君の全てが刺激

誰のせいでもないのに、「最悪」と声に出した。その音は酷い雨音に呑まれ消える。私は走っていた、それもバケツをひっくり返したような雨の中をだ。天気予報なんて安易に信じるものではない。あの可愛いお天気アナは何も悪くないと分かっていても、嫌いになりそうだ。別に家に帰るだけなら、こんなに荒れたりしない。雨に降られるなんてよくある事なのだし、普通の日なら帰ってお風呂に入って終わり。でも今日は違う。だって今日はせっかくのデートの日なのだ。と言っても、どこかに出掛けるわけじゃなく、いわゆるお家デートというやつだ。全速力でマンションのエントランスを抜けて、やっと屋根のある所まで来た。

「名前!!」

一息ついてタオルで軽く拭こうとしたとき、大声で名前を呼ばれる。珍しく焦った声音に戸惑ってしまう。声の方を向けば、予想通りの顔が見えた。目が合って微笑んだのも一瞬で、ぎょっと目を見開かれる。意味が分からずこちらも名前を呼ぼうとしたら、思い切り腕を掴まれてそれどころじゃなくなる。咄嗟に「痛い」と顔を顰めると、我に返ったのか小さく謝罪が聞こえた。今度は優しく手を引かれてエレベーターに乗り込む。口を開かない要に不安が胸を覆う。楽しみにしていたデートなのに、息が詰まりそう。

「あの、要・・・もしかして怒ってる?」
「部屋に着くまで俺の名前呼ばないで。あと誰かに会っても、挨拶しなくていいから。俺の後ろにいて、いい?」
「わ、分かった」

有無を言わさぬ雰囲気に、コクコクと頷くしかなかった。扉が開いて再び歩き出す。斜め後ろから横顔を盗み見た。そして気が付く−−−要は怒っているのではなく、焦っているのだと。しかし理由の検討はつかない。怒っているのではないことにひとまず胸を撫で下ろし、手を引かれるまま付いて行く。家族の誰にも会うことなく、部屋に着いた。ドアを開けて、中に入るように促される。おずおずと足を踏み入れて、靴を脱ごうとしたと同時に背後から抱き締められた。

「ちょっと、なに!?」
「早めに着くって連絡くれたら迎えに行ったのに・・・風邪引くだろ」

頸にキスを落とされて、玄関なのに身体が疼きそうになる。そんな自分に心の中で喝を入れて、お腹に回った腕を解こうとするけれどビクともしない。はぁ、と熱い息を吹きかけられて小さく悲鳴を上げる。完全に掌の上で転がされている。速くなる鼓動に気付かないふりをして口を開く。

「もう6月なんだから、これくらいで風邪引いたりしないでしょ。というか、それだけでそんなに焦らなくても・・・とりあえず部屋に上がらせて」

平常心を装って頼めば、ゆっくり腕が解かれた。ホッとして靴を脱いだ途端、またも予想外のアクションが私を襲う。突然の浮遊感に「ぎゃっ」と色気のない声を上げてしまって恥ずかしくなった。抱き上げられてベッドに転がされる。全く訳が分からない。まさかこのまま食べられるのだろうか。要のくせにムードも何もない。

「名前はもう少し自分の魅力を自覚するべきだね。じゃないと、悪い虫が寄って来る。俺が隣にいる時ならいいけど、そうじゃない時は守ってやれないんだから隙を作っちゃダメだよ。もしかして、それならずっと傍にいてほしいってこと?新手のプロポーズ?」
「ちょっと待って、どうしてそんな話になるのかさっぱり分からない。さっきから様子が変だけど、何かした?」

声に怒気がこもる。一方的にそんなことを言われて首を縦に振れるほど、聞き分けはよくない。見つめ合って数秒。先に折れたのは要だった。彼が眉を下げて、大きく息を吐くのを私は黙って見つめる。肺にある空気を吐き切って気分が落ち着いたのか、いつも通りに戻っている。

「余裕はある方だって自負しているんだけど駄目だな、まったく。これじゃまるで子どもだ。ねえ、名前・・・お風呂入ろうか」
「はい?」

何がどうしてこうなった。狼狽える私の手を要が引く。確かに雨で濡れているけれど、話の途中もいい所だ。抵抗する間もなくバスルームへと導かれて、要がお風呂のスイッチを押す。それからやっと我に返って手を振り払う。こんなとき流れに身を任せられるくらい器用ならよかった。しかし残念なことに私は私で、気持ちが通じないまま触れ合うのは嫌だ。刹那、ぞくりと身体が震える。寒さからじゃなく、要の瞳が冷たかったからだ。今度こそ怒らせた。胸の前にあった腕を取られて気付けば背中が壁に当たる。俗に言う壁ドンだ。でも少女漫画のようなときめきは皆無、この鼓動は期待感からではなく恐怖からだ。

「頼むから言う通りにしてくれ。これ以上は抑えきれないんだ」

抑えるって、一体何を。見下ろす要と視線が合わない。普通ならそのことに胸が痛むはずだけれど、このとき私はかなり冴えていた。鋭い視線が射抜いているのは確かに私−−−否、私のいちぶ。釣られるまま見下ろして、話の筋がやっと見えた。

「下着が透けてるなら、普通に言ってよ」

あり得ないオチで、声に呆れの色が宿る。センチメンタルの欠片もない。ストレートに言う私に要はスンと棒立ちになった。いつも恥ずかしくなるような事ばかり口にするのに、今さら照れるとか正気を疑う。嘆息して、バッと服を脱いだ。次いでブラを外して、微動だにしない要に声をかける。

「要は入らないの?」
「入ります」

張り詰めた空気は吹っ飛んで、二人して服を脱ぐ。なんとも言えない。雨の中を走ってきた私とは違い、外に出ていない要はそのままお湯に浸かった。そうは言っても、まだ半分程度しか溜まっていない。髪を洗いながら、さっきのやり取りを思い出して吹き出す。

「はー、面白い。下着が透けてるだけで取り乱しちゃうなんて、天下の要仁が聞いて呆れちゃうんじゃない?」
「ほんと、名前は罪な女性だね」
「どうして私が悪者になるの」

トリートメントを流し終えて、髪の水気を取る。不満気に言えば、腕が伸びてきて綺麗な手が頬に触れた。「言う通りにしてくれ」と言ったときとは真逆の優しい瞳に、身体が動かない。息することを忘れていると、心地のいい低い声がバスルームに反響した。

「俺の余裕を崩すのは君くらいだよ」
「なにそれ・・・っ、
「うわっ!」

シャワーで温まった身体が更に熱を上げる。ぶわっと胸から首元まで一気に何かが駆け上がった。顔を見られたくなくて、咄嗟に要の視界を両手で覆う。その隙にバスタブに入って隅で身体を丸める、もちろん背中を向けてだ。子どもみたいな照れ隠しに、フッと笑う気配がした。優しく名前を呼ばれて、渋々向かい合う。

「怒ってても可愛いね」
「あのね、怒ってるって分かってるなら少しは反省して。自粛を覚えてよ」
「それは無理かな」

いい意味で心を乱されてばかりだ。愛の言葉は本心だということも、揶揄いの裏にある気持ちも理解できる。私は要のように気持ちを素直に言葉にするのは得意じゃない。愛を貰ってばかりな気がするのは、その所為かもしれない。

「それにしても、あの格好でここまで駆けてきたなんて・・・きっと君とすれ違った男はみんな振り返っただろうな」

何を言い出すかと思えば、自分こそ街を歩けばお姉様方の視線を独占しているくせにと呆れてしまう。でもあまり自分を卑下するのはやめよう。女優みたいな容姿でもないし、モデルのようなスタイルでもない。だけど、要の恋人としての自覚が私にはある。それは矜持と言ってもいい。それだけで自信が湧いてくる。要が言うには、私は自然体でもその余裕を崩せる女らしい。では意図して実行してみたらどうだろうかと、自信過剰な疑問が浮かぶ。つまり、攻めてみるということだ。

「振り返ってほしいのは要だけなんだけど」

挑発的に笑って、その顔を覗き込む。珍しく驚いた様子に勝ち誇った気持ちになった。気分がいいとは正にこの事。さらに近付いて、要の足の間に身体を滑り込ませた。身体を寄せて誘うように舌で唇を刺激すれば、ぐっと喉を鳴らす様子に楽しくなってくる。首に腕を回して体重をかけた途端、腰を引き寄せられて更に密着させられる。振動でお湯が波打った。その音に気を取られていたら、耳元で熱っぽく囁かれる。

「名前は、俺をどうしたいの」
「あ・・・ちょっと、ひぁ」

耳の形を舌がなぞる。鼓膜から犯されている心地に身体がぶるりと震えた。小さく名前を呼べば、後頭部に手を回されて深いキスが降ってくる。息苦しさが心地いい。渇いた喉に唾液が流し込まれる。必死に縋り付く私の背中を、大きな掌が撫でた。唇を離した途端、無意識に声が出る。

「もう一回」
「本当、キスが好きだね」

愛おしそうに笑って、両頬を包まれた。私は素直な女じゃないから、行動で示そう。キス一つに想いを込める。そういうのを読み取るのが要は得意だから、心配はしていない。息を切らして見つめ合えば、髪を撫でて左手を取られる。甲にキスをしながらくれた言葉だけで私は無敵になれる気がした。

「俺はとっくに君に夢中だよ」

-fin.-

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