この景色を忘れない

※時系列は本編の31〜32話あたり

「ねえ、名前。今日は蛍を観に行こうよ」

ある夕暮れ、総司が言う。突然の誘いですぐに返答できなかった。瞬きを繰り返す私の姿が緑色の瞳に映る。総司と何かをするのに、私が迷うことはない。返事を待つ彼に、慌てて口を開く。

「いいけど…この近くに蛍がいるの?」
「お隣さんが教えてくれた、すぐそこだよ」

お隣さんと言っても、かなり離れた所に住んでいる夫婦だ。いつの間にそんな話をするほど仲良くなっていたのかと驚く。それならばと大きく頷けば、嬉しそうに笑うから胸が温かくなった。少し遅めの夕餉を終えて、月明かりの下を二人で歩く。江戸や京とは違ってここはとても静かだ。人が住んでいないから当たり前だけれど、灯りが少しもないのは怖い。歩みが遅くなった私の手を総司が握る。

「どうかした?」
「ううん、何でもない。行きましょう」 

訳もない不安を誤魔化して笑う。頬をなでる初夏の風に目を細めた。日野を離れてから、蛍狩りに行くのは初めてだ。幼い頃は兄や総司、試衛館の面々とよく行った。今はもう、私と総司だけ。土方さんや千鶴ちゃん、一君や左之さん達も、どこかで月を見上げていたらいい。と言っても、新八さんや平助は月を愛でるよりお酒だろうけれど。どんちゃん騒ぎをする姿を思い出して小さく笑った。今日の総司はやけに静かだ。私と同じように皆のことを考えているのかもしれない。

−−−知ってるか、名前。蛍は死んだ人間の魂なんだ。父さんや母さんが逢いに来てくれてると思うと、もっと綺麗だろう?

そんな俗信を笑って語った兄。人は弱いからそんな言い伝えに縋るのだと思っていたし、今もその考えは変わらない。ただ、縋ることを愚かだとは思わない。たとえ人の姿でなくとも兄にもう一度会えるなら、今日くらいは騙されてみてもいい。

「蛍ってさ、死んだ人の魂なんだって」

ぽつりと総司が落とした呟きに息を飲んだ。言葉を紡げなくて、その横顔を見つめたけれど、視線は合わない。緑色の瞳は真っ直ぐ前を見据えている。

「近藤さんが教えてくれた。昔の人が書いた句にそういうのがあるんだってさ」
「…兄さんも同じこと言っていたわ」

私の返事に総司は小さく笑っただけだった。近藤さんも、兄も、もう現世ここにはいない。思い出が綺麗だから、こんなにも胸が切なくなるのだろうか。それから暫く歩いて、見えた景色に思わず声を漏らした。総司も驚いたのか、繋いでいた手が解かれる。数多の光が宙を舞うその様は、とても幻想的だ。触れようと手を伸ばすと、逃げられる。彼等がどうして人の魂とされているのか分かった。ふわふわと舞う姿を見ていると、まるで呼ばれている心地がする。もしも私が独りぼっちだったら、その呼び声に応えていたかもしれない。でも私は今、ひとりじゃない。総司がいる。

「綺麗ね」

呟きに返事はない。慌てて辺りを見回した。ついさっきまで手を握っていたのだから、すぐ近くにいるはずだ。それなのに不安は一気に加速する。蛍達が素知らぬ顔で私の周りを飛び回る。綺麗だと思っていた光が急に恐ろしくなった。ひゅっ、と息を吸い後ずさる。

「いや…連れて、行かないで」

飛び交う光に向けて吐き出した声は震えていた。総司はずっと呼ばれていたのだろうか。それに今、応えてしまったのだろうか。蛍が死んだ人間、近藤さんの魂なら総司は振り向いてしまうかもしれない。泣き出しそうになりながら、水辺へと近付いた。もしかしたら声を上げる間もなく灰と化して風に攫われてしまったのかもしれない。誘うように蛍が奥へと飛んで行く。草履を脱いで着物の裾を上げる。一歩踏み入れてると、足首まで浸かった。さらに踏み出そうとしたとき、ばしゃばしゃと大きな音が静寂を破る。

「名前!!」

私の名を叫ぶ声に、足を止めた。振り向くより先に強い力で腕を引かれる。着物越しに伝わってくる荒い鼓動に、身体の力が抜けた。触れられる所に総司がいる。その事実に心の底から安堵した。ぎゅっと背中に腕を回して大きく息を吸う。

「なにしてるの。勝手に逝っちゃうなんて、僕は絶対許さないよ」

総司の声が震えている。彼も私と同じように怖いのだ。置いて行くのは私の方なのかもしれない、なんて馬鹿げたことを考える自分に戸惑う。怯える暇があるのなら笑うべきだと思うのに、上手にできない。総司の背に回した掌をきつく握りしめた。

「総司が消えちゃったかと思ったの。あの光が近藤さんだったら、貴方は追いかけていくでしょう?」

こんなことを言っても困らせるだけだと分かっている。それでも恐怖は消えない。弱音を言葉にして初めて、自分が震えていることに気が付いた。強く瞼を閉じて泣きそうになるのをなんとか堪える。かける言葉に迷っているのか総司は何も言わず、ただ髪を撫でるだけだ。どれくらい経ったか、やっと落ち着いてきて身体を離そうとした。しかし、それは叶わずまた胸元へと引き寄せられる。

「たとえ近藤さんに呼ばれても、僕は応えたりしないよ。名前がいる限り、僕の居場所は君の隣だ」

耳を押し当てた場所から、規則正しい鼓動を感じる。たったそれだけの事実が、この上なく特別で幸福だ。でもその幸せは無限じゃない。終わりが来ることを知っている。だから一瞬毎がこんなにも愛おしいのだろうか。

「いつか離れる時がきて、こうして触れ合うことができなくなっても、僕と君が過ごした時間は消えない。僕との思い出が君にもたらすのは笑顔であってほしいんだ…だからさ、笑ってよ」

兄がよく言っていた、死んだ両親が私を守ってくれると。そんなのは綺麗事だと思っていたけれど、それは間違いだった。総司との思い出は、たとえ彼がいなくなっても私を生かし続ける。私の心の主柱となる。その糧は、幸せであればあるほど価値を持つはずだ。それならば、私がすべきは未来を悲観することではない。総司がいる今を、感じ尽くすことだ。

「一生分の幸せを私に頂戴」
「名前は本当、欲張りだね」

眩しそうに笑うその顔も、私を呼ぶ声も、握った手の温かさも、一つひとつが私の一部となる。今度こそ身体を離して、私も笑って見せた。優しい指先が頬に触れて、引き合うように唇を重ねる。この温もりを、貴方との全てを、ずっと憶えていたい。

「好きよ、総司」

手を伸ばして柔らかい髪を撫でる。総司は私の言葉に小さく息を飲んで、ふっと綺麗に笑った。この声が届く処に貴方がいるうちに、伝えたいことは全て言葉にしよう。顔を上げると、総司の後ろで光が舞う。大切な人が隣にいるだけで、何もかもが美しく見える。

「僕も、君が好きだよ」

共に生きられる時間が少ないのなら、何十年もかけて贈るべき言葉を、笑顔を、愛情を、その僅かな時に凝縮させてみせる。今の私なら、それが出来る。だから出し惜しみをする暇など、一刻もないのだ。心からの笑顔を返すと、珍しく照れたようにそっぽを向くから思わず笑ってしまった。

「ほら風邪引くよ、水浴びしに来たんじゃないでしょ」

呆れたような声に頷くと、手を引かれる。ふと下を向けば、総司の着物の裾は水を含んで重そうだ。捲る余裕もないくらい慌てて追いかけて来てくれたのだろうか。胸がじんわり温かくなって、指を絡ませた。暗く静かな道を肩を並べて歩いた。

「総司…怒らないで聞いてね。貴方の運命が私にくれたのは恐怖や哀しみだけじゃないって、最近そう思うのよ。さっきまで泣きべそかいてた奴に言われても説得力がないだろうけれど」

少し離れた場所から飛び交う蛍の群れを眺める。ふわふわと漂う姿は確かに人の魂のようだ。実際に見たことはないけれど、淡く儚い光はそれを連想させる。遥か昔の人も、そう思って一句詠んだに違いない。私の独白に総司は黙ったままだ。それでも私は続ける。

「子供の頃…まだ総司と出会う前まで、私の人生はちっぽけで、つまらないものだった。中身のない時間をただ悪戯に過ごして、そうやって死んでいくのだと思っていたし、それを良しとしていた。貴方は、そんな私の一生に現れて、意味をくれたのよ」
「…意味って、何に?」

やっと喋ったかと思えば、たった一言。総司に対する想いは生まれる度に伝えているつもりだった。でも元から素直な娘ではないし、一君ほどではないけれど口が上手い方でもないから伝えきれていないのかもしれない。怪訝そうに私を見て総司は立ち止まる。その顔が面白くて、覗き込んだ。

「全てに–––隣で眠ること、朝餉を食べること、こうして手を繋ぐこと。全部がかけがえのない時間。貴方の命が永くないと知ってから、その価値はより大きくなったわ」
「名前は、僕を喜ばせるのが上手いよね。同情でも偽善でもない…本心だって分かる」

明日の朝、私の隣で貴方は冷たくなっているかもしれない。瞬きする間に灰となって消えてしまうかもしれない。たとえどんなに濃い時間を共にしても、私はそのとき泣いてしまうだろう。でもその涙が、少しでも美しいものであるように。

「貴方がいた時を、景色を、私は絶対に忘れない」

-終-

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