あと幾つの季節を

年が明けて、2月。高校生活も、いよいよ終わりが見えてきた。来月には大学の合格発表もある。だけど、合否の心配は特にしていない。手応えはあったし、今さら足掻いたところで無駄だ。

「陣平ちゃーん。数学の教科書、貸してくんない?忘れちゃってさ」
「は?持ってねーよ。今日数学ねぇし」
「マジか。そこは問題児らしく置き勉しとけよ」
「知るか。忘れたテメェが悪いんだろ」

俺としたことが、教科書を忘れちまった。だからこうして親友の所に借りに来ているわけだが、持ってないとかマジかよ。仕方ねぇ。こりゃ誰かに見せてもらうしかないな。息を吐いて教室に戻ろうとしたら、目の前に求めていた教科書が差し出された。

「私持ってるから、使う?」
「へぇ、澄ました顔してちゃっかりしてんな。ま、別に驚かねぇけど。お前、優等生なフリして実は意外に素行不良だろ」
「松田は堂々と問題児だもんね」
「おい、息するように煽ってくんじゃねーよ」

未だに返事を出来ないでいる俺を差し置いて、松田が苗字と楽しげに会話をし始める。息するようにディスってんのはどっちだっての。とは思ってみたものの、当の本人は全く気にする素振りはないんだよな。それどころか応酬してるし。

「あー、じゃあ折角だから借りてもいい?」

少し大きな声で頬を掻きながら尋ねると、松田に注がれていた視線が俺に向けられる。やっぱり、怖いのは君の方だ。目を合わせるだけで、ちっぽけな嫉妬を一掃してくる。参るなぁ、本当に。

「うわ、めちゃめちゃ綺麗」

貸してもらった教科書を開いてみて、驚いた。まさか落書きがしてあるとは思ってなかったけど、書き込み一つない。綺麗というのは文字通りの意味だ。買ったばかりと言われても頷ける。松田は素行不良とか言っていたけれど、苗字は真面目だ。授業はちゃんと受けるし、成績も良い。だから尚更、意外だった。

────誰にも知られずに死にたい。

ふと、よみがえる声。もしかしたら、痕跡一つ残さないつもりなのかもしれない。苗字名前が生きた証は、世界にどれくらいあるだろう。例えば今この瞬間、彼女が煙のように消えたとして、確かに居たと証明することはできるのか。ノートの上に数式を書きながら考えてみる。解を出し終えて、ペンを止める。微かに漏れた息に、自分が笑ったことに気がついた。必要ないじゃん。だって俺が憶えてる。この記憶を君が居た証にすればいい。

『貸してくれてありがと』

付箋にそう書いて、表紙に貼り付けた。たぶん返事はないけど、これを見た君の心を、ほんの少しでも揺らせるなら構わない。

**

2月14日の放課後は大荷物だった。何故って決まってる。この日は女の子にとって特別な日。好きな相手にチョコで思いを伝えるんだ。光栄なことに、俺をその相手に選んでくれた女の子は沢山いる。どれにも応えることは出来ないけれど、この想いの詰まった結晶だけは受け取らないと男が廃る。

「お、一杯貰ったねぇ。残さず食べるんだぞ」
「へーへー、分かってますよ…そういや、あいつからは貰えたのか?」
「ぐっ!じ、陣平ちゃん。それ訊いちゃう?いや、むしろ語らせてくれ」
「うぜぇ」

校舎を出る時にそんな会話をした。俺の懇願に、松田が歩きながら顔を顰める。そして貰ったチョコのうちの一つを口に放った。行儀が悪い。落としたらどうすんだ。

「チョコどころか今日喋ってないんだけど」
「へぇ……でもあいつ、なんか持って来てたぜ」
「は!?ちょ、なん、だ、誰にあげてたの!?」
「さぁな。実は本命がいたりして」

くつくつと喉を鳴らして言う。楽しそうにすんな。俺にとっては死刑宣告。よっぽど酷い顔をしていたのか、松田は俺の顔を見てすぐに黙り込んだ。もしこの親友の言う通りなら、どうすりゃいい。応援?できるか馬鹿野郎。妨害?いや、それは現在進行形でやっている。恋路じゃなくて生き方に、だけど。まさか生身の人間が敵になるとは考えていなかった。彼女を縛っているのは、もっと別の、目に見えない何かだと思っていたのに。いや、もしかして相手はいつも会いに行ってる誰かさんか。

「そんなに気になるなら本人に訊けばいいだろ」
「いや、それは無理っしょ。粉々に砕けちる……、
「萩原と、松田…お疲れ様」

下駄箱から俺達を見ているのは、たった今話題に上がっていた彼女だ。もちろん驚いたけど、その反応に少し違和感を覚えた。でも、その理由を考えている暇はない。だってその手に提げている紙袋からラッピングされた何かが見え隠れしている。本当に用意していたのか。

「なぁ、それ誰にやるんだ?」

袋を指差して松田が尋ねる。いやいや、なに普通に訊いてんだお前は。大声を出しそうになるけど、ぐっと堪えた。平常心だ。そう、これはただの雑談。

「別に誰にも。貰った時のためにお返しを用意してただけ。これは余りだから持ち帰る、
「っ、それなら俺にも一つ頂戴…じゃなくて、くれませんか?」
「なんで敬語なの?別にいいけど、萩原が貰ったやつの方が手が込んでて美味しいと思うよ。味はあんまり期待しないでね」

そう言いながら手渡された袋を、大事に受け取る。義理も義理だけど、いい。というか、貰った全員が義理だったわけだし。とりあえずは一安心。見たところチョコではないらしい。溶ける心配はなさそうだ。それならと、制服のポケットに仕舞った。

「松田も良かったら」
「ついでかよ」
「いや、なんか甘い物食べなそうだし。苦手だったら悪いかなって」
「お前、他人に気遣えたんだな…イッテェ!」

光の速さで拳骨を見舞う。ああ、いけない。口より先に手が出るなんて、どこかの誰かと一緒じゃん。反省してると、苗字が小さく笑うから、松田には悪いがどうでもよくなった。そしていざ帰ろうとしたら、背後からその親友を呼ぶ声がする。振り向けば一人の女の子。たぶん下級生だ。へぇ、隅に置けないね。

「悪りぃ、先帰っててくれ」
「はいよ、行ってらっしゃーい」

ヒラヒラと手を振れば、舌打ちされた。なんで。その背中を見送って、ふと横を見れば彼女はまだそこにいた。あれ、もしかして一緒に帰る流れか。

「じゃあ、またね」

ですよね。淡い期待をした自分を慰めて、手を振ろうとした。だけど、ついさっきの違和感を思い出して、引き止める。不思議そうに見つめ返す彼女に、尋ねた。

「あのさ、さっき俺を先に呼んでくれたよね?松田といる時は、いつもあいつに声をかけるのに」
「そうだっけ?」

やっぱり無意識か。余計に傷付くなぁ。今までの行動を思い返しているのか、苗字は暫く考え込む。黙って待つこと数秒間、答えが出たのか顔を上げた。

「たぶん、単純に見た目かな」
「へ・・・え、ちょ、つまり俺よりあいつの顔の方がタイプってこと?」
「いや、そういう意味じゃなくて…ほら、松田の髪の毛ってフワフワしてるでしょ。目立つんだよね。だから先に声をかけてたんだと思う。ほとんど無意識だったけど」
「俺もパーマかけようかなぁ」
「っ、ふは。萩原は今のままで充分魅力的だよ」

砕けたように笑うから、思わず釘付けになる。花が咲いたみたいだ。思えば最初に会った頃より、表情豊かになったよな。こうして話していても、笑ってくれる瞬間が増えた。関わる度に、初めて見る君がいる。もっと色んな顔が見たい。これからも、ずっと。

「ありがと。じゃあさ、さっきは…なんで?」
「ああ。それは、萩原のことを考えてたからだよ。そうしたら、階段から下りてくるのが見えた」

その答えに息を飲む。彼女は今、俺のことを考えてたって、そう言ったのか。こんなの、期待しない野郎がいるならお目にかかりたい。偶然だって、そう言われると思っていたから、どんな反応すればいいのか分からねぇし。

「それじゃあ、今日バイトがあるからもう行くね」

放心状態の俺を差し置いて、彼女が手を振って去って行く。いや、どうしてくれるの。今日、眠れないんだけど。油断したらニヤけそうになる口元を手で覆う。ズルズルと蹲って「マジか」と呟いた。

**

「萩原せんぱーい!」
「はぁーい」
「卒業おめでとうございます!」
「ありがと〜」

下級生に向かって、笑顔で手を振る。お洒落をして、頬を紅潮させる姿は可愛い。そんな俺を見て、隣で松田が顔を顰めた。来るか、お説教タイム。ところがその視線は、身構える俺をすり抜け背後へと注がれる。釣られて振り向けば、あの背中。騒ぐ生徒達の間を器用に歩いて、校舎の中へと消えた。

「オラ。出番だぞ、優男」
「あー、実はさ…なんて声かければいいか迷ってんだよね。陣平ちゃん、知恵貸してくんない?」
「はぁ?お前・・・そこらの女とは流水みたいに喋るくせに何言ってんだ。笑わせんな」

うわぁ。桜の下でガン飛ばすのやめてほしい。苦笑しながら歩き出す。同じ学校に通えるのは今日で最後。あの期限付きの約束は保険に過ぎない。どちらにしても、彼女から俺に何かアクションがあることはまずない。たぶん、このまま別れたら一度も連絡がくることなく終わるだろう。その方がきっと、俺も苗字も楽だ。俺は君じゃない誰かの隣を歩いて、笑う。彼女はひとり何処かへ消える。それが自然な結末。でも、出会ってしまった。

「苗字」

誰もいない廊下で佇む背中に声をかける。振り向いた肩の上で、サラサラと髪が揺れた。特に驚いた様子なく視線で俺を捉えると、苗字が少し笑ったように見えたのは、きっと気のせい。歩み寄って、気付く。鼻を掠めた、初めて嗅ぐ匂い。新しいシャンプーかな。

「……萩原」

その唇に名前を紡がれる喜びを知ってしまった。もう、君と出会う前の俺には戻れないんだ。だけど、後悔なんてないよ。少しくらい険しい道の方が燃えるってもんだろ。全て終わった先で笑えていれば、勝ちだ。

「おめでとう。あれ、その顔は何のお祝いか分かってないな。卒業と、あとは志望校合格を祝して」
「ありがとう。でもお互い様だよ。萩原も、おめでとう」
「・・・俺、大学のこと言ったっけ?」
「いや、松田に聞いた」

ああ、成程。目元を緩めて祝ってくれたのに、素直に喜べない自分がいる。高校最後の一年は、きっと俺より松田の方が彼女と沢山話しただろう。たとえ他愛のない会話でも、その全てを共有したかった。なんて、我儘すぎるよな。

「そっか」
「萩原。お願いだから、ちゃんと楽しんでね」
「え、どういう意味?」
「私にはよく分からないけど、人生の中で学生生活は特別なものらしい。だから、松田とふざけたり、他の誰かと笑う時間を大切にしてほしい」

他の誰か、ね。なんでそこに自分をカウントしないかな。君と過ごす時間が、俺にとってどれだけ価値のあるものか、どうしたら分かってくれる。どうせさっきの会話も『私と過ごすよりも』って言葉を隠したつもりなんだろう。きっと彼女にとってはそれが普通で、その普通を実行しない俺の方が異常に見えているに違いない。

「もしかしてさ、苗字と一緒にいる時、俺が苦しんでるとか思ってないよね?」
「……やっぱり本当は宇宙人でしょ。それとも読心術でも使えるの?」
「ふはっ、まさか!」

真顔で尋ねてくるから、思わず吹き出す。なんかもう、どんな反応でも愛しい。肩を震わせる俺を怪訝そうに見つめてくる。大きな瞳を覗き込んで、手を取った。簡単に振り払えるくらいの力なのに、彼女はそうしない。それが、この3年で俺が掴み取ったものだ。

「忘れないで。君と過ごす時間は、俺にとって宝物だ。今までも、これからもね。だから絶対に失いたくない。苗字は?俺といると苦しい?」
「……時々ね。でも不思議と嫌じゃないんだ」
「そっか・・・何が大切かは、俺が決めるよ」

苦しめたいわけじゃないのに、なんでか安心した。どんな感情でも、俺が理由で植え付けられるなら、なんだっていい。そう正直に言ったら、怒るかな。そんな心内を誤魔化すように少し語気を強めて、告げる。

「俺の特別は、君がいなきゃ叶わない。俺を思うなら、傍にいさせてほしい」
「────我儘だね」

そう言って微笑んだ君を、目に焼き付けた。お陰でその笑顔はずっと瞼の奥に刻まれて、死ぬまで消えてくれなかった。大切な一瞬だったはずなのに、最後には悲しい記憶にしてしまった。忘れたくなんてないのに、記憶の中でしか笑ってくれないなら要らないと思ってしまった。綺麗だから苦しいだなんてさ、捻くれてるよな。おまけに中途半端で、どうしようもない男だ。だってそうだろ。俺は結局、この我儘を突き通せなかったんだから。

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