街角シャングリラ(前)
※とあるシノビガミセッションのハピエンif


 ハタハタハタ、と廊下を駆ける。この間の戦闘で大怪我をした香苗は、千春からの一報を受け、大慌てで研究室へ向かっていた。医務室のスリッパを履いたまま、荒く結われた長い三つ編みを大きく揺らし、戦闘時のような音速で。
 ドアロックのパスワードを口内でサッとそらんじながら、慣れた手つきで指を動かす。はやる気持ちを抑えきれず、ウィーンともったり開いていく自動の引き戸をこじ開けるように指をかけた。
 魔女とまで言われている、あの研究員が失敗するはずもないが――あれは、私の大切な。
「間宮研究員!」
「あら、如月さん。早かったですねえ」
 香苗の、研ぎに研いだナイフのような鋭い声を、千春はやんわりと包むような色で返した。それが少し気に障ったのか、ム、と香苗が眉を寄せる。足音荒く千春の研究デスクへ近寄ると、「それで、」と結果の開示を催促するように切り出した。
「実験の結果は?」
 千春は鈍く輝くサファイアの瞳を円やかに細めると、先ほどの自動ドアに似たもったりとした笑みを浮かべる。何回見ても、この笑顔には慣れない、と香苗はうっすら思う。
「私から見たら、大成功ですよ」
「おい、」
「心配しないでください、真庭さんも成功しましたから」
「……」
「どうぞ、如月さん。こちらです」
 ゆらりと核心から逃れるような言葉選びや、含むような言い回し。食えない笑みに、見えてこない信念。ただ、仕事は確実に行う。
(……信用できるんだか、できないんだか……)
 しかし、今回の件をすべて知っていて、悲しく絡んだ因果をほどくための手立てを行えるのは千春くらいなのだ。香苗は息を吐く。まあ、彼女の開発が間に合わなければ、手立てがあっても意味が無かったが。
 千春が奥まった一角のドアの前で、パスコードを打ち込む。シュウ、とドアが開いた瞬間、薬品の独特な匂いが鼻をついた。毒の研究もしていたせいだろう、どことなく研究室内の空気がけぶって見える。
「とりあえず、先に真庭さんを出しましょう。もみじくんを先に出したら、たぶん如月さん、殺されちゃいますから」
 言われて香苗は、この大怪我の原因となった少年を思い出した。ひどく昏い瞳をした、幸薄そうな彼を。
「……私は別に、殺されても構わないが」
 きょと、とまんまるなサファイアが香苗を見た。香苗はチラと千春を一瞥してから、ゆるりと円柱型のガラスケースに近づく。ホルマリン溶液に浮かぶ素体には、香苗の大切な人の脳が入っている。崩壊ギリギリの、壊れかけた吊り橋のような状態のそれが。
「殊勝なこと言いますね、如月さん」
 千春が、あの食えない笑みをたたえながら香苗の横顔を観察する。その視線に気付いているのか、いないのか。ガラスケースに歩み寄った香苗は、そっとガラスに触れた。表面からじんわりと、人肌のような暖かさが伝わる。
「あの少年には、私を殺す権利がある」
 香苗にはわかる。大切な人を喪うと――彼女の場合は、“喪いかけると”と言った方が正しいだろうが――、どうしようもない激情に駆られ、普段の自分ならおよそしないであろう行動をしてしまう。香苗自身が大切な人を喪いかけ、喪失の恐怖から機忍狩りを行ったように。
 千春は視線を前に戻すと瞑目し、深呼吸をした。そしてハタリと目を開け、基盤をいじる。
「……じゃあ、真庭さん出しますね。これから一生、彼はお注射とお友達ですから。彼にも説明を聞いてもらわないと」
 プシュ、と空気の抜ける音。次いで、溶液がゴポゴポと抜けていく音。顔全体が溶液から出た瞬間、サカシラの細い目がわずかに動いた。まぶたの動きから、辺りの状況を確認しているのだろう。ぐりぐりと素早く動き――千春を認めた瞬間、眼前のガラスを一度、激しく殴打した。
「うわ、荒いお目覚めですね。強化ガラスですから、忍術じゃあ破れませんよ」
「――」
「……私は、貴方の恩人と言っても、差し支えないくらいの存在なんですけどね」
 眉をハの字に下げて苦笑する千春の横で、香苗がやれやれと首を横に振った。
「やめろ、サカシラ」
「……」
「間宮研究員が、お前の脳の損傷を止める投薬を開発した」
「!」
「ひとまず今は停戦中だ。……攻撃するなよ」
 言って、香苗が千春へ視線を投げる。千春がコードを打ち込み、ガラスケースを開いた。パカ、とどこか間抜けた音を立てて開いたガラスケースから、ホルマリン溶液で濡れたサカシラが足を踏み出す。
「……。……タオルをいただけませんか」
 踏み出し、両足を床に着いたはいいが、自身が溶液にまみれていることを思ったのだろう。サカシラはその場で直立不動の銅像と化した。そして現在進行形で足元に水溜まりを作る彼を見て、千春は研究室内に備え付けてあるタンスからバスタオルを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 体を拭き始めるサカシラを尻目に、彼女はそのままタンスを漁る。
「服はタートルネックにスラックス、軍支給の白衣でいいですか?」
「構いません」
「サイズは……180くらいでいいでしょう」
「はい。それで」
 ぽいぽいと軽く投げ渡しながら、千春は言う。
「すみませんけど、靴は我慢してください」
 元よりそのつもりだったのか、サカシラは無言で頷いた。
 ――さて。
「そろそろ、本題に入ってもらってもいいか」
 静かに切り出した香苗に、千春がにこりと薄ら笑いを返す。サカシラが横目で胡乱げに千春を見た。それを黙殺しながら2人に椅子をすすめ、腰を下ろしたのを確認してから、千春は向かい合うように椅子を持って来て座る。
「では、今回の投薬についての説明をします。使用は簡単よ。2週間に1回、血管注射で投薬。他は普通の生活を送っていただいて構いません。
 成分は、もみじくんの病の元となった毒。段々と身体が機能しなくなる効果を逆手に取って、脳の損傷を起こす細胞の機能低下・停止をするワクチンとして作り変えました。毒を以て毒を制すというやつですね。副作用はほとんど抑えてあります。もし出るとしたら、軽い頭痛・眠気・気分の悪さ、かと。投薬後、2日ほどは忍務を入れないことをオススメします」
 千春はペラペラと滑るように話し始める。脳にインプットされた情報をそのまま引き出すような喋り方は、彼女の記憶力ならびに頭の回転の良さを表しているようだ。香苗は舌を巻く。
 サカシラが、イマイチ信じにくい、というような顔で千春を眺めた。
「軽度記憶障碍(しょうがい)の人間70人に協力を得て人体実験をしましたので、信憑性は確かかと。記憶障碍により、新しい出来事を記憶できない方に開発薬を投与したところ、記憶力の低下が止まり、投薬後の出来事が記憶されるようになりました。脳の記憶に関する部分……まあ海馬の、短期記憶を長期記憶に変換する部分ですけれど、その部分の損傷の低下・停止が起きていると考えられます。真庭さんの場合、過去の記憶の消失ということで、本実験で開発した薬を、大脳新皮質の脳細胞死滅を食い止める薬に作り直したものも用意しております」
 なるほど、と香苗はクッとわずかに顎を上げた。やはり、仕事はきちんとこなす人だ。
「その投薬、2種類とも受けよう」
 彼女は組んでいた腕をほどき、左手はお腹辺りへ、右手はだらりと自然に体側へ投げた。
「わかりました。サカシラさんも、よろしいですか?」
「ええ。主人が受けると申しておりますので」
 サカシラの返答を聞いた千春は、にこりと彼へ無機質に笑んだ。どこか妙な雰囲気を持つ彼女の表情に、サカシラは瞳を眇めて片眉を跳ね上げる。
「……間宮氏、なにか不都合がおありですか」
「え?」彼のクエスチョンに、千春は逆に尋ねた。「なぜですか?」
 この上なく不思議そうな顔をして見つめる彼女に、サカシラはどことなく落ち着かなくなって、「いえ……」と言葉を濁す。微妙な空気が漂う中、香苗が仕切り直すように咳払いをした。
 怪我人の彼女に本日の予定はないはずだが……おそらく職業病だろう。癖のように時計を確認し、ハッと空を映したような瞳を丸くする。そして、浅く唇を噛むと、ゆるりと鼻から息を吐いた。
「薬を投与する方向でまとめてくれ」
 彼女はサッと恥ずかしさを隠すように、時計を見るために捲った袖を直す。
「わかりました、これから準備しますね。本日投薬しましたら、2週間後。ちゃんとココに来てください」
「わかった。感謝する」
「いえいえ」
 千春は手早く注射器を用意し、サカシラに腕を出すように指示した。しかし、いまだ懐疑の念が拭えないのか、彼が袖を捲る速度は緩やかだ。千春はニコニコと笑んだまま、右手に注射器を構えている。
 機械と機械の隙間を縫うように針を入れ、動脈の役割を果たしているだろう管に注射針を刺した。
「仲良くしましょうよ、真庭さん」
「……、……」
「お人形遊びは趣味じゃないんです」
 サカシラが上目で千春の顔をうかがうと、意図せず視線がガツンとかち合う。彼の、宵闇に浮かぶ月のような眼が細まると、彼女の深海にも似たサファイアの瞳が同じように細まった。
 発言の意図を探って、サカシラが眉間にシワを寄せると、千春は逃げるように身を引いた。
「終わりですよ」
「、」
「何度でも言います。次は2週間後、ですからね」
 準備時と同様にテキパキと片付けていく姿をぼんやりと視界の中央に留めつつ、投薬の話か、とサカシラは淡く考える。
 感謝を述べて席を立つ香苗に倣うように、サカシラも立ち上がる。どこぞのお嬢さんとその執事のようだ、と千春は愉快さを覚えた。

 彼女ら2人が研究室から出て行き、途端に空間が静けさを取り戻す。千春は大きく息を吐き出した。処置の間、香苗からとてつもなく硬い視線で監視されていたのだ。息も詰まるというものである。
「そんなに只の脳みそが大事なのかしら」
 千春は心底理解できない、と口元に手をあてて首をかしげる。
(まあ、今は“脳みそを守る”というより、“真庭サカシラを守る”というふうに見えるけれど)
 どちらにせよ、千春には解さない思想だ。彼女が唯一、信頼しているのは自分であり、自分の研究なのだ。そして、その成果を一番発揮してくれるのは、生きた人間である。千春からすれば、サカシラはただの機械であり、言うなればコピー機や洗濯機が人型をとって肉をつけているようにしか見えていない。それでも彼に治療をしたのは、彼がまだ、わずかにでも感情を持っているから。
 彼女は、もみじが入っているガラスケースの手前にある基盤をいじり始めた。
 脚パーツ、左右良好。
 腕パーツ、右に同じく。
 胴パーツ、内臓機能オールグリーン。
 頭パーツ、――。
「ほんとうに、よかった」
 稀代の科学者は、胸のつかえが全て取れたようにうっとりと微笑んだ。
 サカシラの身体の細胞――厳密に言えば、もみじの兄の細胞であるが――を媒介として、人型アンドロイドの素体にもみじの頭をすえ、頬まで侵食していた毒を治療して綺麗な皮膚へ戻し、素体と頭で拒絶反応が起きないよう最大限の努力を尽くした。一度、すでにアンドロイドの身体となったもみじの脳を調べたとき、自ら思考している、という脳波が取れたのは、千春の実験が大成功したという証である。
 彼女は生きた機械を作り上げたのだ。
 機械は機械でも感情があり、自ら思考し動く人型は、彼女の中ではまだ“生きた人間”の範疇に入る。
「おはよう、もみじくん」
 千春が優しく微笑めば、応えるように少年のまぶたが持ち上がった。昏い紫苑の()が、混乱したように濁っている。

 一方、香苗とサカシラの2人は、久しぶりに食堂へ行こうと廊下を歩きつつ、今回の事件が起きてから今までの経緯を説明していた。
 あの戦闘後、四肢爆散したもみじの肉片を掻き集め始めた千春に、香苗は空恐ろしさを感じながら問うた。
――彼は、君にとって大切な人なのか?
 彼女は間髪入れずに答えた。
――ええ。私が治すと決めた子なの。この子は治らなきゃならない。
 目をかっぴらいたまま、どこも見ていない少年の生首を抱え、毒で変色した少年の肉片が詰まったビーカーを持ち、さっさとこの場を去ろうとする千春を、香苗は呼び止めていた。
――間宮研究員、私と取引をしないか。
 香苗は“人型アンドロイドの作り方”と、“サカシラの体細胞の譲渡”を商品として、交換に出した。代わりに、“脳の損傷を止める薬”を要求した。香苗の言を聞いた千春は、瞬間的に真顔になって逡巡してから、こっくりと頷いたのだった。
 ……それが、半年前のこと。

「サカシラ。君の意見を聞かずに、君の細胞を交換に出したことはすまないと思っている」
 サカシラは、自分の目線より下にある香苗の顔をチラとうかがった。彼女は真っ直ぐ前を向いており、凛としたまま、歩みを止めない。
「いえ。結果的に、私は薬を得ることができました。それに……主人とこうして変わりなくいられることも、その当時の主人の判断あってこそだと思います」
 後を追いながら、彼は答えた。
「そう言ってもらえると、ありがたいな」
 思わずといったように、フと香苗は笑みを漏らす。彼女自身も、このようにして変わらずサカシラといられることができるとは思っていなかった。千春が薬品開発の研究に没頭していた期間も、サカシラの脳の損傷は進行していた。助からないかもしれない、と思ったこともあった。
 それが、今。そこに彼がいる、彼女がいる。それだけで、寒い日に身を寄せ合って、暖炉で温まるような、そんな“いつも通り”の尊さが感じられる。
 香苗は話を続ける。
「その後、私は療養。間宮研究員は研究。さっき言った取引の関係で、サカシラを彼女へ預けたんだ。……突然、スリープモードにしたのは、本当に申し訳なかった」
「いえ。それが主人のお考えだったのでしたら、私に異論はございません」
「そうか」
 それきり、パタンと会話が途切れた。しかし沈黙なぞ、この2人にとってはちっとも苦にならない。
 香苗が明日から復帰する仕事のことを考えていると、はた、とサカシラが何か思い出したように歩みを止めた。
「どうした?」
 香苗も足を止め、不思議そうに問いかけると、彼は通常装備の無表情で言う。
「私の自室に、主人に渡しそびれたものがありまして。差し支えなければ、私の部屋に寄っていただきたいのですが」
「ああ、構わないよ。通り道にあるしな」
 それだけ交わして、また2人は黙々と歩く。
 サカシラの部屋の前へ到着すると、彼は至極自然な動作で扉を開け、香苗を部屋へ招いた。彼女が招かれるまま入室したのを確認してから、自分も部屋へ入る。
 他人(ひと)の室内をジロジロ観察するのも失礼だろうと、香苗は目を閉じてドア横に立った。
「主人、これを」
 目を開ける。
「これは……」
「あの少年に()られた御様子でしたので、最後の時に取り返しました。……誠に勝手ながら私はこれを、主人のものだと考えておりますれば」
 傷だらけの懐中時計が、香苗の手のひらにふわりと優しく置かれた。じんわりと溶けるように手に馴染むそれは、確かに香苗の記憶の奥底にある引き出しを開ける鍵であり、記憶そのものでもあった。
 ……香苗は機忍狩りを行ったことについて、後悔はしていない。が、たまに深く考えてしまう事柄があった。大切なひとが瀕死の状態に陥ったとき、必死で生きながらえさせることだけを考え、行動していたが、それは正しいことであったのか、と。
 懐中時計の傷を、ツッと指先でなぞる。
 あの人に死にたい、と言われたわけではない。だが逆に生きたい、と言われたわけでもない。あの日あの時、香苗はエゴで動いていた自覚がある。それでも。自分がやったことだから。後悔するのは、この世の全てに失礼であるから。
(よく、ここまで来れたな……)
 作り上げた彼を当初、ただ脳味噌を入れておくための素体と見なしていた。しかし、人間誰しも情というものは出てくる。そして情なんていうものを抜きにして、それよりもなによりも、彼は。
「ありがとう、サカシラ。……君は、私の最高傑作だよ」
 彼は恭しくこうべを垂れた。
「身に余る、光栄でございます」
「――ありがとう」
 研究所内にいるときの香苗からは、まったくもって想像できないほどに柔らかく微笑む。おそらく千春でさえも目を疑うであろう。それほど、優しく目を細めて笑んだ。
 すると、それに応えるように(おもて)を上げたサカシラが薄く、本当に薄く。ぷわりとタンポポの綿毛が舞うように、朝露に濡れたサンカヨウが花開く。
 雷に撃たれる、1億円の宝くじに当たる、それらにかなり酷似した、史上最強と言えるほどの驚きに、香苗は秋晴れの空のごとき水色の瞳を瞬かせた。その瞬きの間に、サカシラの表情は元どおりになっている。
「サカシラ、今、」
「……なにか?」
「いや、ええと、なにもない。うん。なにも」
「……?」
 小首を傾げるサカシラに、香苗は動揺を隠せないまま、もだもだと言葉をこぼした。そして言いたいこと諸々を全て押しとどめて、ひとまずといったように深呼吸をする。
(笑ってた……)
「主人、食堂へ行きましょう」
「あ。そ、そうだな」
 またも先導して、サカシラが扉を開ける。廊下に出ると、天窓から差し込んだ日の光が、2人をやわく包み込んだ。


2016/11/23
title by 箱庭


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