緑川駿と2度目の結末


「――名前さん!」

 彼女の名を呼んで伸ばした手が届かなかったことを、未だに思い出す。|近界民《ネイバー》の慟哭。唸る空、震える大地。小さな子どもを抱き締めるように庇った彼女が、そのままくずおれる姿。トリオン体を保てず生身に戻った彼女が、こちらを見て困ったように微笑んだ、その細部まで。昨日のことのように、鮮明に思い出す。
 あの日以来繰り返し見る夢は、慣れ故か、以前ほど目覚めが悪くはならなかった。
 よ、と腹筋に力を込めてベッドから起き上がり、リビングへ向かう。

「あら、今日も早いのね。なんの気まぐれかと思ったけれど、ちゃんと続けられてるじゃない」

 ベーコンの焼ける良い匂いを漂わせながら、キッチンから母さんが言った。

「だから言ったじゃん、今度は本気だって」
「そうね。……はい、丁度できた」
「ありがと!いただきます」

 食パンに目玉焼き、カリカリのベーコンとサラダ、牛乳。健康的な朝ご飯を胃に送る。歯磨きをして、制服に着替えて、寝癖がないか、少しだけ髪を意識して。

「じゃ、いってきま〜す」
「いってらっしゃい」

 以前よりも30分程早い時間で、オレは家を出る。
 向かう先は、彼女の家。5分程経ち現れた彼女は、「おはよ!」と笑顔を向けるオレを見るや否や、呆れたように溜息をついた。

「また来たの?緑川くん」
「駿でいいのに。ね、今日も一緒に学校行こ」
「方向一緒じゃないでしょ」
「いーの、そのためにオレ早く家出てるんだから」

 ふう、と息を吐く彼女は、オレを押し返すようなことはしない。ので、オレは彼女の横に並んで歩き出す。玄関の奥から伺うようにこちらを除いた両親に、小さく会釈をしてから。

「ほんと、変わってるよね。急に現れたと思ったら、こんなオバサンと友だちになりたいなんて」
「おばさんって。まだ大学生じゃん」
「来年からは社会人になるの。高1からしたらオバサンでしょ」
「……オレはそんなこと思ってないよ」

 1ヶ月前――出会った頃に比べれば、随分と距離が縮んだと思う。それでも、あの頃のようにオレの名前を呼んでくれることはないし、オレも、あの頃のように甘えることはできない。
「いい天気だねえ」
 こちらの気も知らず、のんびりと彼女が呟く。



 彼女は迅さんと並ぶ程の実力派で、S級の隊員だった。あの日も、黒トリガーで応戦していて、だからこそ|緊急脱出《ベイルアウト》が使えなかったのだ。
 生身で攻撃を受けた彼女は、全身傷と打身だらけ、更に右腕と助骨を折った。ただ、それ以上に酷かったのは頭部からの出血だ。
 なかなか目覚めない彼女について説明した医者の難しい言葉を簡潔にまとめれると、「生きているだけマシ」な状態だったらしい。
 それから数日して彼女は目を覚ましたが、今度は、ボーダーに関連する記憶を全て失ってしまっていた。
 ボーダーの上層部は医者と家族と話し合い、結果として、彼女へボーダーに関する一切の情報を与えないことに決まった。
 記憶喪失はボーダーに関するものだけで、日常生活には支障がない。大学卒業までの残り数ヶ月は三門市で友人たちと過ごし、来年からはここから離れた地で就職し、こんな危険な世界のことは忘れたまま生きてほしい。それが、彼女の両親の願いだった。
 とはいえ、黒トリガーを扱うほどの実力者でトリオン量も多かった彼女が、|近界民《ネイバー》に狙われる可能性は低くない。そこで、誰か護衛をつけることをボーダー側は提案した。
 噂で聞いたその話に、自ら忍田さんらに頼み込んだのが、1ヶ月と少し前のこと。
 側から見たら、師匠に当たる人物だった彼女のことを思う、健気な少年に見えたかもしれない。けれど本心は、自分勝手なものだった。
 一度も相手にされたことはなかったけれど、オレは、彼女のことが大好きだった。否、今でも大好きなのだ。彼女の1番近くにいるのは、オレでありたかった。彼女がここを発つ、最後の日まで。



「緑川!お前今日、日直だろ!何帰ろうとしてんだよ!」
「げ。お願い、今日だけ見過ごして!いや来月もだけど!この1年間だけ!」
「はぁ!?アホか!」
「ぐえっ」

 同級生の友人に首根っこを掴まれ、ずるずると席に連れて行かれる。渋々着席し、鞄から日誌を書くためのペンを……ではなく、スマートフォンを取り出した。
『ごめん、日直で遅くなる。学校で待ってて!』
 連絡の相手は、もちろん彼女である。日誌にペンを走らせながら、ちらちらとスマホを確認。数分して、震えたそれを勢いよく掴み確認する。
『分かった』
 存外あっさりした返事に、胸を撫で下ろす。『なんで?』と先に帰られたらどうしようかと思った。安心して、鞄の中にスマホを滑り込ませる。先生に見つかって没収されては敵わない。
 それから席を経ち、友人と今日の給食だの好きな女のタイプだの他愛もない話をしながらガサガサと教室掃除をした。
 だから、気づかなかったのだ。
『ごめん。友達に声掛けられたから、一緒に帰ってる』
 彼女が、他の誰かと一緒に、大学から離れてしまっていたなんて。



「ごめんね、急に誘って。誰か待ってたんじゃないの?」
「ううん、その子も遅くなるって言ってたし。連絡入れたし、大丈夫」
「そっか」

 同学年、同学部だけれど、あまり接点のない人だった。ただ、落ち着いた笑みを向けるので、とても好印象を受ける。

「本当はずっと話しかけたかったんだけど。最近ずっと、小さい子と一緒だったから」

 ああ、と小さく声を漏らす。間違いなく、緑川くんのことだ。

「彼、弟とか?」
「え?まさか!弟じゃなくて……」

 そこまで言って、言葉を詰まらせた。弟じゃなくて、何だろう。ともだち?そう、ともだちのはずだ。彼だってわたしに、「友だちになろう」と声をかけてきた。だから、そう伝えればいい。それなのに、何故か喉の奥がつっかえる。何だろう。なにか、大切なことを忘れている気がする。彼は、わたしの――。

「……さん、大丈夫?どうかした?」
「えっ?あ、……ううん、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「そう?疲れたんならどっかで休もうか?あ、ほら。丁度公園があるよ」
「……」

 彼が指差したそこは、わたしが緑川くんと出会った場所だった。休日にぶらぶら歩いていたわたしに、彼が声をかけたのだ。

『ねえ、お姉さん。名前、なんて言うの?』
『――さん。名前で呼んでもいい?』
『オレと、友だちになろうよ』

 そうだ。あの時も、訳も分からず懐かしい気持ちに襲われていた。彼を思って、彼を見て、不思議な感覚が纏わりつくのは、今日に限ったことじゃなかった。特に、わたしから視線を逸らした彼が、たまに薄い笑みを零す時。そのどこか寂しげな微笑みに、わたしは、何か大事なものをどこかへ置いてきてしまった気がしていた。
 ベンチに腰掛けた隣の彼に愛想笑いを向けながら、そんなことを考える。
 少なくともわたしは、今隣を歩く同い年の彼よりも、いくつも年下の少年のことが気になって仕方がないらしい。……どうかしている。

「そうだ。今度、一緒にどこか出かけない?」
「どこか?」
「うん。たとえば、映画館とか……」

 と、その時だった。ばち、と、静電気が発生したような音が耳をつんざいた。
 え、と思って間も無く、彼の隣に黒い穴が開く。異世界からの侵略者が訪れる、|門《ゲート》。なんで、こんなところに。
 瞬時にそんな思考が過ぎり、頭痛がする。異世界からの侵略者?|門《ゲート》?一体、わたしは、何の話を――。

「う、うわあああ!」

 情けない悲鳴と共に、こちらに見向きもせず、青年が走り去る。か弱い女の子を置いていくなんて信じられない、そんなことをふと思った時、脳裏で拗ねたようにこちらを見る誰かの姿が過った。

『やっぱり女のひとは、男が守らなきゃって思うじゃん。それが、好きな相手なら尚更』
「う……っ」

 頭痛が一層酷くなる。頭の内側から、鈍器で殴られているようだった。
 堪らずその場に崩れ込んだわたしを、黒い影が覆う――。



 鳴り響いた電子音に、びくりと体を震わせた。プライベート用のスマホではない、ボーダー隊員に支給される通信機。
 急いで確認すると、『警戒区域外に|門《ゲート》発生』の文字。地図が示す場所は、彼女の帰宅経路にある公園だった。
 まさか、と嫌な汗が背中を伝う。

「緑川〜、あとこのプリント……どぉわ!?」
「ごめん!今日だけ許して!」
「はぁ!?結局かよ!うぉい!明日先生にチクるからなぁ!!」

 そんな恨み言に、耳を貸している暇はなかった。即座にトリオン体になり、電柱を、住宅街の屋根を伝い、グラスホッパーを使って目的の場所へ向かう。
 途中入った本部からの連絡が、誰からのものだったからは分からない。ただ一言、『すみません、今度こそ助けます』と告げれば、以降は何もかかってこなかった。オレの動向はおそらく、本部のレーダーで既に確認されている。問題なし、と判断されたのだろう。
 ――見つけた!
 |門《ゲート》が視認できる距離になる。丁度、向こう側から|近界民《ネイバー》が現れたところだった。捕獲用のトリオン兵が3体。……大丈夫だ、やれる。
 グラスホッパーを使い、一直線に向かう。捕獲用のトリオン兵が彼女に伸ばしていた腕を斬り落としてすぐ、身を翻しトリオン供給器官を破壊する。

(まず、一体!)

 対応する隙を与えるな。熱くなりすぎるな、冷静に対処しろ。

「……渡さないよ、この人は」

 小さく息を吐き、前方の敵を真っ直ぐに見据える。



『よーう、ちょっとさ、こいつの面倒見てやってくんね?』

 軽そうな男が、女に声を掛け、自身の後ろに隠れたままの少年を差し出した。ふわふわした薄い茶色の髪が特徴の男の子。不機嫌そうな顔さえしていなければ、随分かわいい子だった。

 ――なんでわたしが。

 女がそう返すと、少年は『オレやだよ、こんな女!』と声を荒げた。

『こんな女ってなぁ……。これでも俺と並ぶくらいの実力者だぞ』
『えー!?S級ってこと!?胡散臭ぁ!』

 ――何この礼儀のなってないガキ。

『おま……っ、ほんと意外と口悪いよな、子ども相手に落ち着けよ』
『はぁ!?うるっさい、オバさん!』

 ――はぁ?

『だぁー!分かった分かった、落ち着けって!そんでおまえら、一回模擬戦してみろって』

 頭を抱えた男を挟むようにしていた女と少年は、お互い鼻を鳴らしてブースへ入った。
 結果は、女の圧勝だった。大人気なく|こてんぱ《・・・・》にしたことに、少年は喚くだろうと思いながら、女はのろのろとブースを出る。すると、目の前には既に対戦相手の少年がいた。悔しそうに唇を噛み締め、不機嫌な顔をする少年は、しかし意外にも、『馬鹿にしてすみませんでした』と謝罪した。女が何か言うよりも先に、少年は身を翻し、訓練場を後にする。
 少年を紹介した男は、肩を竦めて笑っていた。
 更に女を驚かせたのは、翌日、少年が再び姿を見せたことだった。

 ――今日はなに?

 問いかけに、少年は少しだけ気まずそうな顔をした後、意を決したように口を開いた。

『あのさ……、戦い方、教えてほしいんだ』

 場面が、切り替わる。

『ねえ、今日オレ、|近界民《ネイバー》3体も倒したよ』

 嬉しそうに報告する少年に、女が応える。

 ――すごいじゃん。

 その表情は、初めて会った時とは打って変わり、姉が弟にするような、あるいは、大切な者を見るような、慈愛に満ちたものだった。

『あんたのお陰だね』

 ――きみが強いからだよ。

『へへ』

 ――そういえば。

『うん?』

 ――初めて模擬戦した後、なんでわたしに教えてもらう気になったの?

 不意に、女がそんな質問をする。面食らった少年は、視線を逸らし、ぼそぼそと呟いた。

『それは、あんたが、すごく、きれいで……』

 ――え?

 よく聞こえない、と女が不満げに声を漏らす。カッと、少年の頬が紅くなった。

『オレ、帰る!』

 飛び出す少年の背を見つめる女もまた、目を見開き、あからさまな彼の態度が羞恥を伝染したことで頬を染めていた。

 三度、場面が切り替わる。

『ねぇ、どんな人がタイプなの?』

 帰路の途中。夕暮れの公園で、ふと少年はそんな問いかけをした。

 ――何でそんなこと聞くの?

『今日、イケメンの先輩から告白されたのに振ったんでしょ』

 ああ、と女が呆れたように声を零す。少年の反応を見る限り、嫌な噂はまだ広がっていないようだ。しかし、冷たい振り方をした自覚はあったので、悪く言われるのも時間の問題かもしれないな、とも思う。ただ、言わせてもらうと、『今好きな人がいないなら』などとしつこく誘われたら、突き放してしまうのも当然ではないだろうか。
 そわそわとと見てくる少年の気持ちに、女は最早とっくに気が付いていた。さて、何と言うべきか。やんわりと対象外であることを告げようか。
 考えた末に女の口から出てきたのは、『わたしより強いひと』という言葉だった。
 すると、目の前の少年は、パッと顔を輝かせる。

『ほんと?年下でもいいってこと?』

 ――……そうかもねえ。

『じゃあさ、オレが、あんたより強くなったら。あんたを守れる日が来たら、その時は――』

 頬を染めた少年が、真っ直ぐに女を見る。

『その時は、オレと付き合ってよ』

 薄緑の瞳が、女を射抜いた。その提案に、女は、おんなは、わたしは――。



 トリオン兵2体も倒し終えたところで、本部から連絡が入った。

『全く、肝が冷えたぞ。だが、お疲れ様。よくやった、トリオン反応は消失している。もう大丈夫だ』
「はい」

 忍田本部長からの言葉を受け、ベンチの近くで蹲ったままの彼女に駆け寄った。
 彼女は、これからどうなるんだろう。この件に関する記憶措置を行われて、また、日常に戻るのだろうか。

「大丈夫?立てる?」

 そんなことを考えながら手を差し伸べて、オレはぎょっとした。
 泣いていた。丸い双眸からぼろぼろと涙を零す彼女に、背中に汗が伝う。

「ど、どうしたの!?怪我!?どっか痛い!?怖かった?来るの遅くなって、ごめ――」

 矢継ぎ早に紡ぐ言葉は、途中で途切れる。
 柔らかな感触。甘い匂い。彼女が、オレを、抱き締めていた。

「な、に、なんで」
「……しゅん」

 どこか拙く、彼女が名前を呼ぶ。それは、記憶を失う前。彼女がボーダーにいた頃にしてくれていた呼び方。
 頭が、上手く回らない。まさか、まさか。

「……ずっと、守っててくれたの。あの日から、ずっと。わたしは、ぜんぶ、忘れちゃってたのに」

 ごめんね、と、ありがとうを繰り返す彼女に確信する。本当に、思い出したんだ。ボーダーで戦っていたこと、オレと過ごした日のこと、記憶を失うきっかけになった、あの苦しい日のことも。

「当たり前、じゃん」
 そう言うオレの声は、情けないくらいに震えていた。ああもう、どうせなら格好良くしていたのに。感情が昂って、どうしようもなくて。

「オレが、どんだけ、あんたのこと、好きだと思ってんの」

 ふふ、とくぐもった笑い声が、オレの胸の中から聞こえてきて、それが、とてつもなく幸せだった。彼女がこんなに近くにいるのは、はじめてで。

「……ねえ」

 緊張で、言葉が震える。あの日と同じ、夕暮れの中。祈るように、オレは尋ねる。

「あの時の約束、覚えてる?」

 ぴくり、と彼女が小さく震えた。逃げられてしまわぬよう一層強く抱き締め、言葉を続ける。

「オレ、あんたを、ちゃんと守れたよ」

 回された腕の力が、強くなる。そうして胸元から聞こえてきた返事の言葉に、オレはまた、情けなく泣いてしまうのだ。