瀬名泉と朔間凛月と『いもうと』の話


 コン、コン、コン。ノック三回の後スタジオの扉を開け、想定外の人物に目を丸くした。
「くまくん、どうしたの。今日やたら早いじゃん」
「ん〜?ふふ、聞きたい?」
 パイプ椅子に深く腰を掛け、スマホの画面を指でなぞる彼の機嫌は驚くほどに良い。付き合いが数年になれば、その理由は簡単に察することができた。無言で隣の椅子に腰掛けた俺に、彼はだらしなく頬を緩めて語り出す。
「今日はねぇ、『いもうと』を車で送ってあげてたの。同窓会に行く予定だったのに、バスの時間を間違えてたんだって。本当にうっかりがすぎるよねぇ……♪」
 はい、予想通り。
 俺ってば優しいお兄ちゃん〜、と上機嫌な声に息を吐く。
 高校を卒業して暫く、車の免許を取ったと聞いた時は何の冗談かと耳を疑ったが、それもこれも全部愛しの『いもうと』のためだったということを聞いて、ひとり納得したのを思い出す。彼女の前ではかっこつけになるところなんかは、れおくんと少し似ているかもしれない。
「なぁに、セッちゃん?言いたいことがあるならはっきり言えばぁ?」
「別にぃ?仲が良いのはいいことだねぇ、あの子ももう高校を卒業したし、いい加減縛るべきじゃないと思うけど」
「うわ、それをセッちゃんが言うの〜?」
「俺が『ああ』だったから、言ってるんだけどぉ?」
 そっかぁ、とくすくす笑うくまくんに、心の中で「笑い事じゃないだろう」と息を吐く。
 かわいそうな『いもうと』ちゃん、こいつのせいで暫くは彼氏なんてできないんだろう、いや、下手すれば一生できないんじゃないか。
 そんな俺の心を見透かしたように、くまくんは「大丈夫だよ」と深く笑った。
「俺よりも彼女を大切にしてくれる人にだったら、譲ってもいいかなぁって最近は思ってるから」
 そんな、良い兄らしい顔をされて告げられても。その条件が無理すぎるということに、こいつは分かっているのだろうか。
 本日何度目か分からない溜息を零したところでスタジオの扉が開く。続々とスタッフさん達が入室をするので、自然と身内話は終了した。



 ビルを出て一番に、その姿が目に入った。
 上品なレースがあしらわれた紺色のワンピースと丈の長いコートに身を包んだかわいらしい女性は、間違いなく自分の『いもうと』。
 ここまで無事に辿り着けたことと、変な男に絡まれていないことにほっとし、名前を呼びながら小走りで駆け寄った。その最中、通りすがりの男が彼女を盗み見るので、やっぱりここまで来させて正解だったと思った。本当なら当初の予定通り会場まで迎えに行くのが一番だったのだろうけれど。仕事が長引き、一旦車を取りに戻るため遅れると伝えると、「ひとりで帰れる」と言われてしまい、それを阻止するには自分の職場まで来てもらうという方法しか浮かばなかったのだ。
 だってひとりで帰るなんて、危険すぎる。帰宅途中に襲われるなんてことはもちろん、そもそもどこの馬の骨か分からない男が送迎を名目に着いてくる可能性だってあるのだ。
 こちらに気づいた彼女もまた、俺と同じように小走りに駆け寄る、が。――カツン。
「危なっ」
 履き慣れない高めのヒールが、小さな段差にひっかかる。そのまま前に倒れ込みそうになった彼女を、慌てて抱きとめた。
「セーフ……。駄目だよ、ちゃんと前見て歩かなきゃ。それとも、俺に会えたのがそんなに嬉しかっ――、あいたっ」
 まるで恋人に触れるようにその手を取り、腰に腕を回す。瞬間、頭を叩かれた。唇を尖らせ、俺は隣の人物を小さく睨む。
「セッちゃん、ヤキモチ妬かないで」
「……人目につきすぎ」
 ぼそり、と彼が注意した。
 とても仲の良い『いもうと』がいると世間にも公表しているんだし、問題はないはずだけれど。とはいえ、彼女が好奇の目で見られるのはなるべく避けたい事態だ。
「……分かったぁ」
 体から手を離せば、「ごめんね」と彼女が謝罪した。
「ふふ、ドジな『いもうと』をもつと苦労するねぇ」
 揶揄うような言葉には、「気にしないで」の意が込められている。彼女もその真意を理解しているのだろう、照れたように笑った。……かわいい。
「『いもうと』ちゃん、今日同窓会だったんだっけ?いい人いなかったのぉ?」
「ちょっとセッちゃん」
 彼女に癒されている最中だというのに、セッちゃんがそんな質問をするものだから俺はあからさまにムッとした。語気を強めて制止を促すも、彼はこちらを見てすらいない。……その手の話は俺が嫌がること、知っているくせに。
 けれど、不機嫌になったのもほんの一瞬。彼女が困ったように笑いながら首を振ったからだ。優越感を覚え、口元がにやける。
 ああ良かった、そうだよねぇ、俺と毎日一緒にいるんだもん。俺よりいい男なんて、そうそう見つかるはずないよねぇ。
「そっかぁ。束縛の激しい『おにいちゃん』に苦労させられてるんだねぇ」
「はぁ?苦労なんてしてないよねえ。大事にしてるだけだもん」
「ほら、そういうとこ……、え、何?俺とくまくんに彼女がいるかって……、どうしたの急に。ま、俺はいないよぉ?本当に。今は仕事でいっぱいいっぱい。『おにいちゃん』はどうなのかなぁ?」
「うわ、セッちゃんに『おにいちゃん』とか呼ばれたくない〜〜……。でもほんと、どうしたの急に。俺だっていないよ、知ってるでしょ?まあ、あんたに彼氏ができたら考えようとは……。え、彼氏をつくってもいいのかって?あれぇ?俺、駄目だって言ったっけ……?」
 幻滅した、と言わんばかりの目で見てくるセッちゃんは無視だ。
 頷く彼女の、少し赤くなった鼻に人差し指を当てて笑う。
「まあ、譲ってあげなくはないかなあ。俺よりも、あんたを大切にしてくれる人にだったらねぇ?」
 一瞬きょとんとした後、彼女はくすくすと笑い始める。それじゃあ私、一生彼氏ができないよ、なんて。うんうん、彼女の中では、自分を一番大切にしてくれているのは俺であるらしい。まあ、当然だよねえ。
 セッちゃんがついに、呆れたと長い息を吐いた。
「ま、いいけどねぇ。それで二人ともちゃんと幸せなんだったら」
 ……やっぱり。意外と優しいよね、セッちゃん。
 ほんと見てらんない、チョ〜うざぁい。お馴染みの口癖を残して、「じゃ、俺こっちだから」と彼は手を振る。
「あんまりベタベタしないようにねぇ、少なくとも人通りの多いところでは。……あと、『いもうと』ちゃん。もしその『おにいちゃん』に嫌気がさしたら、いつでも俺のところに来ていいからねぇ?」
「セッちゃんが俺よりこの子を大事に想う時は一生こないので、駄目で〜す」
「嫌がられてんだからあんたの意思は関係ないでしょ。まぁそうならないように、せいぜい気をつけるんだよぉ」
 それから暫く、彼の言いつけを守ってちゃんと普通に並んで帰った。同窓会で誰々ちゃんがすごく綺麗になっていた、誰々ちゃんにはもう子どもがいるらしい、誰々くんはどこそこに就職している……、そんな少しだけ弾んだ彼女の話が終わる頃には、街灯も人通りも少ない帰路に差し掛かっていて。
「……ねぇ。手ぇ繋いで帰ろっか」
 甘く強請るように告げ、手を差し出した。
 少しだけ周囲を確認した彼女は、程なくして俺の手をそっと握ってくれ、そっと呟いた。
 ――あったかい。
「え〜〜?あったかいのは、あんたの方じゃない?」
 そうかなあ、とはにかむ彼女に、心までもがじわりと熱をもつ。
 もういい年をした大人だというのに、こんな子どもじみた我儘に付き合ってくれる彼女がひどく愛おしい。俺よりも少し小さな手をぎゅうと握りしめて思う。きっとこれからも、この手は俺より大きくなることはない。
 守ってあげなきゃ、俺は『おにいちゃん』なんだから。ちゃんと、ずっと、大事にしよう、だから。
「しっかり握っててよ、勝手に離れちゃ嫌だからねぇ?」