街角シャングリラ(後)
 こっくりとしたとろみのある沈黙が、小一時間ほど場を占拠していた。その(かん)、もみじはジッと座って静かに目を伏せていたし、千春も真っ黒なコーヒーを啜るだけで自分から話そうとはしなかった。
(どうしたものかしらね)
 コーヒーの湯気でメガネが曇らないよう配慮しながら、カフェインを胃に流し込む。
 ガラスケースから出て開口一番、なぜ自分は死んでいないのかを問うてきたもみじに、自分が命を繋ぎ止めたことと、あれから半年経っている旨を伝えると、少年は弛緩剤を打たれたようにへなへなとその場でへたり込んだ。まるで人形のようにぼんやりとしてしまった彼を見て、千春は心中で舌を打つ。
 しかしながら、彼は彼女の研究結果である。無気力でいるもみじに容赦なく着衣を促し、席に着かせ、ホットココアを提供して、冒頭シーンに戻る。
「……生きていることが、そんなに嫌?」
 千春は眉を下げて質問した。少年はゆらゆらと顔を上げる。
「そんな、ことは……」
 ない。とは、言い切れなかった。もみじは言葉を紡ごうとしてなにも思いつかず、はくりと息を吐く。そんな彼らしい(・・・)反応を見て、千春はフと目を細めた。
「でも、目が覚めたら半年後っていうのは……苦痛かしら」
「いいえ……」
 沈殿していく砂を見るように、もみじの視線が手元にあるマグカップにおりていく。自分の顔すら映らないココアをぼんやりと眺めながら、ぽとんとこぼした。
「天国に、いると……思ってました」
「……天国に?」
「はい。……僕の隣に、兄さんがいたんです。
 なにも語りはしなかったけれど、寄り添うようにそこにいて……。あたたかくて、ぽかぽかしてて、人ひとりを私怨で殺そうとした僕の隣に、静かに、ただ静かに……」
 もみじの、“僕の隣”というワードに千春は鋭く反応した。そしてほぼ確信する。その、“僕の隣”にいたのは、“真庭サカシラ”である、と。
 サカシラの細胞(もみじの兄の細胞)が、しっかりもみじとシンクロするようにと、たまにケーブルで脳をつなげ、脳波の同調を行っていたことがある。おそらくそれが原因で、意識がない間のもみじの夢にサカシラ……もとい兄が出てきたのではないか、と千春は考えた。しかし、それを伝えたところで、もみじとサカシラの間にある、香苗襲撃に関する因縁は晴れないだろうなとも、考えた。
「そうなの」
 ふつりとそれだけを返して千春は、芋づる式にもみじの復讐心を思い出した。
 しかしながら、ここでああだこうだ言っても、結局はもみじ自信が復讐心(それ)をなんとかしないことには復讐は止まないし、そもそも千春にとって、もみじが復讐を遂行しようがしまいが、どうでもよかった。彼女はただ、十影もみじという、研究の証明があればよかった。
 けれども、自分が手塩にかけて育てたと言っても過言ではない実験の証明を、どうにかして“手元に”置いておきたいと思っているのも確かであり、この生温い平穏が愛しいのも、事実。そのために、もみじには殺人を思いとどまってもらわなければならない。殺害対象はいいとしても、金魚のフンが厄介だ。
 それに千春は、申し訳程度にだが、もみじに対して情が湧いていた。
「……そうだ」
 彼女が切り出すと、仄昏い紫苑が話を聞く姿勢を取り、わずかに灯る。
「話は違うんだけれど。君を生かそうと提案してくれたの、如月さんなのよ」
「え」
(しのび)にしては優しすぎるけど……あの人の気概は本物でね。治療中でも技術力の提供をしてくれたわ。まあ、機会があったら、一言ぐらい……」
 そこで彼女は、言葉を切る。
「…………」
 千春が話した内容をゆっくり、本当にゆっくりと飲み込んだもみじは、原子の大きさにも満たないくらいのほんの僅かな感銘と、それを易々と覆い飲み込む地獄よりも深い絶望と、言い得ない怒りを混ぜた、言葉にできない複雑な色をさせた瞳を、ギラリと沸騰させた。まだ香苗を許していないことが、火を見るよりも明らかであった。
 千春はそんな彼の色を、異言語を翻訳するように読む。
(半年の時間が、なんとかしてくれると読んでたんだけど……。兄を亡くしてからずっとだから、やっぱ根深いわね)
 正しく読まなくては。緊張で渇いた喉を、ゴグリと唾を飲み込むことで潤した。絶対に許してはならぬ巨悪を討伐しに行くような目付きをした彼を、千春はどうにか言葉だけで、手元に留めなければならない。心も、身体も。
 しかしながら、こういうときに限って、一言も出てこないものである。
「……」
「……千春さん」
 ざらり、と氷で出来た猫の舌が、千春の首筋を舐めた。
 目の前の復讐者が、深く、深く頭を下げる。
「ココア。……ごちそうさま、でした。……すいません、僕は、自室の整理がしたいので……」
 嘘だ。
 千春は目一杯に否定してやりたかった。
 もみじが立ち上がる。もう一度へこ、と頼りなく一礼し、扉へ向かって歩いていく。そのヒョロヒョロとした背中には、はち切れんばかりの意思が詰まっていて、少しでも(つつ)いたら破けてしまいそうだった。強く触れてはダメだ。だからと言って弱く触れても、きっとするりとかわされてしまう。
 千春はガタリと焦ったように起立した。
「……もみじくん」
 肩に少しつくくらいの瓶覗(かめのぞき)色をしたもみじの髪が、彼が振り返った拍子にふらりと不安定に揺れた。
「はい」
「待ってるからね」
 きょとり。少しだけ丸くなった紫苑が、星のようにぱちぱちと瞬く。言うに事欠いてこれか、と千春は自分を罵った。だが、まあ。勢いは、ついた。
「最近忙しくて。私のお手伝い、してほしいのよ」
 苦しい言い訳だ、と彼女は思う。もみじが眉をハの字に下げた。
「千春さん、それは、」
「――戻ってきて」
 その時、千春がどんな顔をしていたかは、もみじしか知らぬことである。ただ、その一瞬。復讐者の顔つきが、遠方の母を憂慮する少年のようであった、と記しておく。
「……はい。
 あまり……お待たせしないように、しますね」
 今度こそ、もみじは研究室から出て行った。

  *

 食堂でサカシラとの静かな会食を終えた香苗は、自室へ戻るために一人で廊下を歩いていた。
(久方ぶりに、充実した一日だったな)
 あの事件から今日までの半年が、この一日にギュッと詰まっていたような気がする。なんとなく気分が良くなって、必要以上に出歩かない研究所内を散策しようと、滅多に利用しないトレーニングルームの方へ足を延ばす。そんな香苗の視界の端に、瓶覗色の髪が蛇のようにうごめいたのを視認した。
 ヒュ、と喉の奥を、カラカラに乾いた空気が過ぎる。
「ぐッ!」
 刹那に、香苗の眼前で火花が散る。腹部と両腕にかかる圧迫感と、ビリビリと全身に電気が走っていると錯覚するほどの、殺気。
「如月……香苗……」
 覆いかぶさる影から、内存する負の感情すべてを煮詰めた呪詛が捻り出された。
 LEDの蛍光灯の光を背負い、逆光となっている少年の瞳は、陽の下ではアメジスト色の美しい紫苑だろうが、今は陰っているせいで雨雲のごとく濁っている。仄暗くも激しいほどの強い意思にまみれたそれは、炯々と輝いていた。
「……十影もみじ、だったか」
 香苗は床に倒され、完全にマウントポジションを取られていた。腹部に乗られ、左膝で右腕を、右足で左腕を封じられている。加えて彼の左手は香苗の首を的確に圧迫し、残る右手には、蛍光灯の光を跳ね返してぬらりと不気味に光る匕首(あいくち)が握られていた。
「……僕は……あなたを許さない……」
 健全な輝きが一切無い。昏く、この世の底辺にいるような深い色を灯した目が、無風の空のように凪いだ香苗の目を突き刺す。
「好きに、したらいい……。私は、君に、許されようとは、思っていない……」
 呼吸が苦しいために、喋る声も掠れればスピードも遅い。気付いたらしいもみじが、少しだけ圧を緩めた。
「っ……ゲホ」
「忍者狩りを行ったのは、あなたですよね」
 沸々と。気味が悪いほど静かに猛る復讐者の瞳を、香苗もまた静かに覚悟の灯る目で見つめ返す。彼女が相も変わらぬ毅然とした声音で「そうだ」と告げると、もみじの雨雲色が混ざった紫苑の瞳が不愉快そうに細められた。
「そして……千春さんに提案して、僕を助けたそうですね」
 またも同じ調子で、彼女は「そうだな」と答えた。
 ガン! と香苗のこめかみの真横、スレスレの位置に匕首が振り下ろされる。
「ひとの兄を殺しておいて、僕を助けようと口を出すなんて……ふざけてるのか……!」
「……」
 匕首を持つもみじの手が、有り余る怒りを押し留めきれずに震えていた。目が、死中に活を求める武士のように爛々と、息荒く香苗を睨む。
 ズ、と。不穏な音を立てて、ギロチンの刃がゆっくりと持ち上がる様子に似ていた。草に身を隠したライオンが、獲物を狙うように。一度振り下ろされた匕首が禍々しい空気をまとい、ギチリと縄で釣り上げられるように持ち上がる。
「――こ、ろす」
 初めてその言葉を口にしたような拙さだ。
 ギロチンが、人を殺めるという意思を持ってガタガタと震えている。
「ッ……!!」
 もみじの瞳が深みを増して、雷光が閃いた。
 ――ガヅンッ!! と。死刑執行の荒々しい音が響く。その執行をもって、執行を知らせるように。

 もみじが千春の研究室を出て行ったあと、しばらくぼんやりとしていた千春は、気持ちを落ち着けるように椅子を戻し、ゆるりと座り直した。
(……君も、優しすぎるのよ。彼女より、ずうっとね)
 ため息をひとつ。ほとんど勢いの産物だったが、よくああも上手いことが言えたものだ、と千春は頬杖をついた。実験の証明がなくなることが、そんなに怖かったのだろうか。だからあんなに、必死になって引き止めたのだろうか。そこまで考えてから、これはあまりにも不毛だなと、思考をやめた。どうせ答えなんて出ない。
 冷めかけたブラックコーヒーに、角砂糖をひとつ落とす。
 少しすると、来客を知らせるブザーが、ビー、ときっかり一秒。それだけで誰が来たかを断じた千春は、「明日の天気は槍かしら」と席を立った。
 内からパスワードを打ち込むと、自動ドアが作動する。
「いらっしゃい、真庭さん」
 すらりとした体躯が、妙な圧迫感を放ちながらそこにあった。そこからピクリとも動かないまま、彼は無感情に問う。
「突然の推参、申し訳ありません。単刀直入に申します、私の主人はこちらにおりますか」
 千春は小首を傾げた。
「来てませんけど……。どうかしましたか?」
「いえ」サカシラが即答する。「主人の自室に訪問したところ、戻っておられないようでしたので。こちらにいらっしゃるかと参上した次第でございます。質疑の応答、ありがとうございました」
 言うだけ言って踵を返す彼を、千春は腕をガチリと掴むことで阻止した。ドア前から微動だにしない、(元)敵陣に入らないその徹底ぶりに、少しだけちょっかいをかけたくなった。……のも、あるが。
「急いては事を仕損じますよ、真庭さん」
 千春が柔和に笑んだ。比例して、サカシラの眉間のシワが深くなる。
「どうぞ。立ち話もなんですから、ね」
 研究材料として、千春はサカシラと、一対一で話をしてみたいと思っていた。
「いえ、結構です」
「如月さんがどこにいるかは、大体見当がつきますけど」
「! ……、……」
「……さあ、どうぞ。真庭さん」
 敵情視察でもするような固さで、サカシラは千春の研究室に足を踏み入れる。
 今、もみじの身体を形作っている素体技術は、サカシラの生みの親である香苗からもらったものだ。千春は考える。せっかくの成果が、無感情に、ただ作者の後を付き従うような機械に成り下がるのは許せない。彼の場合、作成された時からそのようであったから、もみじとは違うだろうが……万が一、だ。
 自分の研究が、劣化しては困るのだ。
「じゃあ、そちらにかけてください」
 先ほどまでもみじが座っていた場所に座らせ、いくらかココアが残ったままのカップを片付ける。そのついでに、千春はサカシラに飲みたいものを尋ねた。
「コーヒー、ココア……あとは紅茶がありますね。アールグレイとダージリン、アッサム。どれにしますか?」
「いえ。お気遣いなく」
「じゃあ、アールグレイにしますね」
「……」
 納得いかない、という顔をしている彼を観察しながら、千春は湯を入れたマグカップにティーバッグを沈める。その傍ら、コーヒーポットに残っているコーヒーを、彼女自身のマグカップに()ぎ足した。
 紅茶の方をサカシラの前に置き、ティーバッグを出したときのために丸い平皿も一緒に置く。
 「好きな濃さになったら、ティーバッグ、出してくださいね。私は貴方の好みがわからないので」
 すると彼は、無駄のない動作で平皿をマグカップの上に伏せると、紅茶を蒸らし始める。千春は腕時計を一瞥して、「蒸らすのがお好きですか」とやや驚いたように問いかけた。
「いえ。しかし、これが最良であると記憶しております」
「……」
 ニコ、と千春は無意味に笑んだ。それくらいしか反応のしようがなかったのもあるが、すでにサカシラへの興味が薄れかけていたのもあった。
 使い捨てのマドラーで、なにをするでもなくひたすらにコーヒーをかき回す彼女は、気を取り直すように口を開く。
「それで……真庭さんは、普段なにをしていらっしゃるんですか?」
「回答する義務はありません」
「表のお仕事は?」
「回答する義務はありません」
「如月さんも、お医者さんでしたよね。一緒に働いてらっしゃるんですか?」
「回答する義務はありません」
「……」
「……」
 不毛な押し問答をして少し。不意に千春は、かき回す手を止めて腕時計を見ると、深い海色(みいろ)の瞳を怪しく細めた。サカシラはそんな千春の顔を見て訝しがるが、はたりと思い出したようにマグへ伏せていた皿を開け、ティーバッグを取り出す。
 頬杖をついた彼女は、モルモットを見るように彼を眺めた。
「蒸らし時間」
「……」
 瞬間、サカシラは千春へ視線を投げたが、すぐに手元へ戻す。
「ぴったり1分半なんですね」
「ええ」
「とても機械的」
 ひどく、そう、ひどく優しい声音で千春は、 ほろりとこぼす。
「…………」
 ゆらり。サカシラは視線を上げ、面を上げ。細い目を鋭く開き、なにが言いたい、と宵闇に浮かぶ鮮やかな月色の瞳で語る。全く隙のないその様子は、忍務遂行中の彼に酷似していた。千春は慌てて、体の前で両手を振る。
「ああ、いえ。すみません。ただ確認して、私が安心しただけです。
 貴方を使わなくてよかった(・・・・・・・・・・・・)って」
 本当に、心の底から安堵したという微笑。
 あの事件の最中ずっと千春は、もみじを救う近道としてサカシラの体を使うことを考えていた。結局それは叶わず、先にもみじが四肢爆散してしまったわけであるが……結果オーライだったな、と千春は思う。
 元々真庭サカシラという存在は、脳を入れておくために作られた素体だ。それに十影もみじの脳を移植したところで、脳を保存しておく機能が変容するわけでもない。ただの箱に、今から感情豊かな人間になれと言っても、どだい無理な話というものだ。
 それに、他人が作った容れ物に自分の研究を入れるなど。きっと背筋がぞわぞわしてしまう。
「やっぱり一番信頼できるのは、自分の研究だけですよね」
 しみじみと。千春はコーヒーをすする。
「さて、如月さんの居場所でしたっけ」
 打って変わって明るく切り出した彼女に、サカシラは微妙な表情のまま耳を傾けた。
「もみじくんと一緒だと思いますよ」
「!」
「恐らく、ですけど」
 サカシラは刹那に思考し、コンマで結論を出す。
「ええ。ありがとうございます」
 言うなり彼は、椅子を蹴倒す勢いで音荒く立ち上がると、早足で研究室の出入り口へ向かう。主人のそばに敵の存在があるという事実が、彼を動かしているのだろう。そしてこの凄まじい勢いでは、敵はきっと爆死させられる。
「『今は停戦中』……」
 ゆるゆるとした歩みで後をついてきた千春が呟く。
「パスワードがないと。その扉、開きませんよ」
「ええ。助かります」
「如月さんが言ってたこと、お忘れなきよう」
「……ええ」
 ドアロックが解除され、プシュ、と開き始めた扉に、サカシラは風のように身を滑り込ませた。そのままの速さで廊下を走る背中をしばらく見つめてから、千春は扉を閉じて踵を返す。
 机上(きじょう)を片付ける際、残り少なになっていたコーヒーを飲み干し、いっさい手がつけられていない紅茶も、ついでとばかりに飲む。カップを洗い、やることがなくなると、千春はソファに寝転がり、先ほどの対談の考察を脳内に記していく。
(コピー機や洗濯機よりも、お掃除ロボの方が近いかしら)
 我ながら言い得て妙だ、とちょっぴり笑ってから、彼女は仮眠を始めた。

 廊下。雨が降る。
 はらり、とメッキが剥がれるように落ちた涙は、少年特有の少し丸みを帯びた頬をするりと滑り行く。香苗の右目を突き刺すはずであった匕首は、着地点を大幅にずらし、先程突いた場所と同じ場所を突き刺していた。
「ぐ、う……、うう……ううう……ッ!」
 香苗は、獣が人になる瞬間を見る。
 声にならない声が呻きに変換され、じわりじわりと排出されていく。ガタガタと先ほどよりも酷く震える処刑器具は、とうに意思など無いガラクタだ。
 彼は肺に穴でも空いたかのように、切ないほど苦しげにこぼした。
「……時間が……ありすぎたんだ……」
 そう、もみじには時間がありすぎた。事件の最中に香苗の秘密を知ってから、半年もの時間を得てしまった。それだけ時間があれば、大切な人を喪いかけて忍者狩りをさせた彼女の気持ちを詳細に考えることは、とても容易であった。兄を喪い、復讐を決心した彼自身の気持ちと、深く結びつけることも。
 じっとうつむいたままのもみじを、香苗は静かに眺めた。そうして溜め息をひとつ。彼女は彼の膝下から右腕を引き抜くと、少年をやわく押しやった。いとも簡単に尻餅をついた彼を尻目に、身なりを正して立ち上がる。
「私を殺すんじゃなかったのか」
「…………僕は……」
 もみじは香苗を上目で()めつけた。ナイフのようにギラギラとしたその目は、確かに威圧感の塊を押し付けるような強さであったが……殺気ほどの強さは無い。
 しばらくの沈黙の後。目を伏せた拍子に溢れた涙とともに、彼の口から言葉が落ちる。
「……羨ましい」
「……?」
 香苗は眉をひそめた。
「……あなたは……きちんと、地に足がついている」
 彼自身、香苗が指示した忍者狩りは、自分が行う復讐と同じ、衝動の産物であるとわかっていた。そして忍者狩りの事件を乗り越えて、彼女が今ここに存在していることも知っていた。もみじは、復讐を終えたら死ぬつもりだった。
 元来の復讐対象として範疇にいたこともあったが、あの一件で秘密を覗いて殊更に、彼女個人への殺人欲求が高まった。羨ましさの裏返しだった。生きたまま罪を受け入れる彼女への嫉妬心だった。
「対して僕は、あなたを許せない……。……許せないのに、ころせない」
 クツリ、と歳に似合わぬ嘲笑。
 白衣のシワを伸ばしながら、香苗は深く溜め息を吐き出した。
「……独白されても、困るんだがな」
 この少年は、彼女の手に余る。しかし香苗の良心が、もみじを無下に扱うことを躊躇(ためら)わせるのも事実。
 彼女はうろりと視線をさまよわせた。陰って見えないもみじの暗色の瞳を、眩しさに目を細めるほどの鮮やかな空色が、的確に急所を突く槍のように真上から見据える。もみじはどきりとした。心臓を捉えられたような気がした。
「最初にも言ったが。私は君に、許されようとは思っていない……し、これから許されようと努めることもない。それは覚えておけ」
 もみじは顔を上げる。揺らめく海面に似た紫苑の目を数回、瞬かせてから、はたと不機嫌そうに細めた。言外に言いたいことを受け取ったのだろう。悔しげな顔をしながらも、一本、絶対に千切れることのないピアノ線のごとき鋭い目つきをした彼は、ひどく大人びた声色で香苗に低く言い放った。
「……。今日は見逃しますが……次……いや、これから。僕と会ったら、どうなるか。わかりませんよ」
「肝に銘じておこう」
 香苗はぐっと伸びをし、両腕を回して五体満足であることを確かめる。明日から医者の仕事が入っているのだ。不調があってはかなわない。最後に香苗がもみじを見やると、恨みがましそうな視線を返された。はいはい。心中返事をした彼女は、自室への道程へ戻る。
 香苗が廊下の角へ消えると、もみじは脱力した。両肘を、立てた両膝の上にそれぞれ乗せて、カクンと首を落とす。彼は怖かった。一時(いっとき)でも人を殺すと決めていた自分も、相当な殺気を平然と受け止めていた香苗も。
「ごめんなさい、兄さん」
「――いえ。私は貴方の兄ではありません」
 ひと息に全身が粟立った。
 しまいかけていた匕首を逆手に構えて跳び退くと、腰を落として相手との距離を測る。もみじの視界の中央を、長身痩躯(ちょうしんそうく)の男が占拠した。
「真庭……さん」
 自分を殺した相手だ。
「はい」
「……なぜ……ここに」
「主人を探しております」
「主人」耳慣れない単語だ。
 もみじは一瞬、なんのことだか分からなかった。しかし、サカシラの視点に立てばそんなこと、簡単に分かる。彼の主人は、如月香苗だ。
「如月さんなら……あちらの角を、曲がって行きました」
 顎を引き、上目に相手を見ながら、武器を持っていない方の手で廊下の奥を指した。サカシラの武器はそのいかにもな腕だ。もみじは下唇を噛む。
 じわり、と後ろ足を静かに下げた。機を見て逃げるための準備をする。
「ええ。ありがとうございます」
 平然、と。特に何事もなかったかのように――特に、あの事件のことをそのままそっくり忘れたかのように――、普通に対応するサカシラに、驚き半分、警戒半分にもみじは後ずさる。それを目ざとく見つけたサカシラは、やや気まずそうに言った。
「……『今は停戦中』」
「? ……」
 もみじが緊張した面持ちで、匕首の位置を高くする。照明の光を綺麗に跳ね返す彼の刃を見ながら、サカシラは言葉を続けた。
「主人の命令を遵守しているだけです」
「……」
「それを踏まえた上で、貴方が主人に害を成していないならば。私が貴方を攻撃する道理はありません」
 一礼。そして、もみじが指し示した方へ素直に足を進める彼を、少年は呆気にとられながら見送った。歩き慣れた道を歩いていたら、不意に落とし穴へ落ちてしまったかのような心地だ。呆然と驚きが混ざった、あの感覚。
 もみじは匕首をしまうと、ゆっくりと辺りを見回す。夕方になったのか、天窓から差し込む光が少なくなり、目に痛い蛍光灯の光が目立つようになった。地下の研究所だと、どうにも時間感覚がなくなってしまう。暗くなる前に帰らなければと、幼少からの習慣か、もみじはぼんやりと思う。
(どこに帰ろうかな)
 当初の予定では、この時間、すでに彼はここにいない。だが、今ここに彼は存在している。生きている。
 もみじは悩んだ。
 悩んで、悩んで、一通りの案を脳内の机の上に並べて、どれが一番、自分にとって良いのかを考える――。

 しばらく歩いていた香苗は、フと足を止めて目を閉じる。深呼吸を1回。息を吸いながら、ゆっくりと目を開ける。そこで息を止めると、千里眼を発動した。
「……出てこい」
 至極、静かに呼びかける。香苗の背後にある十字路の影から、ぬらりと長身の青年が顔をのぞかせた。
「……バレてたか」
 濡羽色のしなやかな髪が美しい。ブレスレットやチョーカーを揺らしながら、青年……悪太郎は、こちらを振り返った香苗に、ちょっぴりバツの悪そうな笑みを向けた。
「ついさっき、な。まんまとハメられたよ」
 香苗も同じく、少々決まりが悪そうに苦笑する。
 もみじと別れたあの場所からここへ来るまで、彼女は明日の仕事についてや、これからの研究のこと、発表する論文について考えていた。その最中、なぜ自分がもみじと出会ったのか、そもそもなぜあの場所へ行ったのかを考え、何かがおかしい、と疑問を持ったのだ。
 目に見えぬものが作用していた。つまり意識誘導の類だ。知っている中で、そのような芸当ができるのは、事件中に出会ったあの青年だけだ。という図式である。
「君だろう? 私とあの少年を鉢合わせたのは」
「……ご明察」
「なんのために?」
 悪太郎はきょと、と香苗を見つめる。それから、この世に二つとない宝石を見るように、眩しそうに目を細めた。
「……おれは、キラキラしたものに目がなくてな」
 彼の不明瞭な言葉に、香苗はじとりと目を(すが)める。悪太郎という青年が、キラキラしたものに目がないことは周知の事実だ。
 香苗は口を開きかけ、やや迷ってから閉口した。言及するのは、なんとなく無粋な気がした。
 悪太郎はスッキリしたような顔つきだ。
「……じゃあ。おれは、この辺で」
 姿を現した時と似たように、彼はするりと影に溶け込む。香苗が瞬きをするともう、青年は姿を消していた。すぐに廊下は静寂で満たされる。しばらく悪太郎がいた方を見つめていると、なにやら青年と同じくらいの身長をした影が、こちらへ駆けて来た。
 見覚えのありすぎる影だ。
「サカシラ?」
 彼は香苗がいることがわかると、足を緩めながら近づく。
「ええ。……探しました。食堂から、真っ直ぐ自室へ帰っていると思っておりましたので」
「悪いな。普段、使わない道を使ったら、迷って」
 香苗は言いながら、今度こそ、自室へ向かうために足を進める。そんな彼女の3歩後ろくらいに、サカシラが控えた。
「明日から表の仕事が始まるからな。君もよく休んでおけ」
「御意に」

 その頃。千春が仮眠から起きて、気まぐれにホットココアを作っていると、ビィ、とドアベルが遠慮がちに鳴った。それだけで誰が来たかを断じた千春は、手元の作業を全部放り出して、ドアへと向かう。


2016/12/02
title by 箱庭

Special thankS(敬称略)
NPC&GM:悪太郎&ふじまる
PC1&PL1:真庭サカシラ&ガク
PC2&PL2:如月香苗&セツカ
PC3&PL3:間宮千春&迷子

Thank you for the reading!

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