物心ついた頃には、その『ひと』のことが好きだった。
「おっと。こーらお嬢、足にしがみつくと危ないぞー」
趣のある日本庭園に面した、木造の長い廊下。洗い立ての衣服が詰まった籠を抱えて歩くそのひとに駆け寄ると、少しだけ困ったような声が降ってくる。
そのやりとりに、先を歩いていた、体格の良い眼帯のひとが振り返った。光忠と呼ばれている、よく料理を作っているひとだ。
「お嬢は薬研くんのことが大好きだねぇ」
まるい声で告げられたその言葉に何度も頷きながら、
「あたしも、それ、する!」
白衣の裾を引っ張り懸命に意思を伝えると、彼はゆっくりと膝をおり、わたしと視線を合わせて微笑んだ。
「手伝ってくれるのか?」
再び、首を縦に振る。
「助かるぜ、お嬢。それじゃあ、転ばないように」
そう言って差し出された手を固く握りしめ、わたしは大好きなひとについて歩く。
踏石を伝って庭へ降りれば、やわらかな日差しが歓迎するように頬を撫でた。目を細め、肺いっぱいに空気を吸い込む。若葉のみずみずしい香りと混ざって、すがすがしい甘さが鼻孔をくすぐった。心地の良い香りに、すんすんと鼻をひくつかせていると、隣の彼がめざとく気づき、少し先の垣根を指さした。
「いい香りだろ。ちょうど卯ノ花が満開になってるんだ」
「うのはな」
「大将――、お嬢のおばあちゃんが好きなのさ」
「あたしもこれすき!おばあちゃんと、いっしょ!」
「はは、じゃあ俺っちとも一緒だな。……それじゃ、洗濯のお手伝いに来てくれたお嬢。これを持ってくれるか?」
いつのまに用意されていたのだろう、彼らが持っていた洗濯籠よりずっと小ぶりなそれが渡される。中には、ハンカチやグローブ等の細々したものが、少しだけ積まれていた。
籠を両腕に抱え、薬研の後ろをついていく。いつのまにか洗濯物のほとんどは竿にかかり、澄んだ青空の中をはためいていた。薬研と会話をしている間に、光忠が干してくれていたのだろう。
冷たいハンカチをひとつずつ取り出し、薬研に手渡していく。やがて空になった籠を自慢げに見せるわたしに、彼は「ありがとな、助かった」と笑った。あたたかな手が、わたしの頭を撫でる。
そのうち木々の緑は一段と濃くなり、やがて鮮やかな紅に移り変わる。そして、朝夕と冷え込む日々が続いた後、庭の樹木はすっかり葉を落とした。この季節になると、広間に炬燵が置かれる。わたしは必ず薬研の隣に滑り込み、彼にぎゅうとくっついては微睡んでいた。
「……ふふ、この子ったら、まぁた薬研にくっついて」
少しだけしゃがれた、けれど聞き取りやすい大らかな声は、おばあちゃんのものだったと思う。
「大将」
薬研が少しだけ、体の向きを変える。
「ありがとうね。母を亡くして寂しいとは分かっていても、私はこの子とたくさん遊べないから……」
「気にするな。俺っちも楽しんでるしな」
「そう?それなら、嬉しいけれど」
優しく頬に触れてくれたのは、おばあちゃんだったか、薬研だったのか。心地良い熱の主を確かめようとする間に、遠くから声が響いて。
「主さん!第二部隊、帰還しました!」
「ええ、今行くわ」
皆から『主』と慕われるそのひとは、力強い眼差しで部屋から立ち去っていく。
それから、卯ノ花が咲き誇る様子を、何度この目で見ただろう。いつの間にかわたしと薬研の身長差は十センチもなくなり、その頃には、彼らがふつうの『ひと』ではないことを理解していた。同時に、抱いた感情の向ける先が、きっとどこにもないことも。
「お、いたいた。お嬢、無花果食べないか?大将が友人から貰ったんだと。旬だから、きっとすごく美味いぜ」
去年の春頃から作った、趣味の小さな花壇を手入れしていると、聞き慣れた声に呼ばれて振り返る。縁側に薬研が立っており、こちらに手を振っていた。
「行く!」
大きな声で返事をして、縁側に駆け上がる。
「はは、すごい勢いだな。無花果は逃げやしないぞ?」
二人並んで足を進める。ぎし、ぎし、と木造りの廊下は微かに音を立てている。
不意に、薬研が立ち止まった。彼の視線の先に目を遣れば、そこには一本の柱がある。マジックペンや、刃物で傷をつけたような痕がたくさん並ぶそれは、年に数回、わたしの身長を刻んでいるものだ。
「最後に測ったのは、いつだったかな……」
問いかけ、というよりは、独り言のそれだった。それを分かりながら、わたしは柱の横に立って明るく告げる。
「三ヶ月前だよ。どう?また伸びてない?」
「ああ、本当だな」
じっとこちらを見つめた彼が、一歩、その距離を詰めてくる。そうして、するりと己の短刀を鞘から抜き取ると、「お嬢、そのままで」ぐいと体を寄せ、柱を軽く削った。
わたしの目線は丁度、彼の鎖骨あたりになる。ふ、とスモーキーな香りが漂った。心臓が大きく跳ねる。薬研の香りだ。微かに色気を感じるような、大人の男のひとの、香り。
「よし、描けたぜ。……お嬢?」
氷像のようにカチコチに固まったわたしを、彼は不思議そうに覗き込む。
「どうした、具合でも悪くなったか?」
「ちがう……」
何とか否定の言葉を発したわたしに、彼は「ならいいが」とだけ口にした。
よろよろと柱から離れ、改めて自身の背丈を確認する。先の言葉通り、この三ヶ月で二センチ程伸びていた。これには自分も驚きだ。自慢してやろうと振り返るより早く、薬研の声が届いた。
「……俺っちが測ってやれるのも、もう終わるな」
彼が、どんな表情で言葉を紡いだかは知らない。ただ、その声音には少しだけ、寂しさが混ざっているように思えた。
それから1年と経たずして、わたしは薬研の背丈を抜いた。それ以降、わたしから背を測ってほしいとせがむことはなくなった。柱の横に立つのは、光忠や長谷部に誘われた時だけ。
幼いわたしが頻繁に――それこそ毎日と言っても過言ではない頻度で――、背を測ってくれと頼み込んでいたのは、早く薬研に近づきたかったからだ。何も知らなかった小さな娘は、彼と同じくらいの背丈になれば、大人になれば、想いを伝えられると本気で思っていた。欠片も疑っていなかった。
けれど、彼の背丈にぐんぐん近づいて、まっさらな子どもではなくなったわたしは理解する。理解してしまう。彼と、己の違いを。神様と、人の違いを。
彼の背を抜いた後は、その目線の高さが外れていく度に、二人の違いを思い知らされた。早く成長が止まれと、どれだけ願ったことだろう。数年経ち、身長が誤差程度に縮んだ時。わたしは、心底安堵したのだった。
同年、晩夏。この本丸は、大きな転機に見舞われる。
わたしの祖母であり、この本丸の審神者であった彼女が、極端に体調を崩しはじめたのだ。そして程なくして、握力が低下し、食事の量が減り、歩行が困難になった。医師の診断結果をみるまでもなく、老衰であると理解した。人間誰しもに訪れる、避けられない|運命《さだめ》――、寿命が、近づいているのだと。
わたしの母は、幼い頃に亡くなっている。必然的に、わたしが次期審神者となるよう命じられた。
心身の健康状態の検査、霊力の測定、知能指数の確認。それらを大至急行い、問題無しとの回答を受けた、数日後。
「今までありがとう……、愛してる。これからもこの本丸を、お願いね」
すぐ傍に控えていた初期刀、その横で祖母の手を握るわたしに、生涯一の、しわくちゃな笑顔を向けて。祖母は、眠るように、息を引き取った。
嗚咽を漏らし、肩を震わすわたしの背中を、初期刀がそっと撫でた。彼の手も、悲しみを殺すように震えていた。
祖母の同期や友人なのだろう、年配の審神者が多く訪れてくれた彼女の葬儀は滞りなく終わり、その翌日には、政府の役人立会のもと、わたしの審神者就任の儀式が行われた。
大広間の上段に正座をし、背筋を伸ばしてその時を待つ。これから、刀の神様たちは、初期刀・もしくは前の主に最も重宝されていたものを筆頭に、顕現した順で中段以降に並んでいく。最前列の刀が新たな審神者に一言二言述べた後、全員が深い礼――最敬礼をとる、というのが通例だ。
わたしの両脇には、顔を黒子で覆った政府の役人が二人と、彼らに付き従う刀剣男士が二名。その内の一組が、
「審神者殿。刀剣男士を呼んで参ります」
淡々とした口調で告げ、広間から退出した。
「は、い」
頷きながら、依然として斜め後ろに控えている役人を盗み見る。
万が一の事態――例えば、突如遡行軍が現れるとか、刀剣男士が神隠しをしてしまうとか――に備え、就任式の間中、彼らが離れることはない。安全、と言えばそうだろう。けれど、妙な居心地の悪さを感じてしまう。失礼な言い方ではあるが、もう少し愛想の良い人はいなかったのだろうか。
どの位時間が経ったか、廊下側から大勢の足音が聞こえ始めた。ゆっくりと息を吐き、改めて背筋を伸ばす。
襖が開き、祖母が顕現した全ての刀剣男士が、広間へと足を踏み入れる。その先頭を歩く人物に、わたしは大きく目を見開いた。
「なん……っ」
少し離れた位置で様子を見張っていた役人が、咎めるようにわたしを睨む。慌てて口を閉ざすが、動揺は隠しきれなかった。
祖母が特に慕っていたのは、初期刀であった。だから、先頭にくるのは初期刀以外、あり得ないはずなのだ。それなのに、なぜ。
わたしの目の前に腰を下ろした彼に続き、全振りが座していく。最後のひとりが膝をついたところで、先頭の彼は一礼の後、口を開いた。
「この本丸を引き継いでくださることに感謝し、新たな審神者を、心より歓迎いたします」
そうして、深く深くお辞儀をする。彼に合わせて、全員が同様の最敬礼をとった。
たっぷりの間の後、彼らは揃って頭を持ち上げる。
先頭の神様が、芯の通った声で告げる。
「改めてよろしく頼む。――大将」
藤色の瞳は揺らぎなく、わたしを見据えていた。
その日以降、薬研はわたしのことを『大将』と呼ぶようになった。他の刀たち――特に、薬研の次に深く関わっていた光忠などは未だに『お嬢』と口にすることもある。けれど薬研だけは頑なに、ただの一度も、『お嬢』と呼びはしなかった。
「大将、朝飯の時間だぜ」
「鍛刀が終わったぞ、大将」
彼から『大将』と呼ばれる度、わたしの背筋はぴんと伸びた。けれどそれと同時に、妙に痛ましい、切り傷が冷たい風に触れるような感傷が胸に広がるのだった。
だって、わたしは知らない。なぜ彼が、突然呼び名を変えたのか。頑なに昔のように接してくれないのか。
とんだ我儘娘だと、自分でも思う。神様と人間、彼とわたしの違いをはっきり理解してから、ぎこちない態度を取ったことが幾度もあった。それでも薬研は変わらず接してくれたのに、彼から態度を変えられた途端に、その理由が分からず不安と不満を感じているのだから。
それでもひとつだけ、分かっていることがある。
わたしは審神者であり、主。この本丸を導くもの。彼は刀剣男士。歴史を守るため、わたしの命を受け力をふるうもの。もはや立場は違う。それ故、彼に甘えることはできないと――。
「……がんばらなきゃ」
文机の前。唇を一文字に結び、書類に目を通しながら筆をとる。
わたしは、祖母の代わりになっているだろうか。彼らに呆れられない程度に、役目を果たせているのだろうか。引き継ぎの際は、皆わたしを認める姿勢をみせたが、内心反対していた者たちもいたのではないか。どろどろとした黒いものが、体に纏わりつくような感覚。その中で懸命に、筆を動かしていく。
やがて気がついた時には、格子の向こうから夕陽が差し込んでいた。唐突に疲労感が体を襲い、瞼が重くなる。
(少しだけ……)
そんな言い訳をして、畳の上に寝転んだ。程なくして、ふわふわと、雲の中を彷徨っているような感覚に陥る。完全に眠れているわけでもなければ、起きているわけでもない、そんな状態。
ふと、襖が開く音が聞こえた。続いて静かな足音が届き、人影が差す。けれど体は動かないし、声も出ない。
(誰?なに?)
頭の中だけで問いかけていると、その人物はわたしの髪を一房すくい、そっと口づけた。
「――」
何か言おうとしたのだろう、小さな吐息が溢れ、空気が震える。
「……君も、頑なだね」
廊下側から、低く落ち着いた声がした。
傍にいた人物が立ち上がるのを感じる。
「……あんたは、すごいな」
『頑な』と称されたそのひとは、脈絡なく言った。その意味を、相手は汲み取ったらしい。肩をすくめ、「呼び方ひとつで変わらないさ」と告げる。その返答に、『頑な』な彼は溜息を吐く。
「それがすごいと言っているんだ。俺っちにはできない」
「お嬢のことは、審神者だと思えない?」
「思えないな」
「即答だね」
「実力不足だとか、そういう不満があって認めたくない訳じゃないぜ」
「知ってるよ」
微かに畳が軋む音がする。もうひとりもこの部屋へ踏み入ったらしい。
「その呼び方をすると……、今でも、守ってしまいそうになるんだ」
「守りたいと思うことは、悪い感情ではないはずだけど」
「……言葉が悪かったかもしれないな。そんな、綺麗なものじゃないんだ。知ってるだろ?」
嘲笑。己を責めるかのような、小さな笑い。
再び、彼が腰を下ろす。細くて、それでいて無骨な男の指が、手持ち無沙汰にわたしの髪を弄んでいる。
「戦わなくていいと、言ってしまいそうなんだ。政府の役人などとも関わらなくていい。何も知らないまま、ここで――いや、いっそのことここから逃げ出して。昔みたいに平和に暮らせられたらと。だからあの日、俺っちは、本気で――」
「薬研くん」
呼びかけられ、何かを責めるような悲痛な声は、ぴたりと止まった。
「……すまん。取り乱した」
「……彼に、怒っているかい?」
問いかけられたそのひとは、一瞬息を呑んだ。そして僅かに瞼を伏せ、何かを思案していたが。
「いや。寧ろ、感謝している」
緊張のない、柔らかな声音だった。その言葉が偽りなく、彼の本心であることが読み取れる。
「あの挨拶は、本来ならば初期刀がやるべきものだ。厳正な儀式において、あんなことは異例中の異例だろう。彼女も大層驚いていた」
「そうだったね」
引き継ぎの日の、驚きの余り開いた口が塞がらなくなってしまった審神者の間抜け面でも思い出したのか。同調した神さまは、微かに笑っている。
「あいつは、大将――以前の主の最後の言葉を、それから、この本丸そのものを裏切ろうとした俺っちに、救いと罰を与えてくれた。だからこれは、自分への戒めでもあるんだ」
「戒め、か」
「ああ。俺っちはこの子を『大将』と呼ぶ限り、この子を審神者としてみていられる。同時にあの日のことを思い出して、あんな愚行は二度と考えてはいけないと思わされる」
それから二言三言交わした後、後から来た神様は部屋から立ち去った。家路を帰る烏の鳴き声が、遠くから聞こえた気がした。
すっかり夜の帳が下り、コオロギやスズムシ、キリギリスの合唱に辺りが包まれた頃、目が覚めた。
少し前に、この部屋で大切なひとたちが会話をしていた気がする。あれは夢だったろうか。
まだぼうっとする頭で考えながら体を起こしたところで、肩から羽織がかけられていることに気がついた。白衣だ。軽めのピート香にお日様の香りが混じっている。
(じゃああれはきっと、夢じゃなくて)
腕に抱えた白衣を、きつく握りしめ、彼らの会話を思い出す。
逃げ出す、裏切る、愚行。救いと罰に、己への戒め。なんとなく。あの日彼が何を企てたのか、分かる気がした。きっと彼は、わたしを、この本丸から――。
瞼が、思考が、徐々に覚醒する。
徐々に覚醒した瞼は、文机の上に置かれた短冊のメモを捉えた。そこには流れるような文字で、
『声はかけたものの、あまりに気持ちよさそうなので起こさないことにした。起きたら食堂まで。誰かはいるようにしている』
慌てて立ち上がり、白衣を握りしめて廊下に出る。折角料理を作ってもらっているというのに、夕食の時間に間に合わないなんてなんてこと!
ばたばたばた!秋の虫が合唱すう中を、大股で走る。そして、廊下の門を曲がろうとした瞬間、
「!?」
「は!?」
思い切り、誰かにぶつかった。
「にゃっ」
妙な声と共に、思いきり尻もちをつく。視界の端で、相手もこけてしまったことが確認できた。
「痛……、じゃなくて、ごめ、誰っ」
「ふは、相変わらずお転婆だな」
「薬研!」
慌てて駆け寄り、その体に触れる。歩いていた彼に、猪並みの速度でわたしが衝突したのだ。怪我していてもおかしくない。
「どうしよう、どっか痛い?立てる?歩ける?」
「大丈夫だ。そんな心配されるほどヤワじゃないぜ」
言葉と共に、本当に平気そうな様子で薬研が立ち上がる。それでも、我慢して嘘をついているんじゃないかと怪しんでいると、息を吐いた彼が口元を緩めた。
「俺っちが大将に嘘をついたことがあったか?」
思案する。これといって、思いつきはしなかった。無言を肯定と捉えたらしい、彼はくつりと笑うと、
「よし。ならもう分かっただろ。夕餉に行こう、みんな待ってる」
その言葉に、目を見開いた。
「先食べてないの?」
「そういう話も出たんだが、結局みんな一緒に食べたいって言い出したんだ。まあ、まだそんなに時間は経ってないから気にするな」
「なんで?」
「なんでって……。みんな、大将のことが好きなのさ」
ぱちん、と。目の前で、星が弾けたかのような感覚に襲われた。頭の中の靄が、徐々に晴れていく。胸の中の黒いわだかまりが、解けていく。
「……叩き起こしてくれてよかったのに」
目頭が熱くなるのを感じ、泣き出さないように敢えて嫌味のような言葉を発した。薬研は、変わらず笑っている。
「ああ、そのつもりで行った同田貫たちが、無理だったって戻ってきてたな」
「え、なんで」
余程酷い顔をしていたのだろうか。それか、涎が大量に垂れていたとか!?
動揺のあまり口元を拭う仕草を取ると、わたしの考えを読み取ったであろう薬研が再び吹き出した。
「それだけ気持ちよさそうな顔だったんだ。あの同田貫たちが起こすのを躊躇うくらいに、な。涎はこぼれてない」
「う……」
「それで、次に起こしに行くやつを決めて、俺っちが任されたところだったんだ」
「そっか。ありがとう」
「ああ」
薬研と並び、皆が待ってくれている食堂へと向かう。その最中。
「おぉい!すごい音がしたみてぇだが大丈夫かぁ!?」
少し離れたところから、和泉守兼定が大声で問いかける。その背から姿を見せた堀川国広がこちらを確認すると、「あ!主さん起きたみたいですね。みんなに伝えてきます!」と小走りで去った。
「ちょっとぶつかって転んだだけだ。怪我もない」
「ならいいけどよ」
そうは言っているが、その表情は若干納得していない。「ちょっとぶつかった音ではなかった」とでも言いたげである。
「兼さんも、ご飯待ったてくれたの?」
「おー、当然だろ?あんたのいねぇ飯なんて、味気なくてやってらんねぇよ。他のやつらも同じだと思うぜ?とはいえ腹が減ったから、早く来いよ」
大袈裟に肩をすくめた彼だったが、ふと何かに気づいた素振りを見せた。
「……ん?主」
わたしを見下ろしていた彼が、目線を合わせるように屈む。そして瞬きなくこちらを見つめ、
「いい夢でも見たか?今朝と比べて、随分顔色がよくなったじゃねぇか」
「え、そう……?」
思い当たる節はある。
ひとつ、わたしを『大将』と呼ぶ、薬研の覚悟を知ったこと。それに応えようと思ったこと。
もうひとつ、彼らはわたしが思っているよりもずっと、わたしに対して好意をもってくれているらしいということ。彼らの眼差しを、行動を、言葉を、素直に信じて、もう少し肩の力を抜こうと思ったこと。
(でもこれは……直接言うことじゃない気がする)
そう結論づけて、わたしはにっこりと笑うだけにする。
「これからがんばろうって、そう思っただけ」
――わたしが審神者を辞めることになるのは、それから七年後の話である。
霊力の低下により、審神者を辞任してもらいたいと告げられたのは、卯の花の芽がぽつぽつと顔を出しつつある季節だった。
あくまでも要請であり、必ずしも承諾しなければならないわけではない。役人のひとりはそう付け足したが、その言葉の歯切れはとても悪く、辞任以外に道はないことが理解できた。
審神者を統括する役人のみが所属している小さな官邸を後にし、帰路につく。道中は今後の本丸運営について考えを巡らし、その冷静さに我ながら驚いたものだ。
歴史を感じる瓦屋根の門を潜ってすぐ、掃き掃除をしている薬研の姿を見つけた。
「ただいま、薬研」
「おう、おかえり、大将。……どうした?」
あまりにじっと見ていたのだろう、小首を傾げた薬研が尋ねてくる。
「……ちょっと、話がある」
その一言に、何かを読み取ったのか。真剣な瞳で頷いた彼は、「場所を変えよう」と、歩みを進めた。
野生のカモやサギが、水堀の水面を悠々と渡っている。大きく枝を広げた松の木の下でふたり、その様子を眺める。
薬研は何も言わなかった。急かすことも問い詰めることもせず、ただじっと、わたしの言葉を待ってくれている。
辺りには誰もいない。本丸内の縁側ではなく、普段なら足を踏み入れない場所を選んでくれたのは、きっと彼の気遣いだ。
水の流れる音や、風に揺れた木の葉が擦れる音。そして、隣にいる愛しいひとの微かな息遣いが、耳に心地よい。
「あのね」
声は、震えていなかったと思う。
木漏れ日が、彼の頬を撫でている。藤色の瞳が、光の具合できらりと宝石のように輝く。
「わたし、審神者を辞めなきゃいけないみたい」
告げた途端、一際強い風が吹く。互いに乱れた髪の間から、確かに目が合ったと思った。
「そう……、そうか」
たっぷりの間のあと。薬研が、ぽつりと返事をした。
「うん」
「理由を、聞いてもいいか」
「うん。霊力が、低下してるって。きっとそのうち、本丸をまわすのに必要な霊力が足りなくなる」
「ああ……」
何かを諦めたように、薬研が短く息を吐いた。
霊力の低下を理由にで審神者を辞任する者は、毎年一定数いる。割合は決して多いわけではないだろうが、非常に珍しい、とは言い難い数だ。霊力が低下する原因は未だ解明されていないものの、『霊力とは寿命のようなもので、人それぞれ終わる℃條が決まっている』という説は有力とされている。霊力が尽きる前に寿命が尽きる者もいれば、寿命が尽きるより先に霊力が尽きる者もいる。わたしの場合だと祖母は前者で、わたしは後者だったというわけだ。
木製の柵に手をかけた薬研が、視線を水堀の奥へ落としながら「辞めたくない、というわけではなさそうだな」と零した。
わたしは頷く。霊力がなくても審神者を続けたいなど、我儘を言うつもりはなかった。そんなことをしては、本丸の皆にも危害が及ぶ。
「悩んでいるのは……、大将がいなくなった本丸の処遇についてか」
正解だ。わたしは眉を寄せ、小さく笑った。
彼と同じように、水堀をぐるりと囲った柵に体を寄せる。鯉がぱしゃりと跳ね、不透明な水が揺れた。
どっちでもいいさ。だって、俺っちは忘れない。
「大将!」
ひとつだけ、嘘をついた。忘れないんじゃない。俺っちは、忘れられない。はじめて、この手を握ってくれた時から。きっと、すごく特別で、誰よりも愛おしい存在だった。だから……、だから、どうか、幸せになってくれ。お嬢」
お守りを握らせる。ライラック、初恋。
「薬研、ありがとう」
消えたゲートの向こうで、卯ノ花がひとつ、花を散らした。
・
新しい審神者は非常に温厚な男性だった。庭木の手入れが好きで、お嬢と親しまれた前の主の花壇も大切に引き継ぎ、本丸に馴染んだ。
「薬研のお守りは、手作りだね」
「お嬢がくれたのさ」
薬研は自慢げに、封をあける。
「ライラック?」
「ああ」
「いい花だ。特に、花言葉」
「……ああ」
薬研は小さく笑う。花言葉は、初恋。
陽に照らしながら、薬研は考える。
己の感情が、彼女と同じものだったかはわからない。
彼女の生きる未来に続く過去を、守ろうと思える。それだけでよかった。
「薬研藤四郎、出陣する」
本丸の卯ノ花は、もうじき満開を迎える。