手のひら返せば
※街角後日談

「げ」
 裸足でゴキブリを踏んづけてしまったような、蜘蛛の子が散る様子をガッツリ目撃してしまったような。生理的に嫌な出来事が起きた。そんな声だった。
 そして、その声を直接浴びた女医師は、至極不愉快そうに眉を寄せる。
「開口一番、それはないと思うぞ。
 ……もみじ少年」
 彼女が呆れたように言えば、もみじは誤魔化すように咳払いをした。そしておんぶしていた子を抱っこに変えると、香苗に診せる。
「……。この子が熱を出してしまったんです。……最寄りの病院がここだったので、診てくれませんか」
 温もりを求めるように彼へしがみつく男の子の顔をうかがうと、香苗はおや、と驚いたように目を丸くした。
香山(かやま)行晴(ゆきはる)くん」
「ブラック・ジャックの、せんせ……?」
 彼女が男の子の名前を呼べば、ぽやぽやとした声で返事が返ってくる。
「ああ、私だよ」
 香苗は、ふわんと羽毛のような柔い笑顔を浮かべた。もみじは目を疑う。瞬きを2回。少し目を閉じてから、恐る恐ると香苗を見る。彼女は変わらず、やわやわとした表情で行晴に病状を尋ねている。
 そんなもみじの様子に気づかない行晴が、ブラック・ジャック女医へ普通に接しているのを見て、これが『病院にいる如月香苗』なのだろうなと、もみじは淡く考える。分厚い表の顔だなと、思った。
「行晴くん、診察室に行こう。熱が出ただけだとは思うけれど、万が一があったら困るからね」
 表情筋が動きまくる彼女に辟易しながら、もみじは行晴を降ろそうとしゃがむ。
「ほら、香山くん。如月……先生に、診てもらいましょう」
 がっちり、と。もみじの服を、指が白くなるまで握りしめている行晴は、彼から離れる様子がなかった。もみじが優しく肩を叩いてやっても首を横に振るだけで、彼の胸に顔をうずめてしまう。
「香山くん」
「や」
「や、って……」
 もみじは戸惑った。
「おにーちゃんと、いっしょがいい」
 行晴の子供らしい素直な言に、うぐ、と少年は奥歯を噛む。あの一件があって以来、彼は研究所内でも極力、香苗に遭わないよう画策してきた。理由は単純、至極明快なもので、顔を合わせたその時、何をしでかすかわからなかったから。
 だのに――こんな表の世界で、診察室という密室空間を共にしなければならないなんて。少年の内に潜む復讐者は彼女を……如月香苗を、許してはいない。
「……おにー、ちゃん」
 しかし、だ。
 行晴の瞳が水分を含み、宝石のようにきらきらした。まばゆいそれは、いとも簡単にもみじの瞳孔を突き刺し、網膜に焼き付く。ここでこの子を泣かせるのは本意ではない。
 もみじはよっこら、と行晴を抱え直し、立ち上がる。
「じゃあ一緒に行きましょう、香山くん」
「……ほんとう?」
「本当」
 返答を聞いて、すっかり安心したのだろう。くてんと力尽きたように、行晴はもみじへと寄りかかった。発熱に耐える小さな背中をトントンと柔らかく叩き、もみじは鋭くした紫苑を香苗に向ける。
 彼女は意外そうにその視線を受け止めた。その昏い色は、変わらず香苗に狙いを定めている。
「いいのか?」
「僕だって子供じゃ、ありません」
 言ってから、目を眇めて香苗に先を促す。
「早く彼を治療してください。貴女とギスギスしている様子を、この子に見せたくない」

 行晴は一過性の熱と判断された。遊びが高じて興奮し、体温が上昇してしまったのだろう。子供は体温調節が苦手だ。一晩おとなしくしていれば熱は引くだろう、というのが香苗の見解であったため、行晴には冷えピタを処方した。
 早めに親に迎えに来てもらい、いまだ幼稚園で遊んでいる他の子より一足先に帰宅させる。後見せだが、保険証を受付に出し、行晴の母親に診察料を払ってもらい、ここで彼とはお別れである。
 見送りを済ませたもみじは、同じく見送りをしていた香苗を横目でぎっとねめつけた。
「僕はこれで帰りますから」
 地を這う――といっても、まだ若い声なので低さの限度はあるが――ような声で、なじるように吐きすてると、もみじは香苗に背を向けた。
「言いましたが、僕は貴女を許さない。けど、殺すなんて、生易しいことなんかしない。
 一生、僕の恨みの視線を受けて生きればいい」
 香苗はただ、「そうか」と返した。これが、十影もみじの解答なのだろうなと、ぼんやり思った。そしてこれは、もみじが推し量った香苗の気持ちと、自分自身の気持ちの折り合いをつけた上での答えなのだろうなとも、思った。まったく優しい子だと、目を細めてしまう。出会い方が違えばな、という感想が脳裏をよぎった。
 院内に戻った香苗は、外来患者の対応をしていく。
 表と裏であまりにも違う自分の手に、苦笑を一つ落とした。


2017/07/13


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