クリスチャンイエロー
※暴力表現有り

 開業外科医の銅斉二郎が帰宅したとき、裏口のドアノブは見るも無残な姿になっていた。
(……ああ)
 来ている、または来ていた。
 さあどちらだ。迷っていると、目の前の扉がガァン! とけたたましい音を立てて外壁にバウンドした。ゾワッ、と反射的に鳥肌が立つ。
 ――来ている。
「おかえりぃ」
 優しい声だ。ずうっと昔から変わらない、蛇のような、ぬらりとした生ぬるい声だ。変温動物のように、機嫌一つでころころと温度の変わる、兄の声だ。
「今日は早かったじゃん」
 自分と同じ深緋色をした髪の毛の隙間から、これまた自分と同じ柿茶色の虹彩をした瞳が、ぎょろりとこちらを向く。
「来てたんですね」浅くなる呼吸に気づかないよう、斉二郎は言葉を絞り出す。「……兄さん」
 今はなにをしているのかさえ分からない、斉二郎の兄――銅丹一郎が、当然のように診療所の裏口で立っていた。このぶんでは、すでに屋内はメチャクチャだろう。
「今日は機嫌がいいからさ」
 にこ、と柔らかく微笑んだ丹一郎に気を取られた瞬間。斉二郎の身体がガグンッと“く”の字に折り曲がった。
「かッ……!」
 は、と胃から肺から息が一気に抜けて、詰まる。瞬間に意識が飛んで、はたと腹部を見下ろした。みぞおちに、丹一郎の爪先が深々と埋まっている。
 たたらを踏んで、体勢を立て直す。斉二郎の喉から息が押し出されて、はひゅ、とおかしな音が出る。視線を持ち上げると、眼前に丹一郎の手のひらが迫っていた。
「あはは。ご近所さんに迷惑だし、静かにしようね」
 無造作に前髪を掴まれ、額に突っ張るような痛みが走る。
 雑に屋内へ放られる。よろけた拍子に玄関内の手すりへ掴まると、細かいガラスの破片がチクチクと手のひらに刺さった。注射器か、薬瓶か。
 ――無駄なことを。
 斉二郎が丹一郎を上目に見ると、彼は瞳を眇めて口の端をぐにゃりと持ち上げた。
「は?」
 歪んだ口から、ひやりとした声が出る。
「なあに、その目」
 口調も顔も笑っているのに、笑っていると微塵も思えない。どつどつと鈍痛のする腹を抱えながら、斉二郎は室内へと後退する。右脛の手前を、丹一郎の爪先が掠めた。ガゴン。外れた蹴りは、玄関横のシューズボックスをへこませる。
「はーあ。ははは」
 笑いながら丹一郎は後ろ手で、ぐらぐらと外れかけている玄関ドアを閉めた。
 屋内の状況を観察しながら、さらに後ろへと下がる。これからどうするか、と斉二郎は思考を巡らせた。いつも通り耐えるか、それとも。
「なに考えてるの?」
「ぐっ、あ」
 太ももの外側へ蹴りが入る。急激な痛みにかくんと膝が折れ、後ろ向きにふらつく。どん、と壁に背が当たって、ハと息が漏れた。視界の端が、ぼかしでも入ったかのように揺らぐ。意識を保っているのが不思議なくらい、思考がざらついていた。
 ぜい、と喉の奥から掠れた息が押し出される。ひゅう、と細い息が肺に転がり込む。斉二郎が、口を開く。
何歳(いつ)まで、こんなこと(・・・・・)を続けるんですか」
 空気の凍る音。
「…………あ?」
 条件反射的に背へ走る悪寒を意識の外へ追いやりながら、斉二郎は後ろ手で尻ポケットに入れていたスマホをとりだした。――誰か。そう、誰かを呼び出すべきだ。騒動を聞きつけて、ここに一般の人が来てしまってはいけない。
(三箇か簗場……!)
 事情を知っている友人二人の片方、簗場の連絡先は一番下。手探りでもなんとかなる範囲だ。簗場なら、会話か音だけでも聴かせれば、意図を理解してくれるだろう。あれで三箇は肉体派で、助けを呼ぶより先に斉二郎の加勢に来てしまう。
 親指でスクロールしているが、確実にそこをタップできるかはおおよそ八割くらいの確率。斉二郎はごくりと唾を飲んだ。
 丹一郎の口角がきゅるりと吊り上がる。瞳が、抜身の刃のようにすらりと細まる。
「おまえ、お兄ちゃんに口答えするわけ」
「口答えでは……ないです。ただ、」
「うるさいなあ」
 下から爪先で鳩尾を突き上げられ、強烈な吐き気と鋭い痛みが走った。画面には触れたはずだが、簗場に繋がったかどうかはわからない。カシャンとスマホが落ちると同時、自身の視界もチカチカと急激な明滅を繰り返し、腰と地面が吸い付くようにドタンと身体が――意識が、落ちた。

 プルルルル、という微かなコール音が、静寂の中で存在を主張していた。
「は? なに、電話しようとしてたの? ウケる」
 丹一郎はスマホを一瞥してから、斉二郎を見た。深緋の髪が散らばっている。
 風景画の一部のように、そこに在る。
「なに寝てるの?」
 カツンと爪先で額をつつくが、反応がない。丹一郎の背骨がゾッと寒気を走らせる。ねえ、と子が親に甘えるときのような声が出たことに、彼は気づいただろうか。
 慌てて息を確認して、かろうじて吸うと吐くを繰り返す斉二郎を見て、それから丹一郎は転がったスマホをなんとかするべく手に取った。斉二郎が息をしているなら、まだ息をしているなら、僕は――。
 スマホで誰ぞに連絡でも取ろうとしたのだろう。いまだ鳴るコール音を止めるべく、ブラックアウトした画面に触れた。
「……バカみたいな足掻きするじゃん」
 その瞬間、通話が繋がる。
「はい、萱森です」
 身体の芯から冷え込んだ。
 裸足で氷の上へ立たされたかのように、ぞおっと身が縮み上がる。スマホに表示された名前を、機械的に読み上げた。
「誠……叔父さん」
 カッと喉の奥が熱くなって、口内がカラカラになる。手のひら、足の裏から発汗して気持ち悪い。胸を突き破らん勢いで心臓ががなる。
「あれ?」
 ――斉二郎くんじゃないね。
 ヒュッ、と熱くなっていた喉の奥が急激に冷えた。恐ろしい。丹一郎は怯える。
 斉二郎じゃない『誰か』としてしか見られていない(・・・・・・・ ・・ ・・・・・・・・・・・・)
 電話の向こうにいるのは、萱森誠だ。斉二郎と丹一郎の叔父だ。叔父の、はずだ。大学生になる頃には、あの優しさを恐ろしく思って離れてしまった丹一郎だが、萱森誠は確実に、二人の叔父であるはずなのだ。
「お、叔父さん」
「……ええと……?」
 本気で困惑したような声がして、丹一郎は気が遠くなる。〈銅丹一郎は、銅斉二郎の兄である〉ということを証明してくれる人が減る。恐ろしい。怖い。こわい。
 こういうときは、どうしていたんだっけ。丹一郎はスマホを握りしめる。雑音が向こうへ伝わったのか、萱森の不思議そうな「もしもし?」が聞こえた。丹一郎を知っているはずの人物が、まるで初対面かのような声で語りかけてくる。
 そうだ、と彼は思う。まずは身分を明かさないといけない。
「僕、丹一郎です、銅の」
「え?」
 丹一郎はスマホを叩き割った。
 画面にはヒビしか映っていないそれは、角が取れて基盤がのぞいていた。丹一郎は心臓のあるあたりを掻き毟って、それから逆の手で髪の毛をぐしゃりと掴んで、引っ張って、痛みを知覚して、かろうじて自身の存在を認められた。割れたのはスマホの画面だけではなかった。
 それから丹一郎は、今も床を転がる斉二郎の胸ぐらを掴み上げて、酷く憎らしい何かを見るように睨めつけてから放り落とした。動いていないと落ち着かないのか、ガラスの破片が散らばる床をドスドスと踏み荒らしながら診療所内を歩き回る。
 浅い呼吸を繰り返して、その辺のテーブルへ拳を叩きつけた。
「ふざけないでくれる……!」
 うう、と喉の奥が呻く。萱森のことを思考の外へ追いやろうとして、あえなく失敗した。丹一郎にとって彼は、劣等感の解決策を出してくれた唯一の人だったというのに。
 どつどつと心臓が忙しなく血液を回す。叔父の萱森誠は、銅丹一郎の存在をどうでもよく思っている。ゾッとするどころではない。生命を脅かすような恐れだ。どうしたら、どう生きれば――いや、斉二郎が生きているなら。
 丹一郎は横目で斉二郎を見下ろした。
 これがいるなら自分は、まだ、〈兄〉で居られる。
 そっと息を吐いて、それから今一度スマホを踏みつけてから、丹一郎は身体を抱えるようにして診療所を後にした。
「……また……来るね、斉二郎」

 目覚めると、兎雪が縋るように手を握りしめていた。斉二郎の目覚めにハッと気づいた彼女が、ぎゅうとより強く手を握りしめる。
「斉二郎さん、斉二郎さん、斉二郎さん……」
 苦しそうに呻くように名を呼び続ける兎雪へ、斉二郎は柔らかく微笑んだ。
「大丈夫、兎雪。大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない、大丈夫じゃないよ……」
 身体を起こそうと斉二郎が腹筋に力を入れると、どつっとした痛みが響いて、わずかに動きを止めた。が、それでも構わず上体を起こして、骨の状態を確かめる。
(たぶん……平気だ。ただ内臓のダメージがどうか……)
 内科には行っておいた方がいいかと考えて、それからようやく、ここが病院だと気がついた。さっきまで熱中症扱いで入院していた病院に、また逆戻りとは。
「ごめんなさい、待っていられなくて」
 叱られるのを待つ子供のように縮こまった兎雪の短い髪を、斉二郎は空いている手でそっとすいた。やおら肩へ引き寄せると、そっと囁くようにこぼす。
「僕こそ、帰りが遅くなってごめんね」
 額を擦り付けるようにして首を横に振る兎雪へまた微笑んでから、廊下を通りがかった看護師へ視線で合図をした。
「銅さん。目覚めたんですね、よかった!」
 看護師の声に兎雪がそっと頭を上げ、上体を起こして座り直す。書類片手にばたぱたと寄ってきた看護師が、兎雪へちらりと視線を向けて微笑んだ。
「経過観察で一日泊まってもらって、明日の朝イチでレントゲン撮りましょう。奥様にはお話ししてありますので」
 看護師の言に、斉二郎は一瞬瞳を丸くしたあと、ふっと細く息を吐きながら笑った。笑ってから、息苦しそうに瞳を細めた。
「ああ、ありがとうございます」
「一応、血圧だけ測って今日は安静にしましょう。準備してきますね」
 ぱたぱたと履物の音をさせながら病室を出て行った看護師の背を見送って、兎雪の頬へ手のひらを滑らせた。兎雪はぱちくりと瞬きをして、そうしてその手へすり寄った。両手でそうっと斉二郎の手首を包んで、目を伏せる。
「……ごめんね、兎雪」
「いいの、斉二郎さん。そばにいられるだけで」
「うん」
 眉を下げてもう一度、「うん」と。頷きか、同意か、それとも、ずっと出すことのできない言葉の代わりに出した音なのか。その曖昧な頷きの音は、準備を終えた看護師が現れるまで断続的に続いた。
 きっと簡単な検査と内臓チェックを終えて、またいつも通りの日常に戻るだろう。

 まあ、それも、しばらくは……の話である。


2019/11/10


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