テディ7世の驚愕
「海だー!」
 ワッと叫んだ真白の白い脚が、パタパタと浜の上で踊った。
 白く輝く砂浜に涼やかな青い海、絵に描いたような水平線。太陽光が乱反射して、ちらちらと海面で光が瞬いている。ハレーションが目に痛い。
「待ってください」
 背にかかる声に、白いイートン襟をした紺色のノースリーブに包まれた、細い体躯がきらりと振り向く。水色デニムの短パンから伸びる生脚がニオの脳裏に強烈に焼きついて、思わず目の下に一筋、シワを作った。……煩悩。
 右手で目元に影を作りながら、ニオが後を追うように足を運ぶ。ネイビーのロング丈Tシャツが風に揺れた。
 砂浜にも波打ち際にも近くの沖にも、わんさと人がいる。それもそのはず、本日は海開きで祝日。その上に、こんなにもよい天気だ。人が集まるのは道理と言えた。
 水着客が多くいる中、ニオと真白の服装は普通であって異質だった。確かに、この2人は海へ入ることを目的としているわけではないので、2人の中ではこの服装が正しいのだが。ただ単純に、このビーチでは浮いていた。
「アンクル丈じゃ、あんまり深くには行けないね」
 真白が、追いついたニオの足元を見た。ニオの肌に近い色をした、くすんだベージュのアンクルジーンズに、黒のスポーツサンダル。
「まあ、まくれば問題ないか。暑いし、足元だけでも涼もう」
 うん、とひとりで完結した真白は、ぱっぱと厚底サンダルを脱いで片手にまとめてしまう。バシャリと遠慮なく海水に足を浸した。
「今日、タオル持ってきてないですよ」
 言いながら、ニオがズボンの裾をまくった。
「足だけならすぐ乾くでしょ」真白がニッと歯を見せる。
 ニオも同じようにサンダルを脱ぐと、海水に足を入れる。
「うわ、つめた」
 呻くように呟いたニオに、真白が屈託無く笑った。
「あっはは! 夏だな〜」
 そのまま波打ち際をなぞるように、2人して歩く。時々、フと転がってきたビーチバレーのボールを団体に返したり、きゃあきゃあ駆け回る子どもたちを避けたりしながら、端まで、ゆっくりと。
 着いた先で、ちょうど影になっていた岩に腰を下ろす。足が海水に浸からないようにと真白が少しだけ膝を縮めると、それに習うようにニオも海から足を上げた。
「はー……。休日だねえ……」
 真白がしみじみとこぼせば、ニオもそうですね、とのっそり頷いた。
 学園は学期末。真白はテスト作成とその丸付けに追われていたし、用務員であるニオは学内の草取りと見回りに忙しかった。特に見回りを怠ると、生ける七不思議や肝試しを目論む輩の動きが活発になるのだ。それらの仕事が終わると、真白は成績をつけるのに忙殺され、ニオは夏休み中の校舎利用に伴った用務員内の仕事スケジュールの調整に四苦八苦。もっとも、悩まされたのは多くの雑務であるが――そんなこんなで。土日までもを容赦無く食い荒らした仕事から、やっとこさ開放された2人は、つかの間のバカンスで海に来ているのだった。
 2人揃って日陰でぼーっとしていると、学園でのドタバタとした喧騒が遠のくようで、心が落ち着く。疲れを抜くように鼻から息を吐くと、ぐきゅう、となにか動物の鳴き声のようなものが鳴った。
「……」
「……」
 ニオの目の下に、控えめなシワが一筋。察した真白が、パッと口を手で覆う。
「ふっ……」
 口元を押さえてもこらえ切れなかったらしい笑いが、グローブに包まれた指の隙間からすり抜けるように漏れた。
「あはは。なんか食べようか」
 恋人の言に、ニオは恥ずかしそうに後頭部をかくと、トスンと柔らかく浜に降りる。
「僕が買ってきましょう。真白さんは何がいいですか」
「おっ。奢ってくれる?」
「……もちろん」
「間があったな」にやり、と意地の悪い笑み。
「からかわないでくださいよ」
 どこかきまりが悪くなって、ニオは真白から目をそらした。その視線の先で海の家や、道路に連立する屋台がもくもくと水蒸気を上げている。真白も同じ方へ目を向けるとパッと挙手をして、ニオを振り返った。
「俺は焼きそばが食いたいです!」
「仰せのままに」
 ふざけて慇懃に一礼をしたニオに、真白もまた尊大な風に頷いた。
「うむ。期待しているぞ」
 返事の代わりにちらりと片手を上げて、ニオは任務を遂行するべく足を踏み出す。サクリと砂浜が乾いた音を立てた。……さて、焼きそばを買ったら、次はどうしようか。確かにお腹は空いているが、がっつり食べる気分でもなし、少なく買っても、あとでお腹が空きそうだ。
(さて、どうしますかね……)
 土手に上がると、夏祭りのごとく所狭しと屋台が並んでいた。押し合い()し合い、どこかおしくらまんじゅうにも見える。お目当ての焼きそばの屋台に、たこ焼き、お好み焼き、大判焼き――わたあめ、クレープ、ベビーカステラ――射的、くじ引き、果ては型抜きの屋台まで。街の祭りでも、こんなに多くの屋台は見たことがない。若干、熱気に押されながら、ニオは足を運んだ。
 自分の腹と相談しながら土手の上をうろうろしていると、ホルターネックビキニとバンドゥビキニの人型二人組が行く手を阻む。何か音が鳴っているが、まあ気にすることもないだろうとニオは脇をすり抜けた。結局、真白のための焼きそばと、自分のためのたこ焼き、シェアができるベビーカステラを購入すると、足早に復路を行く。だいぶ待たせてしまっている。

 そのころ真白は、また海水にパタパタと足を浸からせて空白の時間を持て余していた。かなり暇だ。はあーっと、力を抜くようにため息をひとつ。あいつが帰って来たら、労いの言葉にちょっとばかし文句をくっつけてやろう、と決める。
 太陽が眩しくて目を細めているせいか、世界の彩度が低く見える。視界の端に映る波打ち際でゆらゆら上下するビーチボールも、どこかくすんで見えた。
「……ビーチボール?」
 ――なぜ、こんなところに。
 岩からバッと跳ね降りて、されるがままに漂うビーチボールの方へバシャバシャと駆ける。自然、滄溟(そうめい)に目を向けることになるわけだが、やはり眩しくて眉をぎゅっとしかめてしまう。
 ボールを海から救出すると、海水の他にパラパラとわずかな砂が落ちた。
「ビーチバレーで誰か飛ばしすぎたんかな」
 ボールを持った両手を前に突き出し、ブンブンと上下に振って水をきる。
「スンマセーン!」
 軽薄な若い男の声が後方から飛んできた。真白は瞬間にして、なるほどな、と。一度ボールを返してやった、どこぞの大学の男所帯のサークルみたいな団体。
「そのビーチボール、ウチのなんす。飛んでっちゃって……あざっした」
 へこへこっと簡単な会釈を数回して、男は真白からボールを受け取った。
「そ。次は気をつけてね」
「あ、はい。……お姉さんは、おひとりっすか」
 真白が、さらにスッと目を細めた。
「ふたり」
「お連れさんが? 一緒にビーチバレー、どすか」
「遠慮しとく。連れ、気難しいひとで。こういうの好きじゃないんだ」
「ええ? じゃあ、お姉さんだけでも」
「悪いけど――恋人を待たせてんの。もういい?」ため息。
 明らかに面倒ですという空気を作りながら、冷ややかに男を睨め付ける。真白があまりに強く睨んだせいか、ビビった男が右足を後ろに下げた。彼は学園生ではない。
 男は、そんな目で見られたことが過去無かったのだろう。言い知れない薄寒さに支配されながら、しどろもどろに言葉をつむぐ。
「いや、あーっと。……オレら男所帯でさ、なんつーか、華がほしいっつーか! だ、誰か引っ掛けないと、オレ手ぶらじゃあ帰れないんすよっ」
 両手を大げさに振りながら、男が熱弁した。正直なところ、それは真白にとって知ったことではない。しかし、そのように弁論したからといって、この状況から逃れられる確率は低い上、この手の輩は自分に不利な話を聞き入れないことが多い。
 最悪、実力行使だろうかと真白が右手を握りしめると。――
「お待たせしました」
 真白にだけ向けられた柔らかいタオル地のような優しい声音が、真白の背を支えた。握りしめていた右手に、声の主であるニオの左手がいつの間にか滑り込んでいる。
 音も無く、ともすれば気配さえ無く現れたニオに、真白も男もぱちりぱちりと目を丸くした。ニオがいつ戻って来たのかを正確に断じれる者は、ここには存在しない。
「焼きそば、冷める前に食べましょう。ああ、あと、ベビーカステラも買ってみました」
 真白にまた笑んで、ニオは上目に男を眺めた。
 それは、空洞である。にこにことした三日月型の目の隙間から、混沌を煮詰めたような黒目がちな瞳がのぞく。例えるなら(うろ)だ。男は一気に息がしづらくなる。ヒュッと情けない音を立てて、喉の奥が狭まる。危険を知らせる脳内のパトライトが、ギュンギュンとひどい勢いで回転する。冷や汗、緊張、震え。
 ニオは、なんでもないように男から視線を外す。男は脱力した。頭が真っ白になり、思考すらままならない。男がぼんやり突っ立ったままでいると、すでにそれから興味を失ったらしいニオは、真白をエスコートするように握った手を引いた。
「なぜこちらに? あの岩場なら日陰だったでしょう」
 元の岩場に戻りながらニオがたずねると、真白は少し考えてから、息を抜くように「あはは」と苦く笑う。
「あー、ボールを返してあげようと思って」
「律儀なひとだ」
 くすり、とニオも苦笑すると、真白に焼きそばを手渡した。
「冷めているかもしれませんが」
「いいよ、ありがとう。助かった」
 岩場に着くと、焼きそば片手に真白がひょいひょい軽く登っていく。続くニオに、焼きそばを置いた真白が手を貸した。
「ありがとうございます」
 存外強い力に引き上げられて、複雑そうな、しかし嬉しそうな。そんな顔で、ニオがヘラリと笑う。「ん」、と真白が返事の代わりに笑んだ。
 二人並んで、高い値段設定がされている屋台の安い味に舌鼓を打つ。これを屋内で食べたら、もっとチープな味になるだろう。こういうのは雰囲気だ。
 昼食を終え、ほっと一息着いたころ。真白がニオの肩へ腕を回して寄りかかりながら、にやーりと頬を緩めた。
「……嫉妬でもした?」
 ニオは少しだけ首を傾げ、不思議そうにして――ああ、と。得心がいったようにフと首を持ち上げてから、照れたように口元を隠した。
「すこし」
「愛い!」
 真白が反射的にガシガシと頭を撫でるが、ニオはむくれた顔をしながらも跳ね除けるようなことはしない。
(負の感情でもいいから、周りに関心を持ってくれればなー)
 そのまま真白が髪の毛をとくように、ふわりふわりとやわく触れるようになると、ニオの顔は気恥ずかしさ一色となる。
「すいません。恥ずかしいんで、ちょっと……」
 手の甲で控えめにのけると、案外あっさりと引いていく。ちょっぴりのも寂しい顔をしたニオに、真白が噴き出した。
「正直者」
 真白がクツクツと肩を揺らしながら、ごろんと何気なく後ろに寝転ぼうとして――岩場ということを失念していた――バランスを崩したその瞬間、図ったようにニオの手が真白を支える。
「っ……危ないですよ」
 それが、あまりにも自然なものだから。
「……俺のことは、よく見てるんだよなあ」
「?」
 ありがと、と上体を起こした真白は、ニオの手から自然にゴミをさらってまとめてしまうと、登った時と同じようにひょん、と身軽に岩から降りてゆく。
「これ、捨ててくるわ。ゴミ箱どこだっけ」
 ゴミを持ち上げてみせた真白の言に、ニオは口を開きかけてから思い直したように岩を降りた。
「口で説明するのが難しいので、一緒に行きましょう。案内します」
「そう?」
 じゃあよろしく、と真白が右手を差し出せば、了解しました、とニオの左手が迷いなくその手を取る。ダンスでリードするように、ツとちょっぴりだけ持ち上げてから上品に身へ寄せた。
「こちらに」
 優しい手つきに、真白は思わずにやけてしまう。
「調子乗ってない?」
 さらさらとした黒髪を振り向きの反動で跳ねさせたニオもまた、にへらとゆるゆるに破顔していた。
「だいぶ」
 二人で出かけている、という事実がそうさせるのだろう。先ほどの嫉妬云々は、ニオの中で既に過去となっている。



「帰ろうか」
 ――はらりと落ちる椿に似ていた。
 振り向いた真白の向こう側で、太陽が海へ溶けてゆく。人もまばらになっており、海岸に残るのはニオと真白の二人と、翌日を気にしなくていい学生が何人かだ。
 ともすれば光背にも見えるそれに、ニオが眩しげに目を細める。
「そうですね」
 漠然と、自分は真白の死に目に会えないだろうなと、思った。
 あるべき姿に戻ったように、二人は手を絡めて寄り添う。橙の濃い夕日に照らされながら、来た時とは逆方向へ海岸線をなぞって行く。視界に人はいない。
 明日休んで次の日にはもう、真白は学校での部活指導と、二学期の授業の準備とで忙しくなる。ニオは学内整備と、細やかな改装とで忙しくなる。そうなると、『恋人』というランクづけの上に『学園の教師と用務員』というランクができてしまう。
 お互い、相手の存在を確かめるように手を握り合った。少し痛いが、これも愛かなと窃笑。
「どこか寄ってから帰りますか」
「どうしよーね」
 ぷらぷらゆらゆらとつながりを揺らしながら、ゆっくりゆっくりと足跡を残していく。海岸線から浜辺、土手の上へ。屋台もさっぱり無くなり、昼間の盛況がウソのようだ。
「ご飯食べて帰ろうかー。肉が食いたい」
「肉ですか」
 ぎゅっと引っ張れば、分かっていたかのように隣へ並ぶ。
「牛、豚、鳥」
「鳥で」
「見繕いましょう」
 ここからバス停へ。バス停から駅へ。水流のように過ぎて行く時間を持て余しながら、ニオは思考する。先のおぼろげな不安を払拭したい。ほぼ予感と言って差し支えない、死に別れのビジョン。それを迎える前に、墓場へ連れていけないものか。共に墓へ入れないものか。
(……ひとつだけ)
 合法的に墓に入るには。
「真白さん」

 ――結婚しませんか。


2017/11/05
ニオくんと真白さんをお貸しくださったガクちゃんに、この場を借りて感謝を。

推敲してない(白目)

おまけ


▼CLOSE
動作確認:Windows7(Chrome)