水葬


1

先輩のまつげ、一本くれませんか。彼だけでなく僕もまたそんな頼みを口にしていることに驚いていたが、傘に雨粒が転がるように散々わらったのち、彼は僕の手のひらに一本のまつげを落として去っていった。柔い弓なりのそれは、みるみるうちに花芯となり、花弁をひらげて、真っ赤な椿となった。目が合った、と僕は思った。

2

徐に立ち上がったかと思うと、林檎を剥く、と言い出すので、構わず読みかけの本に目を戻した。活字の列は盛夏の情景を紡ぎ、窓外の雪景色やこたつ布団の溶けるような感触と心地悪く対立していた。ふいに、気配を感じて顔を上げる。と、林檎を切っていたはずの彼がナイフを片手に佇んでいた。無名指を血が滴るのが目に入る。盛夏。俺はなおも無言の彼の手を取り、舌を這わせた。熱帯夜を逃すまいと。

3

水は冷たかった。両手で受ける。彼の肌もかように冷たかったと思い返していると、蛇口から落ちる水の線はやがてひとがたを成し始めた。彼だった。相変わらず物言わぬ昏い目をしていた。「何故、貴方はこんなにも冷たかったのでしょうか」彼はいつもそうだった。その冷たい肌で、のぼせた僕を静かに遠ざけているようだった。彼が口を開く。「手を離してみて」言われた通りに両手を離した。彼は音を立てて死んだ。

4

情事ののちの気怠さの最中、なんとはなしに彼の臍を噛んでみた。彼が笑い混じりに「なおくん、痛いよー」と声を漏らす。それも無視して白く薄い膚に歯を立て続けていると、歯列の狭間から液体の滲み出る感覚があった。一瞬ぎょっとしたが、血の色ではない。舌の上に、かすかに残る塩味。ある予感が過った。僕はがばりと上体を起こすと、思い切り彼を抱きしめた。次の瞬間、僕は半身、海に浸っていた。

5

蝉が鳴いているらしい。冬ですよ、と行間を読まずにいらえを返す。「耳鳴りのことだよ」さもどうでもよさそうな声色であった。僕はしばし考える。彼の中に蝉が生まれて、卵を産んで、死んでいく。そうして彼の耳が聞こえなくなったら、通訳の為に生涯俺が彼のそばにつくのも悪くないと思った。「あ、とまった」またしても、蝉に住処を差し出しても、まあ、とでも言うようなくちぶりである。「ごめん、さっきなんか言った」「いえ、七年後にします」

6

瓶詰めのジャムの中に目玉が埋め込まれていた。苺を煮詰めた赤色のやつである。それも使いかけで、昨日までは目玉などなかったのである。無論、自分の目玉でもなければ、誰かがやったにちがいなかったが、昨日から他所のものなどあげてはいなかった。しかし、この眼球の甘露雨のような虹彩には見覚えがあった。俺は隣の間のドアを開け、案の定そのベッドにぼうっと腰掛ける同居人の鼻先に瓶を突きつけて、言った。
「苺ジャムではなく、牛乳だ。それも、歯が抜けた時だ。馬鹿野郎」

7

彼がソーダ味の唾液を鳴らしながら喋った。「幻肢痛ってさ」バニラの僕は仕方なく彼を振り返る。「腕とかなくさないとわかんねえのちょっとずりぃ」彼が突拍子もなく妙でいてたちの悪いことを語り草にするのはお決まりなので、危ないから降りてこいよ、とだけジャングルジムの頂上に向かって忠告してやった。無視かよー、と五体満足の彼が降りてくると、ところどころペンキの禿げた鉄格子が音を立てる。遠くで薄い雲がスカイブルーに流れている。しばし和やかな静けさが訪れ、しかし次の瞬間にはいいもん見せてやるよ、と言って彼が靴を脱ぎ始めた。もういいから帰るぞ、と言いかけた僕は、靴を脱いだ彼の左足を見やってひゅっと息を呑んだ。「“弟指”って呼んでんだぜ」彼は六本目の足指をひらひら動かしながら、「殺してみる?」僕に問うた。

8

鈍行の窓に、揺れる陽は溢れた。彼は僕の肩に頭を預けながら、微睡の彼岸に船を泊めている。僕が瞬きをするたびにちかちかとした眩しさが弾け、うざったくて眠れそうになかった。彼が僕の隣で少し身じろぐ。と、僕は彼に貸した方の肩が少し濡れているのに気がついた。彼のこめかみの辺りからのびた沈丁花の花が、彼の頭の重みに、潰えているのだった。僕は、何故か自分の肩も彼のこめかみも直視してはいけないような気がして、彼の震えるまつげを見張っていた。とろとろと熱い花の香りが流れていく。鈍行が駅に着いた。彼が目を開いた。