ユーノー女神の祝日
どこもかしこもバレンタインムード一色である。デパートに行ってもカフェに行ってもコンビニに行っても、目に飛び込むのはチョコ・チョコ・チョコ。この日はチョコレートを視界に入れないと死んでしまう日だったりするのだろうか。
……冗談はさておき。今日ばかりは僕も、このチョコレート会社の策略に乗る。父の日と母の日はあるのに、きょうだいの日がない事実は僕にとって悲しいことだった。なぜなら、両親が忍務で殉職したあとは兄だけが家族で、帰る場所だったから。それならばと。恋人と家庭の女神であるユーノーの祝日。聖ヴァレンティヌスが殉教した2月14日を、僕はきょうだいの日とした。女神と司教からしたら誠に勝手な話だが――要するに、バレンタインに乗じて、兄へ日頃の感謝を伝えようというわけである。
学校帰りにスーパーへ寄り、去年作ったものを思い起こす。去年は確か、アイシングクッキーだったはず。
兄はパンクでヤンキーな風貌でいて、存外甘いものが好きだ。黒いパッケージングのビターチョコをスルーして、赤いパッケージングのミルクチョコをカゴに入れていく。今年は生チョコにしよう。こどもな僕たちには、甘ったるい生チョコがお似合いだ。
生クリームをカゴに入れて、クッキーで出来たちっちゃいタルト型も買う。成形の際にバットに入りきらなかった生チョコはタルト型に入れて、冷やして食べるとおいしい。
「……よし」
あとは帰宅して、兄が忍務を終える前に作ってしまえばオーケー。
「お。おかえり、もみじ」
家に帰り着くと、兄の朗らかな声が僕を出迎えた。
「えっ」
はしたなくブーツを脱ぎ捨てて、リビングへ駆ける。すがるようにして荒くリビングのドアを開けると、ソファーでゆるりと座る兄が、優しい瞳で僕をみつめた。
「驚いたろ」ニヤ、と意地悪な笑み。
「驚いた……」
「上司さんのご厚意でな、忍務が早めに終わったんだ」
僕は脱力する。
「もう、早く帰るなら連絡してよ」
不満をこぼせば、兄がやおら立ち上がってこちらに近づいてくる。なんだと首をかしげていると、僕の手からスーパーの袋を取り上げた。
「あ。ちょっとお兄ちゃん」
焦って兄の腕を掴むと、兄は柔い笑みを浮かべて僕を見る。
「いつも作ってもらってるからさ、今年はオレが作ってやるよ。生チョコか?」
「……」
「ほら、靴を直して、手洗いうがいをしておいで」
こうなったら兄は頑固だ。てこでも動かない。
「……うん」
ヘンなところで意固地な兄は、どんな約束でもキッチリ守る。食事中は席を立たないとか、鼻水はすすらないとか、それこそ僕が忘れてしまった約束事さえ。
兄の大きな手が、いつくしむように僕の頭を撫ぜる。ぼっ、と心の臓の奥深くに暖かい火が灯るような心地がして、へにゃりと頬が緩んだ。
「さあ」
ポンと背を押されて、僕は玄関へ戻る。散らかったブーツを揃えて履き物用の乾燥剤を入れ、リビングの手前にある洗面所で手洗いうがいをした。鏡を見ると兄に撫でられたところがくしゃりとしていたので、直そうと手を伸ばし――ちょっと考えてから、手を引っ込める。このままのほうが、なんか、好きだ。
兄に言われたことを終えてリビングへ行くと、チョコレートの甘い香りがふわんと鼻腔をくすぐる。湯煎をしているのだろう、リビングの空気がほのかに暖かい。
「ブーツ直したし、手洗いうがいもしたよ」
言いながらキッチンに顔を出せば、兄の顔がパッとこちらを向く。
「おう、いいこだ」
ニッと笑った顔は、ひまわりにそっくりだ。キラキラ輝いていて、ポカポカで。それでいて、見る人の目を潰すことはない。太陽みたいな人もいいと思うけど、あれじゃあ強すぎて、目がくらんでしまう。
兄の隣に並ぶと、チョコの香りがいっとう増す。ミルクチョコのとろりとしたまろやかな匂いが、身体をやんわりと包み込むような気がした。
「お兄ちゃん、じょうず」
ふふふ、と思わず笑いが漏れた。気の置けぬ、気心知れた人が小難しい作業をしているのを見ると、無性に笑いたくなってしまう。きょうだいが隣で車を運転しているのを見ると笑ってしまう、あの感覚に似ている。
「じょうずって、おまえ。オレが朝メシ作ってるだろ」
「でも。ふふ、あはは、見てて楽しい」
先述の通り、兄の風貌はパンクでヤンキーだ。上下スウェットで、コンビニの前にたむろしている姿が容易に想像できるような、そんなひとだ。
兄がじとりとにらんできた。
「にゃろう」ゴムベラを持っていない方の肘で、僕のほっぺたをつつく。「失礼な弟め!」
それを戯れに払いのけていると、ガチャンと偏った方に力がかかる。湯煎されているボウルが傾いて、お湯が波打った。
「お湯が入る!」
「ははは! 別に、オレともみじが食うんだ。ちょっとくらい、いいだろ」
そうやって散々ふざけあって出来た生チョコは、とびっきりに甘くて、おいしくて。それでいて、形が崩れてたり、固まりきらなかったりと、ひどくつたなかった。
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ゆりかごのような、優しい揺らぎ。
「――くん、もみじくん」
女のひとの、優しい声の響き。
「ほら起きて……」
「……う、……」
深い海の底からサルベージされるように、意識が急速に持ち上がった。ぱち、ぱち、とまばたき。ガバッと身体を起こすと右側に、かがんで僕の顔をうかがう千春さんがいる。いつから、寝てしまったのだろうか。
「お昼寝にしては長すぎるわね。もう起きないと、夜に眠れなくなるんじゃないかしら」
いたずらっこのように笑う千春さんをしばらくぼんやりと眺め――冷水をかぶったようにハッと、一瞬にして思考が冴えた。
「うわ、わ。ごめんなさい。いま何時ですか」
「16時をすぎたとこよ」
お昼を食べ終えてからの記憶がほとんどないので、きっとその時から眠ってしまったのだろう。なんという失態。最低でも3時間は眠っていたことになる。今日は、バレンタインデーだというのに。
「あの、千春さん。今からでも外出許可証って、もらえますか」
千春さんには、たくさんお世話になっている。バレンタインデーでなくとも、なにか返してあげたいとは思っていた。が、タイミングがつかめないまま、ずるずるとここまで来てしまったのだ。この日を逃したらきっと、またタイミングがつかめなくなってしまう。
「まだ大丈夫じゃない? すぐに帰ってくるなら、1時間外出の申請にするといいわ」
「ありがとうございます。少し、最寄りのスーパーに用事があって」
わたわたと財布やコートの準備をしていると、千春さんが楽しそうに尋ねてきた。
「チョコレートでも作ってくれるの?」
「そのつもりです」
「あら、それは嬉しいわね」
うふふ、と口元に手を当てて笑う千春さんを尻目に、忘れ物がないかを確認する。
さて、今年は何を作ろうか。パウンドケーキ、ミルクレープ、トリュフ、生キャラメル……。様々なレシピが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
「じゃあ、ちょっと出てきますね」
しっかり着込んで防寒対策をし、財布を片手に研究室のドア前に立つ。
「ええ。外は寒いから、気をつけて行ってらっしゃい」
スーパーに着いた。僕は一目散にチョコレート売り場へ行く。ギリギリ間に合ったのか、まだチョコレート製作キットが山積みになっているブースが残っていた。
迷わず、黒いパッケージングのチョコをカゴに入れていく。今年はガトーショコラにしよう。ちょっぴりオトナな味わいのそれは、千春さんも喜んでくれるはず。
……でも、僕はまだこどもだから。粉砂糖、いっぱいかけてもいいかな。
2017/02/16
遅刻遅刻ゥ
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