらえないと言っていた。当然、バイトもしていないはずだ。僕は湊に、どうやってチケット代を工面したのか尋ねた。
 僕は、代金の出所に興味があって尋ねたわけではなかった。本当は思い当たっていた。湊が今日のために、どのように振舞ったか。
 ただ、それを湊の口から言ってほしかった。意味のあることだと思った。
 湊は、戸惑いを紛らすようにくすり、と笑ったあと、目をきょろきょろさせて逡巡した。僕が黙って見ていると、やがて、思い切った様子で息を吸い込んだ。
「盗った。お母さんの財布から」
僕は案の定、と思いながら、せめてものつもりで、俺もしたことある、と笑ってあげた。
列が前に進んだ。キャラメルポップコーンの匂いと喧騒がないまぜになった、映画館の空気。僕はのんきに、湊も食べるなら塩味とどっちがいいだろう、などと考えていた。
「嫌いにならない、僕のこと」
 僕ははっとして、湊の顔を見た。
 湊がか弱いまなざしで、僕を見ていた。
 僕は、なにかが違う、と思った。でも、なにが違うのかわからなかった。
 列が前に進んだ。僕は唾を飲み込み、平静を呼び戻してから、湊をしかと見つめて、言った。
「そんなことで嫌いになるはずないよ」
 湊を安心させたくて、そう伝えるにとどめておいた。が、違和感は奥歯に引っかかったように、僕の中に残った。
 映画を見終わると、僕たちはフードコートで昼食をとった。
「悲しい映画だった」
 ラーメンをすすりながら、湊はほんとうに悲しそうにそう言った。
 休日のフードコートは混んでいて、談笑する大人の声や、子供のはしゃぐ声や、食器の鳴る音が騒々しかった。しかし、それはフードコートという場所の楽しげな雰囲気を醸し出していて、悪くはなかった。
 喧騒を背景に、僕と向かい合った湊はさらに続けた。
「でも、綺麗だった」
 僕はその言葉に、箸を止めた。
「綺麗って」
 僕の問いかけに、湊は咀嚼したものを飲み込んだ。
「セルマは、息子のために自分が犠牲になり続けるでしょ。最終的に殺されてまで守りたいものがあるって、綺麗。セルマはほんとうに強い人だと思った」
 湊はすらすらと、それでいて、心に染み入ったものを切に愛でるような口ぶりで、述べた。
 僕はラーメンのスープに浮かぶ油を見つめながら、しばし考えた。
僕がこの映画を好きだったのは、死が美しくないからだった。この映画で、死はとつぜんに、あらゆる音楽の終わりとして、絶対的に訪なう。僕の中で、死は残酷でなくてはならなかった。幸せであたたかで美しい死なんてあってはならない。だから、僕はこの映画の死が大好きだった。絶望の死が。
反して、盲目が遺伝するとわかっていて息子を生んだという罪を贖う使命に振り回されたセルマの生は、健気なようでせせこましくて、そのうえ潔さに欠けて、どちらかというと嫌いだった。
食べないの、と湊に心配されてしまい、僕はいや、といらえて食事を再開した。
僕は湊の感想を聞けてよかったと思った。湊が僕とちがう感性を持っていることはすこし残念だったが、湊が何を見て、どう思うか、なぜそう思うに至ったのか、そんな湊のかけらをもっと集めたかった。
僕は笑いまじりに言った。
「俺もそう思うよ。そこが好きなんだ」
 湊は照れくさそうに笑った。
「いっしょだね」
 フードコートを出て、アパレルショップやインテリア雑貨の店、書店などの並びを見ながら歩いていると、吹き抜けの広場に出た。このショッピングモールは、一階の広場を取り囲むような輪の形に店が並んでいる。いくつかのベンチがぐるりと設置されているその円環の中心に、それは佇むように置かれていた。
「あっ。ピアノ」
 湊は小さく声を上げた。街で偶然出会った仲良しに声をかけるような、そんな声だった。
 開放感のある吹き抜け、あふれる照明のひかりに賑やかな時間が過ぎていくなかで、その漆黒のグランドピアノは、重々しく異質な存在感を放っていた。
「ストリートピアノだね。誰でも弾いていいみたいだ」
 僕は、放課後の電車の中で湊がピアノの話をするたびに、初めて喋った日の、あの音楽室での湊のことを思い出していた。
「湊、弾いてみてよ。うまいんでしょ」
「まあ、長くやってるけど」
 あの日の湊のまなざしを目の当たりにして、湊の愛が惜しみなくピアノに注がれていることを僕は知った。それから幾度となく、ピアノを弾く湊の姿を想像してみたが、実際に演奏を聴くのははじめてだ。僕は期待に胸を躍らせた。
 湊が丸椅子に腰かける。
「なに弾くの」
 湊は口元に手をやって思案を巡らせた。
「うーん。じゃあ、リストの『泉のほとりで』」
 湊の口元に浮かんでいた笑みが、消えた。
 それと同時に、湊はすっ、と手を構える。
 つぎの瞬間、僕は湊から目が離せずにいた。
 湊が白鍵を抑える。
響く音は、水滴だった。水滴は点々と空から降ってきて、泉に跳ねた。そのたびに、玲瓏たる音が森に反響した。
 かと思うと、音は泉の水面に反射するひかりになった。まばゆい金色の粒がいくつもはじける。きらめきは揺れながら終わったりはじまったりした。魚の鱗のように、いくつも、いくつも。
 長らく森を彷徨った僕は、見つけた泉に引き寄せられる。
 指先に、泉の水はつめたかった。僕はこのつめたさを知っていると思った。
 湧き出てやまない水。両手で掬うと、僕の手のひらの丸みのかたちに、それは持ち上がった。
 僕はその水温に安らぎを覚える。
掬った水をひとくち、飲んだ。
 たちまち、音は、僕の心臓の鼓動になった。心臓が動くたびに、激しい痛みに貫かれる。僕は苦しさに喘ぎながら、喉をかきむしった。酸素を取り込もうと開けた口から、かみ合わない歯車の軋むような残酷な音が漏れる。身体を大きく震わせ、咳き込んで吐き出すと、それは血のかたまりだった。血はあつかった。あつくて、燃えるような赤色だった。ふと気が付くと泉は涸れていた。泉のほとりで、取り残された僕はひとり、死を待ち続けた。
 僕が空想から抜け出すと、湊はこの曲の中で繰り返される旋律の最後の一節を丁寧に弾き終えた。
ベンチに座っていた女性たちが湊に拍手を送った。
 湊が立ち上がり、面映ゆそうに、けれどどこか誇らしげに一礼すると、僕たちはその場を離れた。
 店の並びを歩きながらも、僕は感嘆のため息を堪えられない。
「あんなにうまいなんて」
 湊の知られざる一面を覗くことができて、僕は胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
 もっと知りたいと思った。湊のすべてを、知りたい。知らなければならない。
 湊はいたずらっぽく笑うと、惚れ直した、と訊いた。
 僕は、うん、といらえようとした。
そのとき、とつぜん、甲高く泣き叫ぶ声が僕らの間を切り裂いた。
 驚いて声のした方を振り向く。
小さな女の子が転んで、母親に助けを求めていた。三歳くらいだろうか。小枝のような足の節のような膝に赤く血が滲んでいる。僕は足元を見やる。床のタイルはざらざらとしていて、たしかに転んだら痛そうだった。
 隣で、湊も様子を見守っていた。僕は、行こう、と促して湊のコートの袖を引こうとした。
 そのとき、湊は、同情もあらわに、痛々しげに言った。
「可哀想に」
 僕の鼻先を、夏の気配が掠めた、気がした。
 僕は何も言わなかった。
と、湊が、あわてたように呟く。
「あ。可哀想ってだめなんだった」
 反射的に、僕の口からえ、と音が漏れた。いっそう大きくなる女児の泣き声に、母親の窘める声が続く。その声がどこか遠くで響いているように思えた。湊の言葉も、よく聞こえなかった気がしたから、聞き間違いかもしれない、と思った。
 けれど、湊はなぜか、はにかむような顔で、あの時は失敗したよ、と笑いまじりに言った。
「普通に、失礼だもんね。僕、やっとわかったんだ。人に、可哀想なんて絶対言っちゃいけないって。言われて、それを優しさだと思う人なんていないって」
 すっ、と血の気が引くのがわかる。氷水を頭からかけられたみたいだった。震える手に、衝撃を隠しきれない。
僕は拳を固く握ると、やっとの思いで、どういうこと、と問うた。
 湊は川の流れのごとくすらすらと話し続ける。僕が溺れかけているのにも気づかずに。
「僕、可哀想なんて言われたことなかったからわからなかったんだ。でも最近、なんだかわかるようになってきた。傍からどんなふうに見えても、たとえば、僕だって僕なりに一生懸命で、だから」
「黙れよ」
 声が思いのほか大きく響いたのに、僕自身も驚いた。
 あたりから音が引いていく気がした。
 そばを通りかかった人が数人、振り返りざまに僕たちを一瞥した。
 僕は俯いたまま、鼓動を飲み込むように息をした。
 女の子の泣く声。
 はっとして湊の顔を見ると、大きく見開かれた目は今にも泣きだしそうだった。わずかに開いた唇から、細く息を漏らしている。
 その唇から発せられた、蚊の鳴くような、ゆうき、という声が僕の名をかたちづくった。
 僕は踵を返した。足早に歩きだす。
 湊は追いかけて来なかった。
 苛々した。
 僕は走り出した。
湊を置いて、どうやって帰ったのか覚えていない。ただ、急に外に出たとき、暖房に温められた耳があつくて、頬を伝うものもぶわっ、と目頭に広がるものも、あつくて、外気がとてもつめたかった。
家に帰ると、仕事が休みの母がいて、おかえり、楽しかった、と僕に尋ねた。それにも、何と答えたのか覚えていない。答えないまま自室に引きこもったかもしれない。
 僕は携帯電話のメッセージアプリを開いた。青白い液晶が、陽の落ちた真っ暗な部屋で僕の顔を浮かび上がらせる。
メッセージアプリから、湊の連絡先を削除した。
どうして泣きながらこんなことをしているのか、僕はわからなかった。


 受験期の夏に、一日だけ、風邪をひいて寝込んだことがあった。僕はベッドの中、高い熱を出して、厚い膜に覆われたようにぼうっ、とする頭で、考えるというより、思っていた。
 僕にとって、勉強は継続の儀式だった。毎日決めた量を決めた時間でこなして、それを積み重ねて毎日をかたちづくることにこそ、意味があった。
 けれど、それはもう、崩れてしまった。一日、十三時間と決めた、夏休みの勉強。もちろん、休みを予定に組み込んだ日(たとえば、良子さんとの逢瀬)もあった。けれど、それは前もって自分に許したことだ。唐突に、強制的に一日が崩れたそのとき、僕は勉強にも、綿密に練った予定にも、継続にも、生きることも、すべてから興味を失くしてしまった。
 僕はあくる日から、一切の勉強を放棄した。結果、当初の第一志望より偏差値を大幅に下げた今の高校に進学した。
 つまり、僕には完全を求める癖があった。そしてその癖は、僕の人生に幾度となく、破綻をもたらした。


乾いた冬空に虚しく枝を伸ばす桜の木を横目に、学校に着いたとき、四時限目が終わった昼休みの途中だった。空は青いのに、どこかくすんでぼやけた印象を受ける。
朝はどうしても起きられなかった。布団に潜っている間、僕は大きな海を漂っている。億劫と自責のはざまの海。僕が学校へ行けるときは、たまたま岸へ流れ着くことができたときなのだ。朝、アラームの不愛想な電子音を聞きながら、僕は泳ぐのを諦めた。すると、こわばっていた憂鬱は一瞬にして安らぎ、胸がすっ、と軽くなったのだった。夏ぶりに訪れたその感じが、今日は懐かしかった。
誰もいない昇降口で靴を履き替えるといつも、体調不良で早退した小学生の頃を思い出す。当時、僕はさぼることを知らなかった。そんなことをしでかしたら終わりだと思っていて、だから頭痛や腹痛で正当に早退できるときを待ち望んでいた。そういうときの帰り道は、あたたかくて優しくて、陽にあふれた町並みがとても美しく、捨てたものじゃない、と思えた。
下駄箱に並んだローファーやスニーカー。校舎のずっしり構えたひさしのせいで昼の短いひかりは遮られ、あたりにはどんよりと湿っぽい暗がりが広がっている。
周りに人はいない。
こういうとき、僕は、盗れる、と思ってしまう。
頭がぼうっ、としてくる。上履きを手に持ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
小学六年の夏、僕は学校であらゆるものを盗んだ。
使いかけの消しゴム。教卓の中の書類。図書室の本。女子のランドセルについていたぬいぐるみ。
授業中は背筋を伸ばし、まじめにノートを取りながら、休み時間には、次はどうやって何を盗ろうかといつも考えていた。
あるとき、僕は図工室からカッターナイフを盗んだ。
ただ目についたそれを盗んでみたかった。いつも通り、小さな背徳が、僕の悲しみや絶望や孤独や、僕に向かって飛んでくる不条理を紛らしてくれると思った。
しかし、意に相違して、僕が病みつきになったのは、ポケットの中に刃物をしのばせる危うさだった。僕が抱えた自意識がカッターナイフというかたちで具現化されると、それを持っていない同級生が丸腰の馬鹿のように思えて、彼らを正面から見下すことができた。怯えの対象でしかなかった世界と、僕は初めて向き合うことができるようになったのだ。
僕はそういうやり方で、普通を生き延びてきた。
カッターナイフを無断で持ち出したことは誰にも咎められなかった。それどころか、僕の盗みが表立って問題となったことは一度とてなかった。はじめのうち、緊張しながら過ごしていた僕は、ひょっとすると、僕が常に廊下の右側通行をまもるような優等生でいようといまいと、世界は変わらない質量で過ぎるものかもしれない、という予感を持った。
ようやく、手に持っていた上履きを履いて、教室へ向かった。
 教室へ入ると湊が椅子から立ち上がって、僕に駆け寄ってきた。僕は視界の端にそれをとらえながら、目を合わせないように意識して自分の席に向かった。ついこの前席替えがあって、僕は変わらず窓際後方に座る権利を獲得したが、教室の真ん中あたりに席が変わった湊とは離れた。僕は机と机の間を縫うように進みながら、席替えがあってよかった、と思った。
 席に辿り着くと、僕は窓から差す昼のひかりに包まれた。肩にぽかぽかとした温かみを受ける。陽にあたためられた空気の匂いがして、視界が白色に染め上げられた。
 その白色を、人影が割った。
「結生。待ってたよ。おととい、ごめん。僕」
僕は鞄を置くと、湊の言葉を最後まで聞かずに、ふたたび机の間を縫って出口から教室の外へ出た。つめたい廊下の空気を顔に受ける。
湊は、追いかけてはこなかった。
行く当てなどなかったので、意味なく校内を周回して戻ってくると、湊は席を外していた。すこし残念なような、腹立たしいような気持ちで自分の席に着こうとする。
と、僕の席に樋口が座っていた。たしかダンス部に所属していて、いつもクラスの中心でやかましく騒いでいる女子だ。濃い化粧を一重の目に施していて、ちかづくと人工的な果物っぽいにおいがした。樋口は大口を開けて取り巻きと無駄話に夢中で、僕が座ろうとしているのにも気づかない様子だった。その席が僕の席であることも、おそらく知らないだろう。
僕は樋口の背後から席に近づいて、どいて、と言った。
窓際の壁に寄りかかっている樋口の取り巻きが、ちらっと僕を見て、侮蔑的な笑いを口元に浮かべた。そのまま、僕を意に介さず、ふたたび会話を再開する。
僕は、今度はすこし声を張って、
「どけって」
と樋口に言った。
 すると、取り巻きがさっと色を失った。ひとりが、ねえ、行こう、やばいって、などと口にし、樋口が何事かと振り返る。樋口は僕を認識すると、ぎょっとして、行こう、と取り巻きに呼びかけ、足早に去っていった。
 事なきを得た僕は、ちり、と音を立てて刃をしまうと、カッターナイフを制服のポケットにしまった。
 授業がすべて終わると、僕は図書室に寄った。大きな窓が目に入る。カーテンが開いていて、夕闇のなか、残光の最後の一筋が僕を鋭く睨める。僕はカーテンをすべて閉めると、純文学系の棚の前に立った。様々な出版社の、色とりどりの背表紙。タイトルと著者名が意味のない列をなして、何も頭には入ってこなかったが、僕はそうしていた。
 僕は湊と電車に乗って帰った日のこと、その窓から見えた金色のひかりに沈む町のことを思い出していた。隣に湊がいた、やわらかで、もうもはや幻みたいに思える日のこと。
 ふと気が付くと、真っ暗だった。目を凝らして壁にかかった時計を見ると、なんと一時間が過ぎていて、その間に陽はすっかり落ちていたのだった。十七時。僕は暗がりに取り残されているのに今まで気が付かなかったことを不思議に思いながら、図書室を後にした。
 暗い廊下をひとり、ぺたぺたと上履きの足音を響かせながら歩く。角を曲がると見えてきた昇降口は明かりがついていて、夜が織りなす闇に人工物の明かりが無機質に映えるその空間に、僕は不思議な安心感を覚えた。自然と駆け足になって、明かりの中に足を踏み入れた。
 湊がいた。
 下駄箱を背に体育座りで座している。ちいさなまるい背中。足音で人が来るのをわかっていたのか、その目ははじめから僕を正確にとらえていて、あの高い声が、甘い響きで、
「ゆうき」
僕を包んだ。
 僕はその場から動けずに、立ち尽くしていた。やがて、湊が、あの、と思い切った様子で言葉を発するまで。
 小さな蛍光灯の明かりに、湊の細かな表情はわからなかった。ただ、いつになく消え入りそうな、濡れたような声が、おぼつかない口ぶりでこう話すのだった。
「ごめん。あのとき、僕ひとりで喋りすぎたよね」
 僕は黙っていた。
「結生のこと気も遣わないで、ほんとごめん」
湊は、その、とか、えっと、とか、そういう音を挟みつつ言葉を必死に紡いだ。僕の中に、湊が紡いだ言葉に落胆する気持ちと、もうひとつの異なる気持ちが交差して反響していた。
沈黙を辞さない僕に、とうとう、湊は涙声で告げた。
「でも、ゆうきがいないと僕は」
僕はもう、耐えられなかった。
湊に駆け寄って、その細い身体を抱きしめる。湊が小さく声を上げた。
ごめん。耳元でそう伝える。
湊は涙を流して、鼻を啜って、ううん、と笑った。
湊の身体を離して、その目を見る。僕はやっぱり、なにかが違う、と思った。しかし、
「よかった。結生とまた笑えて」
と湊が心底安堵した様子で言うので、僕はそうだね、とそっと笑い返した。
ふたりで学校を出た。時計を見ると十七時半だったが、あたりは深い夜の色に染まっていた。
「どっか行こうよ」
 僕は、あえて湊の顔を見ずに、そう誘った。
 そうすることで、湊の家の門限が破られることになると、僕はわかっていた。
 でも今の湊は、僕の誘いを断れない。
 やはり、湊は、すこし黙ったのちに、
「うん。結生の家に行きたい」
と殊勝にも笑っていらえたのだった。
冬の風がつめたい。熱を持ったうなじが冷やされていく。夜空を背景に、鮮やかな赤信号が滲むように光った。
「ほんとは、門限って何時」
「十七時」


 翌日も、僕は湊を家に誘った。湊は仄かに嫌がるそぶりを見せたが、最終的には僕に追従して、部屋に上がった。
 暖房に温められた僕の部屋。この部屋で睦みあうのも、もう何回目だろうか。手をつないで、湊の唇に僕の唇を押し付けるのは。舌で口内を侵しながら、僕は湊のシャツを脱がそうとした。
 途端に、湊が慌てて僕の身体を押し返す。唇が離れる寸前、口の中で、いや、と発音したのが聞こえた。
「どうしたの」
僕は急に離れた唇が惜しかった。
湊は眉を下げ、手の甲で口元をぬぐいながら、
「シャツ脱がさないで、して」
と小さく呟いた。
湊は上目に僕を見つめる。
おかしい。やっぱりなにかが、違う。
そう思いながら、ぼくは、どうして、と訊いた。
湊は答えない。
沈黙が流れる。どこか不吉な空気だった。
先に無音を破ったのは、僕だった。
僕はいつかのように湊の手首を掴んで、無理やりシャツを脱がせようとした。
と、湊が、
「やだ、やめて」
と大きな声を上げて訴えた。
 僕は驚いて動きを止める。
湊が僕を見上げた。
秒針の音がやけに大きく、耳障りに鳴り響いている。
苛々した。
僕は湊を見つめ返した。
あの目で。
湊は肩で息をした。僕に目で射られて、動けない。
秒針の音にぴったり重なる湊の息遣いが、部屋に響いた。
湊の手首を抑える左手に、痛いほど力がこもる。
僕は決して目を逸らさなかった。
湊は堪忍したように脱力して、目を閉じた。
僕は手首を掴んでいた手を離し、その白いシャツをはだけさせ、肌着も剝くように脱がせた。
力なくうなだれた、湊の魚のような白い腹に手を這わせる。
湊の身体をくまなく丁寧に愛撫した僕は、いよいよ湊の中にはいろうとした。
「みなと、背中向けて。四つん這い」
湊は、この期に及んですこしためらった。
伏せた目蓋にそのほとんどを覆い隠された目が、せわしなく泳ぐ。
その目が僕を見上げた。
湊の瞳は、やはり、なにかがおかしかった。
苛々した。
「はやく」
湊は、ゆっくりと背中を僕に見せた。
その瞬間、頭の血がすべて凍ったみたいだった。
時間が止まる。
そのとき僕を襲ったのは、驚愕と、たしかな、恐怖だった。
湊の背中は白かった。その白い膚に、傷跡がびっしりついていた。何かでひっかかれたような、赤い線が、無数に湊の身体に模様を綾なしている。瘡蓋の生々しいものや、青黒く変色したもの、蚯蚓腫れの痛々しいものなど、かなり深い傷もある。
僕はあまりの光景に絶句して、膝で立っていた脚から力が抜けた。
「なにこれ」
声が震えた。湊は何も言わなかった。自らシャツを拾い上げると、袖を通して、ただ悲しげに、僕の面差しを見ていた。
僕は早口で問うた。背中に、手に、額に汗が滲む。
「なにこれ。叩いた跡だよね」
 僕の荒い呼吸が、空間に反復する。
 静寂。
 僕は、目を離したら負けだと思った。
 湊を見つめ続ける。
 湊は、やがて、なにか諦めた様子で、やっと口を開く。
「鞭」
 僕は、むち、と無意味に言葉を反芻した。それしかできなかった。
 瞬きも忘れて湊の顔を見ていた。
 張り詰めた空気が流れる。
僕はわななく手をなんとか開いて、やっとのことで、
「誰に。どうして」
と湊の肩を掴んだ。
 湊の目から、音もなく一筋の涙がこぼれた。
「ゆうき」
「言えよ。誰にこんなことされたんだよ」
 湊の声に被せるように、僕はほとんど叫んでいた。
 なのに、湊は、言えない、と何度も首を振った。
「どうして」
「言えないよ」
 僕は、気が遠くなるような感じがした。必死に、喉の奥から痛みを伴って、言葉を引っ張り上げる。
「まだ、俺の知らない湊がいる」
湊は咽びながら、僕に肩を揺すぶられて、首を横に振り続けた。
僕は、生きるよすがにすらならない、本物の絶望を感じた。死。僕たちの間にあったものが。死にゆく音が聞こえた。
否。僕たちはきっと、はじめから死んでいた。なかったのだ。僕たちの間に、笑いあえるものなんて、なにもなかった。
目の前が真っ暗になって、僕は唇の先、かろうじて動く部分だけで、言った。
「もういいよ」
「ゆうき」
「帰って」
湊は動かなかった。湊がどんな顔をしているか、僕はわからない。見えない。
いなかった、はじめから。湊なんて。どこにも。
僕は叫んだ。
「帰れって」
 がさがさの叫び声が部屋に響いて消えると、腹の中がちくりとして、あついものが唇の端を伝った。


 開けた窓に、カーテンが風に揺れて膨らむ。朝は白いひかりに溢れていた。椅子や机の並んだ変わり映えしないはずの景色すら、やさしく霞んで見える。明るさの満ちる室内に、やわらかな風の通り道があるのがわかる。けれど、不思議とそれほど寒さを感じなかった。それだけではない。どこか夢の中にいるように、すべての感覚が実体を伴わない不思議な時間の中に僕はいた。
 目を閉じる。
「だってさ」
 湊はいじけた口調で言った。 
「言えないよ。言えないものはさあ」
 僕は、ごめん、と笑った。湊も、ふふ、と息を漏らす。
「でも、次の日も湊が話しかけてくれなくて、結局俺から話しかけて、俺は悲しかったよ」
「わかんないよ。そっとしといたほうがいいかなって思うじゃん」
「いいや、俺は」
 僕はすこし言葉を切った。湊が不思議そうに、俺は、と訊く。
 僕は目を開けた。
「俺は、追いかけてほしくて敢えて避けてるんだからさ」
 湊が笑う。きりもなく、溢れるように、いかにも楽しげに。
 湊、笑いすぎ、と言いながら、僕も笑ってしまう。
 ふたりで散々笑いあうと、普通の教室よりも高い天井に、音が反響した。
 僕は猫のように伸びをした。床にカーテンの影がゆらゆら、水のように揺れている。
「音楽室って居心地いいなあ」
「ね。案外」
「湊」
 湊が僕の方を向いた。今日初めて、いや、かなり久しぶりに湊の顔を見たような気がする。僕は見惚れてしまう。それで、次の言葉まで間が開いたのをからかうように、
「なあに」
と湊が笑いまじりに訊いた。
「『月の光』を弾いて」
 いいよ、と湊は立ち上がって、軽い足取りで、丸椅子にかけた。
 僕は床に座ったまま、湊の清冽な鼻梁の横顔を見上げた。微笑んでいたその顔から、徐々に、表情が抜ける。
いつになく神妙な面持ちだ。ひと呼吸おいて、湊が鍵盤を抑える。
それは、ベートーヴェンの『月光』だった。
 ハイセンスなギャグだ。僕は噴き出してしまった。
「それじゃなくて」
 湊も白い歯をのぞかせて笑った。
 笑い声の波が引く。
 ふわり、と湊の手が浮く。
 月の光。
 湊が生みだす音楽に、僕は心地よく身をゆだねた。
 僕は、この日のことをあまり覚えていない。会話の内容を、湊の声と共に微かに覚えている程度だ。
忘れてしまった。滑り落ちるように。幸せな夢ほど、早く忘れてしまうように。
 湊が最後の鍵盤を抑えて、月は沈んだ。
 僕たちの上に、ふたたび朝が広がる。
 僕が、ありがとう、よかった、と言うと、湊はうれしそうに笑った。
 床に直接足を投げ出した僕の隣に戻ってくる。
 湊が腰を下ろすのを目で追って、
「で」
僕は湊の横顔をのぞき込んだ。
「誰にされたの」
 湊の唇は笑みをかたちづくったままだった。
「言えないよ」
 横切るように、カーテンが揺れて、ひかりと影が同時に湊の横顔に宿った瞬間だけを、なぜだかよく覚えている。


僕は最近、自分が死にほど近い場所に立っているのを感じる。
雪が降るたびに、普段どれだけ町に色が溢れているかを僕は知る。無抵抗に塗り替えられた白の世界はがらんとして、その寂漠に死が息づくのを僕はたしかに感じるのだった。
最近、部屋の中に大きな蠅が一匹飛んでいる。ときどき耳元を掠める耳障りな羽音すら、今の僕に生を感じさせるという意味で貴重だった。
ぼうっ、とする。
部屋着のポケットの中に握ったカッターナイフの刃を出したりしまったりして、ときどき、蠅の羽音に我に返って、陽が沈んで、降り続く雪の白が宵闇に敗れて染まる頃、ようやく出かけることができる。そんな日がここ二か月ほど続いている。学校にもしばらく行っていない。夙夜、ただ生きたようなふりで凌ぐ。
 ふと、部屋着のスウェットの裾を捲ってみた。最近あまり食も進まないせいで、病的に肋骨の浮き出てきた腹があらわになる。
 膚のやわらかな部分。
 赤黒い痣は、やはりそこにあった。
 一昨日ホテルに入った男に蹴られた痣だった。その男は性的欲求と言うより自分に逆らえない存在に対する支配欲を満たすために僕を買って、僕は最中、ころさないで、とずっと叫び続けた。身体中がちぎれたみたいに痛くて、意識ももうろうとして、まともに脚に力が入らなくて、涙と鼻水と脂汗でべたべたの顔のまま、ごみを捨てるようにタクシーに乗せて帰された。
 僕は痣をそっと撫でた。
傷を庇う手つき、ではなく。愛しい恋人にそうするように。
満ち足りた気持ちになり、思わず息を漏らしたくなる。たぶん、それは生まれてはじめて感じた、恍惚、だった。
 とつぜん、ノックもせずに母が入ってきて、僕は咄嗟に痣を隠した。母は掃除機をかける、と言ってずかずかと部屋に入ってくる。
 僕がどぎまぎしながら胸をそっと抑えていることをつゆも知らない母は、唐突に、ある一点を見つめて眉をひそめた。
「うわ、なによ、あの虫。蠅かしら」
 目をやると、蠅はドアの向かい側の、白い壁にとまっていた。
 母がスリッパの足音を立てて階段を降りる。蠅はその間、微動だにしなかった。
 蠅は、待っているように見えた。
戻ってきた母の手には、ハエたたきが握られていた。
そのでっぷり肥えた蠅を、母はあざやかに潰した。
母は蠅を仕留めたことを確認すると、また眉をひそめてティッシュを探し、一枚引き抜いた。
「見せてよ」
 母が汚らしいものを見る顔のまま、こちらを振り向く。
「見せるって、蠅を」
 僕は頷く。
 母はおかしそうに笑うと、気持ちの悪い子、と言いながらも、その潰えた蠅の付着したハエたたきをよこした。
 僕は最近、自分が死にほど近い場所に立っているのを感じる。
 変わり果てた姿で死んだ、蠅だったものから、なぜだか目が離せなかった。


 煙草の匂いの部屋に入るなり、唇を押し付けられた。僕は良子さんのおとがいから耳の辺りを覆うように手を添え、唇を受け止める。顔の角度を変えて舌を絡ませるたびに、小さな水音が耳の中に響く。けれど、今までなら腰に甘く響いていたはずの煽情的に濡れた音にも、僕はなにも感じることができない。起き上がるといまだに痛む、痣のある腹の、じんじんとした熱だけが現実のように思える。
 ベッドに押し倒され、セーターの裾から手が滑り込んでくる。良子さんの手はあたたかくて、とつぜん腹に手を置かれてもさほど体温の差を感じなかった。
 その手が、ぴた、と止まった。
 僕は何の抵抗もしなかった。
「どうしたの、これ」
 困惑しきった声だ。恐ろしいものを凝視する目が、僕の腹から顔へ、じわじわと移る。
 僕はなにも言わなかった。それでいいと思った。僕がなにも言わなければ、良子さんはきっと僕のいいようにしてくれると思った。
 無音。
 その無音すら良子さんにゆだねるように、僕はただ天井を見ていた。
 良子さんはなかなか行為を再開しなかった。
 代わりに、さざなみの寄せるように、穏やかにそれが行われた。
 良子さんが体勢を変え、ダブルベッドの僕の隣に寝る。香水の香りが僕をくすぐった。
かと思うと、次の瞬間、僕は体温に包まれていた。
あたたかな手が、僕の頭をやわらかく撫でる。
「痛かったでしょう。可哀想に」
 良子さんは繰り返し、僕にそう言った。僕の頭を撫でる手から、じんわりと、なにか何にも代えがたいものが伝ってくるのを感じる。
 僕は久しぶりに、心からの生を感じた。
あたたかさのことではない。
誰かになにかをしてほしいという欲求を、久しぶりに感じていた。
 僕は気が付くと、痛みもなく涙を流していた。つうとまなじりを伝って首に垂れるあつい水は、感情が呼んだものというより、目が乾いて涙腺から流れ出すのと同じ生理的なもののような気がしていた。
 僕は良子さんの匂いとあたたかみに包まれたまま、話し始めた。
 目が乾いて涙が出るように、生理的な欲求に突き動かされて語られた僕の話を、良子さんは頷きながら聞いてくれた。
「俺、母親が看護師で、土日も出勤して、父親と家で二人きりになることとか、昔からよくあったんだ」
 湊は、小さく頷いた。控えめな喉仏がいちど、上下に動いた。
 僕は、僕が普段寝ているベッドや、アダルトビデオの隠されたクローゼット、母の少女趣味がそのまま具現化されたようなパッチワークのクッションのある僕の部屋に、湊と向かい合って座していることが急に気になり始めた。そういえば、紅茶を入れて出したティーカップにもピンク色の花柄があしらわれている。裸を見られているような、据わりの落ち着かない感覚が僕を襲った。
 僕は、この話を誰にもしたことがなかった。初めて、胸の底にしまっていた事実を、告白する。だから余計に、そういう感覚に陥ったのだと思う。
 これは、僕が閉じ込めていた弱さだ。僕がただひとり、湊を選んで弱さを打ち明けたことに気が付けば。
湊も、きっと。
「俺はそのとき四歳で、昼飯を食べ終わって、父親と野球中継を見てた。俺の父親は普段はあまり喋らない人で、俺とも必要以上に口を利かなかったけれど、俺は何も考えない歳の子供だから、当然、当たり前に父親に懐いてた」
僕は、向かい合って座した湊の赤い目を逃がすまいと見つめていた。湊の目は、先ほどまでは涙の残滓をたたえて、瞳がきらきら光っていたけれど、今は赤くくすんでいる。その赤らみを見て、そういえば先ほど湊が語った、花を供えるのが耐えられないってどういう意味だろう、と疑問が芽生えた。もっと奥まで踏み込めると思っていた僕は、すこしの苛つきとわだかまりを胸にちりつかせていた。
僕は、あのときのことを詳細に思い出した。その作業は、人に言えば不思議がられるだろうが、全く苦痛ではなかった。
「とつぜん、父親がテレビを消した。そして、俺の手を取って、寝室に行こうと言い出した。その頃、父親の寝室には立ち入るなと母から言われていて、俺は父親に連れられて、緊張と興奮の入り混じった気持ちで、その部屋にはじめて足を踏み入れたんだ」
 湊が神妙な面持ちで頷く。僕は、この話を聞いた湊がどんな反応をするのか、楽しみで仕方がなかった。湊ならきっとわかってくれるはずだった。そのためなら、僕はどんな犠牲も厭わない。湊の中の、健全な僕の像をゆがめてでも。
「寝室に入ったら、母親の匂いとも他所の男の人とも違う、父親の匂いがした。俺は初めて嗅いだ匂いで、それをすごく覚えてるけど、今思えばあれはたぶん、メビウスの煙草の匂いだったのだと思う。父親は俺を先に通して、後ろ手にドアを閉めた。その瞬間、拳が飛んできて、俺は床に倒れた」
 湊はすこし眉根をゆがめた。僕は心の裡でほくそ笑んだ。
「一瞬、なにがあったのかわからなくて、うずくまったままの俺を、父親は上から踏んで、ガラスの灰皿で、何度も何度も。別の日には、たばこの火を押し当てられたり、熱したアイロンで殴ると言われて怖がっているのを、写真に撮られたりしたこともある」
 湊は頷いた。
「そういうことが、俺が小学校に上がるまで続いた。終わるたびに父親は煙草を吸いながら、『誰にも言うな』って口止めした。俺は煙草の匂いがすると『終わりなんだ』って安心して、何をされてるかも、それがどういう意味を持つかもわからなかったけど、なぜか、誰かに言ったら大変なことになって、父親と二度と会えなくなることはなんとなくわかった。時間がたって、俺がまあ、善悪がわかる歳になってからが最悪だった」
 僕はそこですこし言葉を切って、喉の奥を絞って、ごめん、と言った。湊は首を微かに横に振って、慰めるように僕を見た。
僕は自分がどう見えて、どうすればもっと惨めに見えるかを客観的に考えた。
 僕は、涙を流してみせた。湊が僕の涙を見ている。僕はうっとりとした気持ちになった。
「誰にも言えなかった。昔のことだし、証拠もない。なにより、俺自身、どこか本当のことのような気がしていないんだ。だって俺は、こうやって平然と語ることができる。思い出してゲロ吐いたり失神したりするわけじゃない。なんか、ぜんぜん深刻じゃないから」
 湊が唇を噛んだ。僕は、もう十分かな、と思った。そこで話すのをやめてもよかったが、なんとなく、唇が音をつむごうとするのに任せた。
「母親は今も何も知らないけど、僕はそれをすごく不思議に思うことがある。ああ、この人何も知らないんだ。この人の中で、僕は綺麗なんだ、綺麗なままなんだって。僕、援助交際してるんだけど」
 湊が小さく、えっ、と声を上げた。僕は構わず話し続けた。
「それも知らないんだよ。あの人。なんか、そのこと思うと、もっと汚れたくなる。取り返しのつかないところまで、ボロボロになったら、それに気づいたとき、あー、この人どんな顔すんだろって」
 湊はまだ驚いた様子で、そう、と言った。
 僕は話しすぎてしまったことが急に気恥ずかしくなった。
ありがとう、聞いてくれて、と言うと、湊は笑った。
笑って、言った。
「みんな、一緒なんだね。いろいろあって辛いのは」
 良子さんは泣いていた。泣きながら、僕を抱きしめていた。
 僕は自分の心がどこにあるのかわからないまま、何も満たされなかった。なぜだろう。僕が欲しかった同情のすべてが、今、降り注いでいるのに。
なぜだろう。なぜ、良子さんが泣いているのだろう。
湊は泣かなかった。
良子さんはしゃくりあげながら、僕に告げた。
「ごめんなさい。コウくん。ごめんなさい」
 僕は、どうして良子さんが謝るの、と言っていた。自分の声じゃないみたいだった。
「私もあなたのお父さんと同じなの。許して、許してコウくん。私、さみしかっただけなのよ」
 良子さんが僕の首元に顔をうずめて、熱い吐息がこもる。
 僕は、わけもわからず、許すよ、と言った。良子さんに抱かれたまま、僕が良子さんを慰める番だ、ということだけを理解した。
 良子さんが泣き止むまで、時間がかかった。
 ほの暗い部屋に、白い天井。
 僕はずっと、僕が誰なのか、今まで何をして生きてきたのか、わからなかった。
 落ち着きを取り戻した良子さんは、僕に笑いかけた。僕も笑みをつくりながら、どうしたの、と訊いた。
「二月に三連休があるでしょう。旅行にでも行きましょう」
 僕は、うん、といらえた。良子さんは悲しい目をした。
「それで、会うのは最後にしましょう」


 呼び出されてしぶしぶ出席した面談は、思いのほか長引いた。担任は、二年次いっぱいは休んでもいいと言ってくれた。
 一月の中頃にまた大雪が降って、今も溶けきれない雪が、泥と混ざり合って校庭の端に残っている。空が曇っているから、きっと明日も残っているだろう。澄んだ寒さだ。僕はマフラーに顔をうずめた。
 校庭を抜けると、坂からはまっすぐ道が続く。
 坂道の脇、枯れた銀杏の植栽が、学校を抜けてからもしばらく伸びているのが、高みにある僕の位置からはよく見える。
 点在する、下校中の生徒の後ろ姿。
ずっと先、遠くに見知った人影があった。
 僕は泣きだしそうだった。
「みなと」
 僕は呟いた。声は白い息とともに、空気にそっと消えた。
 駆け出していた。走って、生徒を追い抜いて、誰かの肩に鞄をぶつけて、なにか小声でささやかれながら、それでも止まらず、僕は走った。
 顔につめたい風を受けて、体温がみるみる下がっていく。びゅん、と耳元で音がする。
湊。みなと。湊に跪いて、許しを請うて、元に戻りたい。
その一心で走った。
 走りながら、僕の頭の中に、いろいろな絵が浮かんだ。湊とはじめて喋ったプールサイド。音楽室。通学路。金色のひかりに溢れた各停の電車。僕の部屋で夏の夜に攫われたこと。
取り戻したかった。すべてを。僕のおこないで失ったすべてを。
 良子さんの涙。
 僕は足を止めた。
 弾む呼吸の音が、突然、耳につく。膝に手を置いて、前かがみになると、心臓が痛いほど脈を打って、喉からまろび出てきそうだった。
 湊の後ろ姿が遠ざかっていく。
 同時に、僕にはまた、絵が見えていた。
 ひかりの中で、湊が笑ってる。そこに僕はいなかった。僕は手放しで、湊に駆け寄る。
 湊が振り返る。
言えないよ。
 僕は突然、どうして走っていたのかわからなくなった。
湊の隣に立って、僕は何ができるだろう。
みんな、一緒なんだね。いろいろあって辛いのは。
 湊が、僕に何をしてくれるのだろう。
 わあ、という声が聞こえて、僕は我に返った。空を仰ぐと、綿のような雪がちらついていた。
 道を歩く生徒が次々に、傘を差し始める。
 僕は傘を持っていなかった。
雪の散る景色に頭を突っ込むように、僕は走り出した。
 走って、息を切らしながら、湊の脇をすり抜けて、まだまだ走った。
 体があつくなって、マフラーをまいた首の中に汗が滲んだ。
 背中に、視線をいくつも受けた。
けれど、誰も追いかけてはこなかった。


 大浴場から戻ってくると、良子さんは柿ピーをつまみながらテレビを見ていた。和室の砂壁はあっさりした緑色で、はじめて目にする浴衣姿の良子さんは、なぜだか家庭的にその部屋と調和していた。
「なに見てるんですか」
 僕は洗い立ての髪をタオルで乱暴に拭きながら訊くともなく訊いた。
「これ結構面白いのよ」
 良子さんは座椅子に掛け、熱心に画面に向かっている。僕は向き合うように腰を下ろすと、良子さんの濡れた長い髪や、口紅を落としたぽってりと丸い唇、柿ピーをつまむ細い指先を見つめた。
明日からは面影なのに、なんだか実感がわかない。別れが受け入れられないという意味ではない。
僕にはなぜだか、目の前に誰がいるのかわからない。それだけではない、僕が手を動かし、僕が喋っているのに、すべてを傍観しているような、ままならない人形の傀儡師になったような、不思議な感覚に襲われていた。
「良子さん」
 良子さんは、テレビを見たまま、ん、と返事をした。
 僕はその様子に、言いかけたことを飲み込んで、なんでもないです、と言ってしまった。
 良子さんは黙ったまま、何かを悟ったように、僕の髪を搔きまわす手つきで撫でてくれた。
 しばらく眺めていたバラエティ番組は、結論を出し惜しんだままニュースを挟んだ。
 賑やかでポップな色彩が画面から絶えたのを契機に、僕は意識までもが実体から離れていくような感覚を覚える。
 努力して意識をぎりぎりのところに舫う。
画面には、通り魔に女性が刺殺された事件が報じられていた。犯人が逮捕されたらしい。人を殺して刑務所に入りたかった、という供述が読み上げられる。
良子さんが柿ピーを広げた皿に伸ばした手を止めた。
「最低。刺された方はたまったもんじゃないわね」
 僕はぼうっ、と画面を見ながら、何も言えなかった。
この頃、この手の話題になると、僕は閉口してしまう。人を殺さざるを得なかった人生、というものの存在が、僕にはわかるような気がするのだ。共感してしまう。少なくとも、誰かと笑いあえる人生よりは、僕に近しいような気がして。
 長く鏡を見てしまった時にそうするように、静かに目を背け、僕は部屋の隅のコンセントに繋いでいた携帯電話の電源を入れてみた。
 通知が赤く灯っている。
 留守番電話の通知だ。
 その赤が目に飛び込んできた途端、僕のなかにひとつの予感が芽吹く。
 僕は良子さんに断って外に出ると、指を弾ませるように急いで動かした。
すぐに音声を再生させる。
 はやる鼓動を抑えきれない。僕は携帯電話を耳に押し当てながら、本当に久しぶりに、心から笑っていた。
 ざ、と音が始まる。
声が言葉をかたちづくる。
その瞬間、胸になにかが溢れた気がした。
透明な声。何度も耳にした、甘くてまるい声。
 やはり、湊だった。
 湊は、公衆電話からかけてるから、聞いてもらえてるか不安だけど、と言った。僕は湊の電話番号を着信拒否していた。
「結生」
 僕はしゃがみこんで、頬を伝うものを膝で受け止めるように丸くなった。今すぐ再生を止めて、湊に電話をかけようかと思った。
 けれど、僕はそうしなかった。できなかった。
湊の声が変わったのだ。
声のまるさがどこかに葬られて、それは、どこか一方的な響きを持っていた。
僕は、まるで背骨の髄を冷やされたみたいだった。
「最後まで、本当のことが言えなくて、ごめんなさい。僕は、結生がそばにいて、いつも楽しそうに僕の話を聞いてくれて、それだけですごくうれしかったよ。僕のことは気にしなくていいから、学校に来てね」
 言葉が途切れて、ざ、というノイズが間を埋める。
 僕は、全身に鳥肌を立てていた。
 湊。みなと。
「さようなら」
 このメッセージを消去する場合は、と無機質な音声が被さって、その声は遠ざかった。
 手から力が抜けていく。喉の奥に痛みを伴って音のかたまりが生まれては、押し殺されて無音に帰す。酸欠で頭が重くなる。つぎつぎに溢れてくる涙を拭うことも諦めて、僕はどこか没頭するように泣いていた。口元に袖を押し当てると、号哭のかわりにかすれた息が漏れ出て、あつかった。
 しばらくそうしていたように思う。
 立ち上がると、しばらくの間屈んでいた足が、ぴりぴり痺れていた。
僕は、なにかが切れたようにすぐに泣き止むことができた。
醒めた頭で、メッセージを消去する。
 僕は良子さんの待つ部屋に戻ると、その場に突っ立ったまま、言った。
「ドライブしましょうよ」
 良子さんはテレビを見たまま、お酒飲んじゃったもん、と言う。
「大きな公園があったでしょう。そこまで」
 良子さんがじっと僕の顔を見る。
「最後なんでしょう。お願い聞いて」


 旅館の駐車場から車を出すと、良子さんはここに着くまでに来た道を引き返して、僕の言う、公園を目指してくれた。
 山のふもとにあたたかい海が近いからか、東京と違って雪が降っていなかった。土産物屋や料亭がぽつり、と点在するが、基本的に山の中の道だ。急な勾配の暗闇を、切り分けるようにライトで照らして、車は進んだ。助手席の僕が窓を開けると、木と木が戯れあう音や土の匂いがして、民家の垣根の椿の赤が、暗がりの肉眼にも見えた。
 公園の駐車場に着くと、不気味がる良子さんを置いて、僕だけ車から降りた。案内板があったので近づいてみると、昼間はロープウェイや森の中のアスレチックが楽しめるらしい。鳥の鳴き声や、ざあっ、と威勢よく風が通る音がして気持ちがよかった。寒空の下、洗い清められたような夜気が、透き通っていておいしい気がする。
 僕は伸びをすると、すがすがしい気持ちのまま、車の運転席側に回り込んだ。
 良子さんが、ドアの外に僕が立っているのに気づいて、不思議そうな顔を浮かべる。
 窓ガラスの夜に、すべての感情を失ったような僕の顔が映っている。
 僕はひとつ呼吸をする。
ぐっ、と力を込めて、ドアを開けた。
 最初に感じたのは、ずず、と肉の中を刃が進む感覚。ぷつぷつ、刃が肉の繊維を割いていくのが伝わる。引き抜くと、血が流れて、それは闇の中に、ただの黒のように見えた。
なにも聞こえなかった。
もういちど、彼女の二の腕に刃を立てる。ぐっ、と押し込むと、先ほどの刺し口から熱い血が流れて、ぬめった感触がカッターナイフを握る僕の手の中に流れた。
僕は、自分でもどこか状況が呑み込めていないまま、もういちど、彼女の首をめがけて大きく振りかぶった。


一目散に駆け出した。脚が震えて、力が入らないと思いながらも、山の中の坂道をずっと走って下ると、脚が勝手に動いているような気がした。真っ暗闇は、僕を溶かした。けれども、それはあくまでも外から僕を見ていたとしたら、だった。僕は、僕の荒い息遣いが、急な運動に、凍てつくような空気に、ちくり、とする肺の痛みが、外界からの視覚や聴覚への刺激を上回って僕を内側からどんどん、叩くのを感じた。手を軽く丸めると、がさがさに乾いた血液のこびりついた手のひらに、皮膚は突っ張るようだった。
僕は泣いていなかった。感情がないみたいで、どこか痺れるような頭は、醒めていた。僕は冴えわたる意識の片隅で、『闇の絵巻』みたいだ、と思っていた。今思い返すと、このときはまだどこか、自分のしたことに対する、実感がなかったのかもしれない。
ひたすら山の麓を目指した。
山を下りきるまでに、どれくらい走っただろうか。
僕は小さなバス停の、青く錆びたベンチにたどり着いた。
ベンチに腰掛けると、僕はみずからの震える身体を抱きしめた。口がからからに乾いて、なんだかわけがわからなかった。
どこかで雉鳩が鳴いた。
 紫色の、明け方だった。


やってきたバスに乗り込むと、暖房の温かさに安心したのか、僕はすぐに眠ってしまった。
夢を見た。
僕は何もわからなかった。わからないなりに生きていた。人並みに喜怒哀楽があって、傷つきながら、必死で生きた。苦しかった。いつしか、歯を磨いたり、食事をして、風呂に入ったり、そういうことがただ苦痛なだけの毎日が続いていた。
気づけば、僕は終幕に縋りついていた。
終わらせたかった。すべて終われば、すべてが閉じれば、僕はきっと楽になれると思った。よく頑張ったと言ってほしかった。ただ、僕を諦めて、終止符を打つことを許して、閉じた世界でひたすらに、僕を慈しんでほしかった。
 目が覚めた。
 今があった。


 東京の駅は連休の昼間らしく混雑していた。構内の大きな窓からさしこむ日光にすら監視されている気がして、僕は柱の陰に隠れた。大勢の人が目の前を行き交う。僕は誰にも見つからないように俯きながら、鞄を開いて携帯電話を取り出した。
 着信拒否設定を解除する。
発信ボタンを押した。
携帯電話を、そっと耳に近づける。
 長い沈黙の末、コールが鳴り出す。
その間も、人が次から次へと流れていく。そこに知っている人はいなくて、誰も僕を知らないことが、今は泣きたいほどありがたくて、僕はぐっ、と奥歯を噛みしめた。
電子音の連続が幾度も巡る。水に潜っているような息苦しさを感じながら、僕はその音が途切れるのも怖かったし、永遠に鳴り続けるような気がして、それも怖かった。手のひらにかいた汗を何度もジーンズで拭って、頭の髄に鉄の塊が埋め込まれたような寒さと重さを実感し始めていた。
遠くで、ドアが閉まります、とアナウンスが聞こえた。
とつぜん、コールが切れる。
はっとした。
静かな水面を見張るかのように、僕は息を殺した。
 音と言うには些細なものが、伝わってきた。
ひとの気配だった。
電波越しに、揺れている。
僕はたまらなくなって、思わず声を漏らした。
「みなと」
 僕の声を受けて、気配が像を結んだ。
 僕の耳を、音ではない、声が撫でる。
ずっと聞きたかった、透徹とした響き。
「結生」
 声は、からからの心に深く沁みた。
 僕は舌がもつれそうになるのも押し切って、早口で告げる。
「俺、みなとに会いたい」
 電話の向こうで、湊が押し黙るのがわかる。
 ノイズに、駅の雑踏に、かき消されそうな、淀んだ沈黙が挟まる。
 息を吸う音も聞かさずに、湊は言い切った。
「ごめん。今は会いたくない。僕はもう、結生のことはいちど忘れたんだ」
僕は、形式的に黙った。
 けれど、つぎに言うべきことはすでに決定していた。
 僕は間を開けて、次の言葉がなるべく決定的に響くような、声色を探った。
 人波を傍観する。
 視界を様々な色が横切って、忙しない。
 目の前を横切った女性が、青い服を着ていた。
 その青が、やけに目に付いた。
 今だ、と思った。
「俺、人を殺したんだ」
 電話の向こうとこちら側とで、別々に空気が流れるのを感じる。
 湊は何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
 沈黙が訪なう。
 耳元から伝ってくるものが重苦しくて、僕は携帯電話を寄せる耳を反対側に変えた。
 やがて、湊は言った。心なしか震えた声で。
「おもしろくないよ」
 僕は黙った。
 ただ、時間が過ぎるだけの、それは、作業だった。
 視界を過ぎていく日常があまりにも凡庸なだけに、電話の向こうの沈黙は合成された副音声のような白々しさをいや増していく。
 沈黙を破った湊の声は、
「どういうこと」
深刻なものに変わる。
 僕は、待ちわびた蜘蛛の糸を掴んだ。
「湊の家に行っていい」
 男性が改札を駆け抜けて、軽快な電子音が響いた。


 仙川の駅前はのどかで、それでいて洗練された日常の気配があった。改札を抜けるとすぐ、大きな樹木が目に入る。ガラス張りの建物を構える雑貨店や、チェーンの衣料品店の集まる通りを抜けてしばらく歩くと、電話で聞いた湊のマンションがあるはずだった。僕が駅から離れるほうに歩いたのは、たんに湊の案内に従ったまでだったけれど、道を選んで進むにつれて人通りが少なくなっていき、僕は、なにかから逃げているような感覚に陥った。
 右手に小さな公園のブランコを見ながらまっすぐ進む。いつのまにか住宅が密集する地区に足を踏み入れていて、大きなアパート群がそびえたつ足元に堆く雪が溶け残っていた。
 かなり築年数の経っているであろう、みかんの木が立つ日本家屋のある角を曲がる。
そこに、白くて大きな、湊の住むマンションは建っていた。
 青い柵のベランダが等間隔に列をなす外観は、昔ペットショップで眺めた、いくつもの熱帯魚の水槽が並ぶ光景を思い出させた。
 建物を見上げていた目線を前に戻す。
エントランスの前に段差がのびている。
そこに、人が立っていた。
「結生」
 湊は、僕が近づいてくるのがわかるなり、段差を降りて駆け寄ってきた。
「ずっと待ってたの。寒くなかった」
「結生。やっぱり別の場所で話そう」
 僕の言葉を無視して、湊はなにかに追いかけられてでもいるかのように、食い気味に言った。どこか、挙措を失ったようでもある。
 つめたい風が吹いて、赤くなった耳を掠める。
僕は急に白けた気持ちになった。
 湊はやっぱり急いだ様子で、二の句を継いだ。僕の肩を掴む手に、はっきりとした力を感じる。
「ホームセンターがあるから、フードコートにでも行こう」
「いい」
 僕は突っぱねるように言った。湊の手を振り払う。言葉が、なるべく素気無く聞こえるように、数段、語気を強めていた。
 僕は視線のあずけ先を迷った挙句、俯いた。
湊の後ろ、ゴミ捨て場の片隅に、泥交じりの雪が死を待っている。
 僕は、茶色く濁ったそのかたまりを、憎いほど汚いと思った。
 僕は言葉を失っている湊に目線を向けると、今度はできるだけ消沈した声を出した。
「そんなところで話して、誰かに聞かれて通報されるくらいなら、自首するよ」
 湊が目を丸くする。
 僕は薄ら笑いを浮かべる。こうも言ってみせた。
「少年刑務所って何年くらい入るんだろうな」
 僕は自然と、意固地になって溶け残っているかのような、その雪に目を戻していた。
 湊は、何も言わなかった。
 僕は、湊の目を見た。
 わずかに開いた唇から吐息をこぼして、肩を震わせる湊が、何を思っているかはわからなかった。けれど、僕はその様子を見て、確信した。
湊が僕を忘れたなんて、嘘だ、と。
 だから、僕は容易く、そうした。
「さようなら」
 笑った顔のまま、背中を向けて、僕は歩き出した。
 道は丁寧に雪が除けられていて、日なたに足を踏み入れると、日陰よりわずかにあたたかかった。
 冬の長いひかりに照らされて、まぶしかった。
 何歩目かを踏み出したとき、後ろで音がした。
 駆けだす足音。
その持ち主が、僕の背中に飛び込んできた。そのたしかな重みは、どうしようもなく僕の心を満たすのだった。
 水のように。
 僕を後ろから抱きしめたまま、湊は言った。
「行かないで、ゆうき」
 貼り付けたままでいた薄い笑顔に、心の底から湧き出た感情が伴う。
「わかったから。なんでも言うこと聞くから」
 肩にあたたかな感触。湊がそこに顔をうずめたのがわかる。
小さくくぐもった声で、湊は言った。
「もう僕を離さないで」


 この世に無数にあるエレベーターに、ひとつとして同じ匂いのするものはない。僕は、はじめて嗅ぐ匂いと、ふたりきりの沈黙とを同時に味わうこととなった。湊が黙っている理由と僕が黙っている理由の違いを感じたし、湊が肌に受けている空気と僕が感じている空気は別物なように思えたけれど、僕はさして気にならなかった。
 湊が僕を家に上げようと思ったこと、それがいちばん大切だった。
 エレベーターを降りると、かなり長く続く外廊下を歩く。飾り物の貼られたドアや、表札に書かれた名字をなんとなしに眺めながら、先を歩く湊の後ろを、黙ってついていく。
 たどり着いた角部屋の、灰色のドアは重たそうだった。湊は、鍵を開けて先に通ると、後ろ手にドアを押さえてくれた。
 電気の消えた家の奥は薄暗く、開いたドアから差しこむひかりが唯一、玄関とその先をわずかに照らした。
 ドアをくぐって、中に足を踏み入れる。
 その瞬間、僕は思わず眉を顰めた。
 家の中におかしい箇所はなかった。というより、すべてのドアは閉め切られて、僕の立っている玄関からは、よく磨かれてひかりを反射するぴかぴかの廊下が見えるだけだった。
 背後でドアが閉まった。廊下はどこかうらぶれた薄暗がりに沈む。けれど、そんなことはまったく、気にしていられなかった。
 おかしい。
 匂いがする。甘い匂い。その匂いが、鼻から入って喉にわだかまるのだ。春を思わせる、やわらかいのに粘度の高い、まとわりつくようにべとべとした匂いが、廊下中に充満していた。思わず鼻をつまみたくなる。嗅覚の底に灼けつくようで、痺れるほど強烈だった。
 薫物か、香水の匂いだろうと思う。けれど、あきらかに度が過ぎている。
僕は、思わず湊の方を見た。
 湊も、僕を見ていた。
 悲しげにまなじりを下げたその目に、僕は何も言えなくなり、先に家に上がった湊にただ追従して靴を脱いだ。
湊の部屋は、廊下の途中、ふたつめのドアを開けたところだった。
中に入ると、不思議なことに甘い匂いはやわらいで、ほぼ気にならなくなった。
代わりに、暖房を入れていない部屋の、つめたくて固い空気がぎこちなく僕を迎えた。
僕は部屋の中を見回した。
やけに簡素で、統一感があって整頓されていると言うと聞こえはいいが、どこか人の住んでいる感じがしないのだった。たとえば、棚にはすべて目隠しのレースがかけられているし、ベッドの掛け布団とシーツは真っ白で、皴ひとつない。
僕は、湊の部屋に入ればもっと湊の内側を知れるような気がしていたので、いささか残念だった。
「なんか、白いね。湊の部屋」
「そう」
 笑い交じりに相槌を打ったのだろうと思って湊の顔を見たけれど、そこにあったのは心やすい笑顔などではなく、心を失ったような無表情だったので、僕はまた、何も言えなくなってしまった。
座って、なんもないけど、と言われ、おそるおそる床に座した。目線が低くなる。
と、僕の目に、あるものが飛び込んできた。
僕は、ただ乾いた空洞に言葉を詰め込みたくて、わざと声に出した。
「ピアノ」
 立ち上がったまま上着をハンガーにかけていた湊は、僕の顔に一瞥をくれたあと、すぐにそちらの方へ目を移した。
 漆黒のアップライトピアノは、広いとは言えない部屋に、どこか悠然とした構えで、そこに置かれていた。僕のいとこの家のピアノは、屋根にトロフィーやら写真立てやらが置かれて雑然としていたが、湊のピアノは埃ひとつ被っていなかった。白いカーテンを閉め切った部屋に、蛍光灯がその光沢を強調させる。年季が入っているのかいないのか、見かけだけではよくわからないのは、大切に使われ、愛されてきた持ち物に特有だった。
 僕は、僕と湊のために、言っていた。
「いちばん好きな曲を弾いてよ」
 湊の動きが止まる。
は、と声をこぼして、怪訝そうな目が、僕のそれと合った。
 僕はもう、心が荒い波を立てて、中身が溢れるようで、加速するのを止められなかった。
「湊の本当を教えて」
 湊は僕の顔を穴が開くほど見つめた。僕はこの目を知っている。僕が普通から、健全から、逸れて離れた言動をうっかりとってしまった時、クラスメイトが、大人たちが、よくこの目で僕を見た。
 湊の眉間に、どんどん皴が寄っていく。
 僕は、ぐちゃぐちゃと整理のつかない気持ちのまま、いちど、唾を呑んだ。
 と、湊がため息をついた。
 そして、発した言葉は、今まで聞いた湊のどんな言葉より、感情をあらわに、刺々しく毛羽立っていた。
「どういうつもり。結生の話を聞いて、助けたいと思って家にあげたのに。ピアノを弾けとか。なんで僕の話をしなきゃいけないの」
 体の内側から、じわじわ、なにかが湧き上がってくる感じがした。涙を流した瞬間に、この感情は悲しみ、という言葉に希釈されてしまうから、泣きたくなかった。それなのに、僕の目はどんどん潤んで、発した言葉は、涙の色に滲んでいた。
「そんなに」
 視界の全部がぼやけて、湊がどんな顔をしたか、わからない。
「そんなに俺に本当を知られるのが嫌なの」
 湊は黙った。
 ふたりきりの部屋に、僕がしきりに、しゃっくりみたいに鼻を啜る音のみが響く。
 沈黙し続ける湊に、僕はだんだん、すべてをぶつけてしまいたい衝動がこみあげてきて、抑えられない。僕が怒鳴った大きな声は、湊が黙ったまま立ち尽くすどこか切なげな風景にひびを入れた。
「じゃあなんで、あのとき片親だなんて、いきなり打ち明けたんだよ。俺はうれしかったよ。湊が俺と仲良くなろうとしてくれてるって、思ったよ」
 言葉尻はすぼんだ。弱弱しく、情けない声。
僕は壁にぶつかったのを感じた。否、ずっと前からその壁は存在していたのだ。高い、高い、壁。でも僕は馬鹿みたいに熱を燻ぶらせているから、湊と離れた時間が続くと、記憶が書き換えられてしまって、その壁を越えられそうな、錯覚に落ちてしまうのだった。
 目は覚めていた。
僕はたらたら流れてくる涙を拭うこともせずに、うなだれたまま、力を失くして言った。「花を供えるってなんだよ。霊壇でもあるの。意味が分からないよ」
 けれど、暗れ惑うままに腑抜けの言葉を取り出しては並べ立てると、僕はまた、感情を取り戻していった。剝き出しの感情。打って変わって、僕は急き立てられるような早口で言った。
「そんなわけわかんない嘘つかなきゃいけないほど、俺に信用が置けないのかよ。俺も湊も一緒だろ。俺はちゃんとわかってるよ」
 唇から一気に力が失われて、ふ、と空気が抜けた。僕は自分のみすぼらしく荒い呼吸を、もはや抑えることもできずに、思いきり肩で息をした。
 湊は佇んだまま、どこでもないところを見ていた。じっ、と見ていると、ゆっくりと規則的な瞬きが、ひかりを失った瞳にやってくるのだった。それを見ていると、しだいに僕の呼吸は落ち着いてきた。それはたぶん、湊の立ち姿や面差しが、湊の中にだけ流れる時間を僕に感じさせたからだった。
 僕は湊が何かを言い出すのを待っていた。白くて清潔な部屋はやっぱり生活の匂いを感じさせなくて、やがて、僕はおだやかに、鷹揚と生きた心地から離れていった。
 意識がこの部屋から遠ざかっていく。湊のことや、僕の発した言葉のことなど考えていなかった。けれど、別のことを考えているわけでもなかった。どこか状況を俯瞰するように、僕はぼうっとし始めた。
 しばらく、時間が流れた。
 湊が小さく、息を吸った。
「一緒って」
 はっとして顔を上げる。
湊は、僕に問いかけていた。
 僕の意識が、急速に湊とのやり取りに引っ張り戻された。
 僕はすこし考えた。
 ある言葉が、頭に浮かんだ。けれど、そのとき思いついた、というわけではなかったと思う。
 その言葉は、音楽のように、湊と出会った時から、夙に流れていたような、そんな気がする。
 僕は、思い切って、その言葉を、湊に告げた。
「俺も湊も、水みたいだよ」
 湊が虚を衝かれたように、水、と訊き返す。
 僕は頷いて、先ほどとは人が変わったように、落ち着いて喋った。
「自分がないんだ。俺たちは」
 湊は僕の顔から目を逸らすと、僕の言葉の意味を確かめるように、目を落とした。
 僕も軽く握って膝に置いたたままの自分の手を見つめた。
 僕は今でも、湊のことを水みたいだと思っている。偽物の言葉で気を惹いて、その言葉すらまるで本心みたいに思ってしまう、危ういひと。
 だからこそ、僕の心を満たしていた。
 それなのに、
「どうかな」
しばらく経って、湊は莞爾として、言った。
どうして笑っているのか、僕にはわからない。
湊の顔を見つめていると、さらに言葉は続いた。
「僕、ピアニストになるんだ」
 僕は、え、と訊き返していた。あまりにも突飛な論理の飛躍だった。
 湊はそれには構わず、晴れやかな面持ちで、すらすらと話した。
「お母さんに内緒で、音大に受かったら、家を出て、ひとりで生きていく。大変なこともあるかもしれないけど、僕は幸せになりたい」
 言葉を認識した途端、僕は心の内側がぶるぶる震えるのを、生まれて初めて感じた。声を出そうとしても、あぶくがはじけるような、あえかな音しか出てこない。
 それでも、僕がそう訊き返したのは、まだ一縷の望みを捨てきれないからだった。
「幸せって」
 言い終えた後も、唇が震えた。さっきから、頭の血管が千切れたように、痺れていた。
 湊は僕の方を見なかった。自分の足元に目をやっていた。けれど、それは俯いているのでも消沈しているのでもなく、言葉を丹念に紡ぐのに集中しようという意思が、湊にそうさせていたのが、傍目にも読み取れた。
 湊は、初恋を打ち明ける少女のように、笑み含んで、言った。
「僕のピアノを聴いて、誰かの人生が変わるの。僕のピアノでしかできないことを」
 顔を上げる。透徹とした目が、
「見せたい」
僕を見ていた。
 もはや、涙も出てこなかった。
 けれど、僕には、わかってしまった。
 湊は、湊のそれは、僕のそれとは、全く違っていた。
僕は湊を見ていられなくなって、目を逸らした。
 アップフロントピアノが、僕を笑っている。汚いのはお前だけだって。
 僕は俯いた。
 湊は、弱くなかった。僕みたいに、不幸に縋ったり、あまつさえ、破滅を望んだり、するはずがなかった。
 僕は、いまさらそのことに気が付いた。
 僕は立ち上がった。脚に力が入らないのを、無理してよろめきながら、僕は言った。
「もっと追いかけてほしい、と思ってた。でも、もうわかった。もういいよ」
 湊は何も言わなかった。
 僕は、涙が出ないのを頭のどこかで不思議に思った。
「湊は俺と違うんだね。俺のこと、知ろうとしないし俺のことを追いかけてもくれない、そういうひとなんだね。ずっと間違えていたみたいだ。見損なった」
 湊は、言った。
「結生が僕の話を聞いてくれて、僕はうれしかったよ」
「俺がそうしたように、どうして俺にしてくれないんだよ。なんでわからないの。なんで『みんな一緒なんだね』なんて言うの」
 僕は足元を見たまま、投げつけるように言った。湊の顔も見ないまま、廊下に出る。また、甘やかな匂いが鼻にこたえるほど襲い掛かる。
 僕は廊下を渡って、無言のまま靴を履いた。湊は追いかけてこなかった。
 立ち上がって、ドアノブに手をかけようとした、そのときだった。
 ドアが開いた。
 目線を落としていた僕の視界に、黒いパンプスの足元が目に入る。
 僕は思わず顔を上げた。
 ひとが立っていた。
 外廊下から逆光がさして、そのひとの顔に陰を落としている。
 目を凝らして、ようやくそれが大柄な女性であることがわかった。
 と、次の瞬間、そのひとの発した声は、僕を怯ませるには十分だった。
「あんた誰」
 僕は本能に近しい部分で察した。
 声量が不必要に大きい。抑揚が自然ではない。すべての音が、強い力で僕を引っ叩くように並べ立てられて、僕の鼓膜に直截的に響く。明らかに僕を威嚇しているのに、向こうもまた僕におびえていることがわかる、奇怪な音の羅列。
 あきらかに、異常だった。
 僕が呆然と何も言えずにいると、慌てたように躍り出す足音が聞こえて、奥の部屋から湊が出てきた。
 僕は目を見開いて振り返ってしまう。
 恐ろしくて、ふたたび前を向いて女性の顔を見ることができない。
 僕はそうするしかなく、湊の顔を見つめ続けた。
 その顔は、みるみるうちに、青ざめていく。唇を薄く開いたまま、湊は硬直していた。
 すこしの音にもかき消されてしまいそうな、かすかな声が、その開いた唇からこぼれるように言った。
「お母さん」
 ただただ、流れ出す、質量のない響き。それは湊の心中を察するのに十分だった。
 僕は、そのときたしかに、湊の絶望に触れていた。
 そして、つぎに自分のなすべきことを完璧に理解した。
 僕は唾を呑んで、湊の母親に向き直った。
 同時に、開いていたドアが音を立てて閉まった。
 逆光が遮られると、湊の母親の鮮明な相貌が目の前に現れた。
 昏い目だった。切り傷のような目蓋の隙間から覗く白目が、ぬらぬらしていた。
 その昏い目が、僕を睨める。
そのとき、湊が、非常に急いだ様子で、母親に伝えようとした。
「お母さん、この子はただのクラスメイトで。プリントを、プリントを届けに来てくれただけ。だから」
 湊の言葉の途中で軽く息を吸った。
 僕は、言った。
すべてをわかっていて。
「湊くんの背中を鞭で打ったのは、あなたですね」
 僕は隙をついて湊の母親の脇をすり抜けると、脇目もふらずに走り出した。
 階段を駆け下り、音もない道を、呼吸を弾ませて走った。雪が脇に退けられて、泥と混ざり合ってどろどろ溶ける道を、夢中で駆けた。身体中が火照っていた。喉の奥で血の味がした。
 地理もわからず、直感に従って進み、目に入った角を曲がり続けた。我を忘れていた。誰ともすれ違わなかったのが、救いのように思える。
途中で公園を見つけた。僕は、そこに入ることにした。
 マンション群に併設されたその公園は、公園と言うより小さい広場のようで、真ん中にブランコがひとつあるのみで、人は誰もいなかった。
空は暮れなずみ、紫がかった夕焼けの色に染まっていた。公園はどっぷりとその色に浸かっている。忘れられたようにそこにあるブランコの座面に積もった雪を払うと、僕は腰かけた。
 足を曲げ、窮屈な姿勢のまま、考える。
 湊が許してくれたら。これで僕は、ようやく湊を許せる。
 僕たちは永遠になれる。
 きっと。
 絶対に。
 湊は許してくれるはず。
 僕はブランコを漕いだ。
湊と僕は違うけれど。
 ブランコごと、僕の身体が前後に揺れる。
 だって、湊は僕を忘れられない。
 きい、と金具の軋む音が、思いのほか大きく響く。
 もういちど、僕に振り向いてよ。湊。
 行ったり来たりするブランコに乗りながら、僕は何度もそう繰り返し、ひとり、頷いた。
 どのくらいそうしていただろうか。
 携帯電話に、公園にいる、と送信したはずなのに、湊は来なかった。あたりはすっかり暗くなり、とげとげとした夜の冷気がすぐそこに迫っていた。ブランコの金具の感触と鉄錆の匂いが不気味に思えてくる。
 僕は立ち上がった。
 公園の出口で振り返ると、ブランコは夜の色のなかに、立ち尽くすようにそこにあった。
 来た道を引き返す。なんだか、胸がざわついた。
 そのざわつきをかき消すかのように、しだいに歩幅が大きくなった。
 とうとう、僕は走り出していた。
 湊に会いたかったからではない。
 なにか、予感がした。
 マンションの階段を音を立てて駆け上がる。
 僕はすべてわかっていたのかもしれない。
 すべてわかっていたから、インターフォンも鳴らさずに、ドアノブをひねった。
 抗うことなく、ドアは開いた。
 同時に、あの甘い匂いが一気に押し寄せた。
 中は明かりが点いていた。
僕は憑りつかれたように、靴も脱がずに中へ上がった。
 湊が居間だと言っていた、廊下の突き当りのドアが、開け放たれている。その中で、人の動く気配がする。
 僕は息を殺して、廊下を歩み寄って、居間の中を見た。
 そのとき。
 僕は呼吸を忘れた。
 部屋の真ん中に、像がある。佇立した、男の像だ。白いから、石膏像だろうか。羽の生えた天使のようなものもある。
 その奥。
 湊がいた。
 湊は、目を開けたまま、しかしどこも見てはいなかった。
 束の間、僕を夏が攫って行った。
 夜。
 熱を含んだやわらかい感触の大気が、明瞭さを欠いて淀んでいる。
 それはまさに、開かれた湊の目の色だ。
その首に巻きつくのは、白い蛇。
 陽炎が僕と湊の間に隔たりを生んで、湊の姿は漂って、揺れて。
 ふらふらと。
 足が宙に浮いている。
 はっとした。
 天井から下げられたロープ。
湊の身体が、首をひっかける格好で、吊られていた。
僕はこみあげてくる嘔吐感を必死に耐えながら、なぜだか、目の前の光景を目に焼きつけることに必死だった。
 声も出せないまま、僕の目にもうひとりの人影が映る。
湊の母親だった。
 母親は、こちらに背を向けたまま、跪いて、しきりになにかを呟いていた。
 その目の前に、なにか白いもの。
 目を見開く。
 それは、白いユリだった。
 高潔を思わせる純白の大輪が、母親の目にしか映らぬ、何者かに手向けられているのだった。
 僕は、そのときとつぜん、足元に湿った感触を受けて、ようやく気が付いた。
 それまで、僕は白い絨毯が敷かれているのだと思い込んでいた。
 違った。
 部屋中に敷き詰められたシラユリの首が、血液を吹き出すように甘い香気を放っていた。 


 峰 湊くんへ
 君が自殺してから、もうすぐ一か月がたちます。書きたいこと、伝えたいことが、いろいろある気がするけど、すべて、意味をもたないような気もする。僕から君へ言えることなど、何もないような気がします。
 僕は、君の赤血球になればよかった。そういうかたちで、生まれる前から一緒にいられたら、違った未来があったかもしれません。もし、そうなら、どれだけよかっただろうと思います。でもそれも、叶わぬことです。
 今から警察が来て、僕にいろいろなことを、訊くそうです。君はもう自殺したことに決まってしまったけど、僕はたったひとり、そう、だから。
 警察と話すのは、人生で二度目になります。君の遺体が見つかってすぐ、学校で話を聞かれました。警察の人は、既に君の家の状態を目の当たりにしていたみたいだった。僕に、湊の家に行ったことがあるかどうか、訊きました。
 ごめんね。湊。
 警察の人は、もしあの家を見ていたら、誰にも言えなかった気持ちが君にもわかるだろう、なんて言いました。
僕は、誰にも言えなかったことを君に話したとき、ああ、ずっと誰かに言いたかったのだ、と気づいたことを、そこではじめて思い出しました。
 僕はそのとき、泣いてしまいました。警察の人は僕の肩にやさしく手を置いて、人はみんないきなり死んでしまうんだ、君の友達だけじゃないし、君だけじゃない、いろいろあって、辛いのはみんな同じだから、と言ってくれました。僕はそのひとことに、そのひとことがもたらしてくれた事実に、とても安心していた。
ごめんね。湊。
 僕は、本当は、人を殺してなど、いませんでした。
 君にも前、話したよね。僕は援助交際をしていました。その相手に、けがを負わせただけなのです。僕は彼女の腕を刺した。そのあと、彼女は抵抗した。揉みあいになったけど、最終的に、彼女は僕からカッターナイフを取り上げて、捨ててくれた。
きっと相手も、未成年の僕とそういう関係にあったこと、知られるとまずいから。黙っているのだと思います。今のところ、三十代女性が少年に二の腕を刺され、軽傷、というニュースはありません。
 ごめんね。
 僕は、僕が本来ならどう生きていくべきだったのか、これから知っていくのだと思います。僕がどんなだったら、君といられたのか。
 君は水のようなひとだった。僕は今でも、そうとしか言えないよ。記憶の中の君は、水のようなままだ。君に色もかたちもなかったから、僕は君を好きになることができた。
 でも、間違いなんだね。
 君は、ずっと、真っ白で、高潔で、きれいだったんだね。
 僕たちは、ふたりとも、ひとりぼっちだった。けれど、寂しいのはきっと、僕だけだった。
水のようだったのは、この僕だけだった。
 ぼくはまた、ひとりぼっちになったよ。
 僕に残されているのは、死ぬことと、君のいた場所を目指して、生きることだ。
 だけど。
 電車に乗って、一緒に帰った日々を覚えていますか。
いつか、あの電車に、金色のひかりの中に、現れてください。
 僕はずっと、あそこで君を待って、一歩も動けずいます。 
                
 二〇二四年 三月 二日        
 廣瀬 結生


 黒板には大きく、二〇二五年、三月、卒業、と書かれている。
 卒業式の会場である体育館に移動するまで、もう間もない。写真撮ろう、私のアルバムにも寄せ書き書いて、そういったはしゃいだ声があちこちから聞こえてくる。教室の中は、いつか必ず思い出になるとわかっている瞬間に特有の霞がかった華やぎと、浮足立った楽しげな空気がひしめき合っていた。
 僕はクラスメイトの輪には加わらず、窓際の自席から肘をついて窓の外を眺めていた。
 あわい青色に晴れ渡った空を、箒ではいたような筋雲が流れていく。
 桜の季節にはわずかに届かなかったけれど、気持ちのいい陽気だった。
 担任が前方の入り口から顔を出し、胸元に花のコサージュをつけるように言った。僕は、先ほど一斉に配られて、トラウザーズのポケットに入れておいたそれを取り出した。と、反対側のポケットに財布を入れたままだったことに気が付く。そのまま式に出て列になって歩いたり、壇上で証書を受け取ったりすることになるところだった、と僕は、両のポケットになにも入っていないことを確認し、ひとり、苦笑した。
 僕はふたたび、窓の外に視線を移した。
 空は悠遠と広がっていた。
 ことん、と音がして、後ろを振り向く。
 担任がいつの間にやらそこにいて、僕の席のひとつ後ろ、一年間空いたままだったその空白に、椅子と机を運び入れていた。
「今日だけは、な」
 担任は、机の上に、遺影と花の挿してあるガラスの瓶をそっと置いた。
 担任が立ち去ってしまうと、僕は、ゆるやかな目の動きで、また窓の外を眺めた。
 雲が流れていく。ひとつ残らず、生まれた以上、消えてしまうのも仕方ない、と言うように。
 瞬いた。
 足元で、ぱりん、と音がした。
 その音は教室中に響いて、談笑に花を咲かせていた生徒が一斉にこちらを振り向いた。
 僕は、観念したように自身の足元に力なく横たわるシラユリを踏んだ。
 ぐしゃ、と濡れた感覚が上履き越しに伝わる。
 視界が滲んで、耳の裏側があつくなった。口の中に、塩辛いなにかが広がる。
 床に擦り付けるように踏みにじると、シラユリは元の姿がわからないほど、ひしゃげて潰えた。
 まなじりから伝うものに、頬がむずがゆくなる。
 僕はさらに、割れた花瓶からみるみる溢れ出すものを踏んだ。
 音がした。弾けて、飛んで、地面に着地する音。上履き越しにつめたさが侵入して、足先がかすかに痺れる。
 僕は踏み続けた。何度も何度も、足を持ち上げてはそこに落とした。
 水は、そのたびに広がり続けた。