ニノマエ前日譚
俺は何処の誰で、何のためにここに来たのかすら思い出せない。
身を寄せる所もなくふらふらと歩き続け、気づいたことはここは仙嵬郷という場所で、凰門という都市で、夜が明ける事が無い街だということ。ここに住むのは鬼人と呼ばれる人種が大半だということ。
そして鬼人は死ぬ事がないということ。1度ガラスで腕を派手に切ったが、次の日には傷跡さえ消えていた。自然の治癒ではなく、巻き戻したような状態だった。
そこで確信する。
自分が今まで過ごしてきた場所とは違うということ、そして恐らく戻る術はもう無いだろうということ。
都合が良かったのは俺みたいな記憶のない奴は少なくないということで、よくあることだから気にするなと道行く人達は笑った。ここの人達は何かを深く考えるということはしないらしい。
「……、っ」
目眩。
ここで過ごして何日経ったかは分からないが最近頻繁に目眩に襲われる事が多くなった。目眩に関してだけは治る様子もなく、それだけが不安要素だ。
先程適当に入ったバーでサンドイッチと麦酒を腹に入れたはずなのに酷く腹が空く。
雨が降っているせいで体が冷えたのかもしれない。
ぼんやりとした思考の中、夜空を見あげる。
随分と長い夜だ。明けることのない夜だ。
誰も居なさそうな路地裏に滑り込み、ごうんごうんと鳴っている室外機に座る。
体に降り続ける雨粒が気持ちいい。
もしかしたら死ぬ予兆なのかもしれない。
でも鬼人は死なないから明日にはまた元に戻っているだろう。
目を閉じる。意識が遠くなる。
視界の端にぴかぴかの革靴を見かけた気がするが、きっと気のせいだろう。
「──……しぃ?」
◆◇◆
ふと意識が浮上する。
柔らかいものに包まれている感触を手放すのが惜しい。目を開けるのが怠い。
あと5分……、と考えたところで思考が明瞭になってくる。
柔らかいベッド?俺は路地裏で意識を飛ばしたはずだ。目を開く。
ここは何処だ?勢いよく身を起こすとその反動で頭に痺れが走る。
「痛ぅ……、」
「だ、大丈夫?もう少し寝ててもいいよ」
「ここ、何処だ……」
「ここは私の経営してる、ホテル『花好月円』の一室だよ」
慌てて駆けつけたのは上等なスーツを纏った銀髪の鬼人だった。知らない人物だ。
視界を動かすと広々としたベッドルームに寝かされていたことに気づく。 確かに高級ホテルのような一室らしい。柔らかい布団はそのためか。
「水でも飲むかい?」
「うん……ありがとう、ございます……」
「それにしてもビックリだよ、あんなところに寝てるなんて……死んでるかと思った」
「鬼人は死なないんじゃないの?」
「あはは、鬼人の自覚は出来てたんだ?」
「ここに来て3回くらい死にかけた、でも気がついたら戻ってるし」
「え!?何してんの?」
「いや、なんか……怪我しちゃって」
「えぇ……?ここに来てから浅いみたいだけどちゃんと生活出来てるの?」
「まぁ、なんとか……?」
「心配だなぁそれ……良ければ私が仕事を手配しようか?お前が居てくれると助かるし」
「それはとても魅力的だけど……どうして俺にそこまでしてくれるんだ?」
「そりゃあ、お前は私の……、──いや待て、キミは私の事、わかるかい?」
「………、」
先程までにこにこと笑っていた顔が一瞬驚きの表情になって、すぐまた笑顔に戻る。先程の親しげな表情とは違う、貼り付けたような、取り繕ったような微笑みだ。親しげなあの笑みが消えてしまったことが少し寂しくなる。
「……そうか。記憶は持ってこなかったんだね」
「なぁ、お前は俺を知っているのか?」
「いいや。キミとは初めましてだ。ごめんね、馴れ馴れしくしちゃって。私は……ニノマエ。先程告げたようにここの代表取締役だ」
「お偉いさんじゃん……あ、です、ね」
「緊張しなくていいよ。敬語も、無い方が嬉しいな」
「わか、った」
「それで、えっと、キミの名前を教えてくれる?」
「……わから、ない」
「分からない?」
「うん……、」
「そっか……、」
「なんか俺のこと知ってるみたいだし、丁度いいから俺の名前、つけてくれる?」
「えぇ?それはいいのかな……」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないよ!でも、えっと……うぅん……そうだな……」
「なんて呼んでもいいよ」
「それじゃあ私はキミのことを
「別に俺無口じゃないけど」
「私の知り合いにキミに似た子がいてね、その子に似た語感を選んでみたけど、そういうのは嫌かな」
「ううん、俺に似てる人なんて想像つかないけど、いいよ。俺の名前、忘れないようにする」
「うん。良かった」
「なぁ、あんたは俺に仕事を紹介してくれるつもりなんだろ?早く教えてくれよ」
「待って、まだ万全な状態じゃないだろ?休んでなよ」
「大丈夫だって、さっき寝たおかげで、ほら──」
ベッドから立ち上がろうとして、くらりと目眩がする。倒れそうな体をニノマエが支えてくれた。
「大丈夫じゃ、ないよね?」
「な、なんで……?体力は回復した筈なのに」
「魄の濃度が低い。仮魄の手配を優先すべきか…、いや直接注いだ方が早いか……。……ねぇ、黙。キミは魄(からだ)を何処に置いてきたんだい?」
「魄?って?」
「ああ。えっと、本来仙嵬郷に来る鬼人は魂と魄……いわゆる精神と肉体と共に来るはずなんだ。けれど今のキミには肉体が無い状態になっている」
「え?でも俺触れる……」
「うん、ここは霊体の──精神力の世界だから、魂(せいしん)だけで存在することも難しくはないんだ。けれど、本来あるはずのものがない。そういう存在はどうしたって不安定になる。今のキミみたいにね」
「でも俺、最初からこうで……」
「うん……。キミの魄は何かしらのトラブルに巻き込まれた可能性が高いかもしれないね。仮魄というキミの魄に似せたものに魂を定着させることもできるけど……あまりオススメはしない。どれだけ似せても違う個体だからトラブルになりやすいし……」
「そしたら、どうすればいい?俺はもう消えちゃう?」
「まだ大丈夫だから落ち着いて。対策としては消えないためには魂と魄のバランスを保ってやればいい。……少し、触るよ」
「うん……、んっ……」
下腹部にニノマエの手が載せられる。
少し暖かい。触れられたところからじわじわと熱が上がっていき、呼吸が荒れ始める。
「は……、これ、なに……?」
「私の魄を咒式を介してここへ注いでいる。しばらくこのままで良いかい?」
「ん、……ぅん……っ、」
「ごめんね……」
(本当は直接注いだ方が早いけど、流石に初対面ではね……)
「あっ、ぅ……」
(身体が拓かれて、満たされる感覚に肉が悦んでいるのが分かる、これが、魄の存在なのか?)
(あたたかくて、気持ちよくて、頭ぼーっとする……)
「魄が満ちる感覚を覚えておくといい、 」
「ふぁ、い……、」
「……ふふ、くたくたになっちゃったね……大丈夫?」
「へ、き……、れす……」
(蕩けているシィはとてもかわいいけど、こんなにちょろいと流石に心配になるな……)
「……魄が無いことを伝えるのはこうして弱みを見せるということだ。不安定なキミに寄ってくる輩もいるだろうが、隙を見せず、それほど親しくない人には魄が無いということは秘密にしておいた方がいいと思う」
「わかっ、たぁ……」
(君からしてみれば、私も危険人物の対象になり得るのだけど、分かってなさそうだな、これは)
(私としては都合がいいけど)
「眠い?もう少し休んでいるといいよ」
「ぁ、でも、客室……」
「心配しないで。ここは空いてたスタッフルームだから一般のゲストはいないし、落ち着くまで寝ているといい」
「ありがとう、ございます……」
「また数時間後に来るよ。寝ててもいいからね」
「はい……」
くしゃりと髪を撫でられてそのまま目を閉じる。
「いいこだね」
微笑まれながら優しく告げられた言葉を遠くの方で聞きながら意識を飛ばした。
──ぃ、起きろ。おい。
「おい!」
「ふぁっ!?」
「やっと目が覚めたか。貴様が新たに黙と成った奴だな?随分と無防備なようだが──、まぁ、鬼人らしいといえばそうか」
「??なになにお前、誰?」
「
「な、なんで?何の話?」
「……なんだ?オーナー……ニノマエから聞いていないのか?」
「え?ニノマエ?」
「あの人から言伝を預かっている。貴様はここで巡視となるのだろう?作法を教えろとのことだったが……」
「あぇ?そうなの?」
「……おい……どういうことだ」
「あっ、手伝って欲しいことがあるって言ってたけどそれのこと?やるやる」
「……あの人から仔細を聞いていないのだろう、断っておけ。『お手伝い』レベルでやってもらう事では無い」
「え?それでもやるよ?」
「……軽率な判断は身を滅ぼすぞ」
「あは。まぁ鬼人だしぃ?それに、あの人には助けてもらったから、お返しはしたいんだ」
「……随分と、義理堅いやつなんだな?」
「まぁねー、ただの鬼人に宿も仕事も斡旋してくれる人のお願いを無視するほど面は厚くないつもり」
「ただの鬼人、か……本当にそう思っているのか?」
「さぁ?あの人の中ではなんかあるんだろうけど俺は分かんないしね」
「そこまで脳内お花畑でないようで安心した。我々は鬼人で、大きな問題が起こることは少ないが……、警戒するに越したことはないからな」
「瞭は鬼人にしては珍しく真面目だね」
「は、そう思うか?」
「あれ?意外とそうでもないの?」
「さぁ」
「ニノマエもそうだけどさぁ、ここの人って鬼人の割に分かりづらいよね」
「そんなことも無いと思うが。まぁ、貴様の察しの通り、オーナーを盲信する必要は無い」
「そ?」
「――俺はあの人のことは信用はしているが、信頼すべきではないと思っているからな」
「どういうこと?」
「分からなくていいさ。せいぜい食われないように用心しておくんだな。……まぁ、雛への擦り込みはもう済んでいるようだろうから今更何を言っても手遅れな気もするがな」
「なんの話?」
「こちらの話だ。ほら、やるのならさっさと顔を洗ってきてこれに着替えてくるんだ」
「はぁい……」
◆◇◆
「どう?マジでピッタリでビビったんだけど」
「悪くない。どうせ寝てる間にでも採寸を取られていたんだろう」
「えっ、こわ……」
「そうだ。あの人は怖いんだ」
「そっか。そういう人か」
「認識を改める気になったか?」
「んーん、それでも俺を助けてくれたのは事実だし」
「漫然で何よりだ」
「馬鹿にしてる?」
「褒めているとも。そういう精神の方がここでは生きやすい」
「ふーん?ま、これからよろしくね」
「ああ」