神様はもう要らない



※北と従姉妹、エセ関西弁。

嫌なことがあった日、挫けそうになった時、私が思い起こすのは決まって彼の背中だ。一歩先に立ち、こうあれと見本を示してくれる。まあ、一度だって同じようにできたことはないのだけど。

「難しいことなんてない、名前も"ちゃんと"やったらええ」

信介は自分を過大評価しない。過小評価もしない。なんて事ないって顔で淡々と熟し、結果を出す。頭がいいくせに、それがどんなに凄いことなのか分かっていないのだ。私は、兄弟でも家族でもない。それでも幼い時からずっと見てきた。信介が頑張ってきたことは、私が誰より知っている。だから私は、結果が伴わなかろうがその過程を肯定する。たとえ他の誰が後ろ指を差し笑おうが、私だけは信介の味方でいる。傲慢だと思うけれど、それが私にできる唯一だ。それすら許されなくなるのが、途方もなく怖かった。

「ごめん、もう一回言って」
「ユニフォーム、貰ってん」

電話越しに聞こえた声は、ほんの少し震えていた。ひょっとしたら、泣いたのかもしれない。その姿を想像してみたら、もっと嬉しくなった。素晴らしい結果を、当たり前のことだと思ってほしくない。信介には、頑張った分だけ喜んでもらいたい。

「おめでとう」
「おお、ありがとぉな…なんや、黙まりこくって」
「信介・・・私、ちゃんと見てるよ」
「はは、せやな。ほんなら、名前が俺の神さんやな」

高3の夏。インターハイ当日、私は会場の外で信介を探していた。兵庫から応援に来たバァちゃんを席に座らせて、観客やら選手やらで騒つく中を歩く。どいつもこいつも大きすぎる。ガリバー旅行記か。"稲荷崎高校"の文字がないかキョロキョロと視線を巡らせた。そしてやっと見つけた団体の先頭にその姿を見つける。

「しんす、
「きゃー!侑くん、こっち向いてー!!」
「治くん、今日もかっこいいわぁ!!」
「け・・・」

え、なにあれ。アイドルみたい。怖っ、声かけるの嫌だ。片手を挙げた状態でフリーズしてしまう。コンサートかと勘違いするほどの声援。女子達が手作りのうちわを振っている。信介うちわ、持参してないんですが。手を引っ込めて縮こまる。あの中を押し分けていくなんて、とても無理。と言うより、御免被りたい。大人しく席に戻って観戦しようと、背を向けた。

「名前!」
「ひぇ!」

突然名前を呼ばれて変な声が出た。恥ずかしくて口元を覆って恐る恐る振り向けば、予想通り信介が片手を挙げている。その爽やかな笑顔やめて。気付かれてしまった手前、逃げるわけにいかなくなった。忍び足で近付く私を信介は眉を顰めて見てくる。とりあえず激励だけできればよかったのに、その背後からヌッと現れた二つの影にそれどころじゃなくなった。

「あかん、サム。北さんに春が来てしもた」
「待ちや、ツム。実は妹ってオチもあるで」
「・・・侑、治。やめや、怯えとるやろ」

さっき騒がれていた二人が、遥か高みから私を見下ろしてくる。同じ顔、双子だ。髪型と色で見分けるしかない。そういえば前に信介が言っていた、後輩に面白い双子がいると。面白いというのは賛辞の言葉。確かに、そんな雰囲気がある二人だ。あの人気は、バレーの技術も理由の一つなのだろう。

「金髪右分けがツム、銀髪左分けがサム・・・なんかアメリカ人みたい。あ、残念だけど彼女でも妹でもないよ。信介とは従姉妹で、同い年」
「アメリカ人て!ウチの外国人枠はもう埋まっとります」
「先輩やないですか!確かに、北さんに似とりますね」

信介はあんまり冗談言う方じゃないけど、この二人は典型的な関西人だ。ツム君は声が大きくてサム君は暗色だから怖いけど、どちらもタレ目なのがいい緩和剤になってる。信介が可愛がるのも分かるな。

「そうかな?顔は似てても、信介は私よりずっと凄いよ。二人ならよく知ってると思うけどね」
「はは、よう知ってます」
「名前、俺らはそろそろ行かな」
「あ、そうだよね。引き止めちゃってごめん!これを渡したくて……はい。朝作ったから皆で食べて」

そう言いながら小さな紙袋を渡す。中身はレモンの蜂蜜漬けだ。信介は無表情で受け取り、中を見てからふっと笑った。この顔は子どもの頃によく見た。可愛いなぁ。つい昔の癖で、額の辺りをポンポンと撫でる。その光景に周りの人達があんぐり口を開けた。ほんわかしていると、信介が眉を寄せて私に言う。

「知っとると思うけど、主将やねん。頭ポンポンはやめてくれへんか?威厳が台無しや」
「あ、ごめん。だって信介のおでこ、丸くて可愛いから」
「「名前さん……最強や」」

双子が呆然と一言。気付けばギャラリーの皆さんまでポカンとしている。やば、目立ちたくなかったのに。サッと手を引っ込めて、苦笑いをして誤魔化してみる。そっと目を伏せて小さく息を吐いた。誰より近くで見ていたいと思うけれど、信介は常に前へと進んでいる。私はきっと置いて行かれるだろう。いつか、私じゃない神様が現れる。

「バァちゃんから伝言。信介の活躍、期待してるって」
「俺は凌ぎ役。暴れんのは、こいつらの仕事や。にしても今の言い方やと、名前は期待してへんってことか?俺の神さんなんやから、"ちゃんと"見とき」
「っ・・・うん」

声が震える。ポーカーフェイスは割と得意だけど、笑えてるだろうか。今はまだ見えている背中は、そう遠くない未来で視界から消える。それまでは貴方の神様であることを許してほしい。私の足が動く間はどうか、どうか−−−。

ツム君とサム君はやっぱり凄い。プレーしたことない私でも分かる。何より楽しんでいる。バレーが好きだと伝わってくる。きっと努力も惜しまないのだろう。好きなことを頑張れる人は無敵だ。そして、烏野高校との試合の2セット目、信介がコートに入った。観客席から見た横顔はあまりにいつも通りで少し笑ってしまう。「頑張れ」と呟こうとして、やめた。信介にとってそれは当たり前のことだ。息をするのと同じくらい当然のこと。神様わたしにできるのは見守ること、ただそれだけ。信介がコートに立った瞬間、ピリッと空気が僅かに揺れた気がした。なんだろう、口の中に氷を入れたみたいな感じ。熱くなり過ぎた口内を一気に冷やす。信介らしい。思わず乗り出す私をバァちゃんが嬉しそうに見ていることにも気付かなかった。自分がプレイしているわけではないのに、それくらい夢中でワクワクしていた。

最後の瞬間、信介は何を思っただろう。内緒だけど、そのとき私はボールが落ちると確信してしまっていた。神様失格だ。試合終了の笛が鳴る。整列する彼の表情はよく見えなかった。信介のことだ、泣きも笑いもしていないのだろう。"ちゃんと"やってきた結果だから、受け入れるに違いない。コートから姿を消す選手達に、思わず腰を上げた。何も言葉が出てこなくて、喉に石が詰まったみたいだ。咄嗟に隣を見ると、バァちゃんが頷いて笑った。行っといで−−−その声を合図に走り出す。観客席傍の階段を駆け上がる。何を言うかなんて決めていない。ただ、姿が見たかった。

「信介!!」
「名前・・・なんや泣きそうな顔しよって。そない無様な姿見せた覚えはないでっ、
「一番かっこよかったよ」

揶揄うように笑うから堪らず飛び付く。他の選手に比べて少し小さな身長。だからこうして頭を撫でられる。こんな風に触れ合うのは幼い頃以来かもしれない。だって仕方ない。言葉じゃ伝えられそうにないのだから。

「普段からこんくらい積極的やといいんやけどな。ありがとぉ・・・流石は神さんや。名前に褒められるのがいっちゃん嬉しいわ。あと言いづらいんやけど、そろそろ離してくれへんか?めっちゃ目立ってんで」

クツクツと喉を鳴らしながらそう言われて、我に返る。ハッと身体を離してそろりと周りを見れば、試合後で疲れているだろうに、稲荷崎の皆さんの微笑ましげな顔が並んでいる。めちゃくちゃ気まずい。試合には負けたのに、なんだか喜んでいるみたいに見えてしまったかもしれない。急に気持ちが萎んできて、ゆるゆると視線が落ちる。

「急に静かになりおって忙しい奴やな」
「名前さん!!」
「っ、はい!」

揶揄う信介の後ろから、ツム君とサム君が揃って私を呼ぶ。思わず声が上ずった。ふたりはやけに真面目な顔で私を見ている。やっぱり敗戦後にこんなテンションはまずかっただろうか。信介の正論パンチは慣れているから平気だけれど、高身長のふたりからの叱責はなかなか怖い。緊張しながら返事を待っていると、まずツム君が口を開いた。

「次は絶対勝ちます!北さんに自慢の後輩だって言わせてみせますんで」

一歩前に出てそう言われる。その瞳には闘志が満ち溢れていた。それを見て、嗚呼、信介が居る。そんな風に思った。言葉や態度は違くても、それはいつも信介が見せる瞳によく似ていた。信介のバレー人生は、このふたりにちゃんと引き継がれている。彼らだけじゃない、他の後輩達にも。

「名前さんも見とってください、北さんの隣で」

サム君が続ける。楽しそうな声は、もう次の試合を見据えているようだ。私に、何が言えるだろう。選手でもない。家族でもない。当事者じゃないのに、彼らに贈る言葉など持ち合わせていない。頑張れ、なんて月並みな台詞しか浮かんでこない自分の脳みそが憎い。唇は震えるだけ。拳を強く握ってみても、声は出ない。何も言わない私を、不思議そうに皆が見る。

「応援はすんで。試合も観に行く。せやけどこいつは俺の神さんやから、お前らにはやらん」

ぱちくり。私だけじゃない、双子を含めたチームメイトも瞬きを繰り返す。数秒後、やっと心が穏やかになってきた。そろりと隣を見れば、いつも通り無表情の従兄弟がいる。もはや照れを通り越して尊敬する。邪な気持ちなんて露程もなく、常に本気。だからこそ余計に質が悪いのだ。

「なんや、やっぱり春来とるやないですか」
「ええから、お前ら先行っとき。俺もすぐ戻る」

呆れたように言うツム君に、信介は階段下を指差してそう命じた。有無を言わさぬ雰囲気に、選手達は渋々と階段を下りていく。ぶんぶんと腕を振る双子に、私も小さく手を振って見送った。しん、と静寂が落ちる。台風の後のようだ。

「名前」
「はい、なんでしょう」
「なんやその返事、使用人か・・・目逸らすなや。神さんは、もう必要ないねん」

嗚呼そうか、今日で終わりなんだ。お役御免。ちゃんとこうして言葉にしてくれるのが信介らしい。これから私達は、ただの親戚同士。正月の集まりでしか顔を合わせることもないし、電話の回数も減るだろう。寂しいと言ったら、困らせてしまうかな。それでも一度くらい、困らせてみたい。

「嫌だ。一年に一度しか会えないなんて絶対嫌だ」
「なに言うとんのや。そんなの俺も無理や。好きな女に一年に一遍しか会えへんなんて七夕やあるまいし」
「ちょちょ、ちょっと待って。今さらっと凄い重大な事実言わなかった!?」
「言っとらん。ただの事実や」
「真顔やめて!!」

ネガティブな思考が吹っ飛んで、首から顔へ熱が駆け上がる。好きな女。その言葉の意味は、本当に私と信介で共通しているのだろうか。信介のことは好きだ。ずっと私の一番身近にいる男の子。でもそれが恋愛かどうかだなんて考えたこともなかった。いや、違う。無意識に避けてきた。だって疑わなかったから−−−いつか私じゃない女の子が信介の隣に並ぶことを。所詮は代役だと、そう思っていないとその時に耐えられる自信がなかったから。でももし、そんな瞬間が二度と来ないなら、神様なんかじゃなくて、ひとりの女の子として信介の隣に立っていられる。

「私、隣に居てもいいの?」

声が震えた。信介はそんな私を目元を緩めて見つめると、珍しく声を漏らして笑う。彼がこんな風に笑うことを知っているのは、私だけがいい。まだ答えを貰ってないのに、そう思った。私はきっと、存外欲張りなのだ。

「おん。頼むわ」

そう言って、信介は私の髪を撫でる。立場逆転だ。でも心地いい。神様じゃなくていいなら、もっと甘えてみてもいいだろうか。自分より何倍も骨張った指を遠慮がちに握ってみる。上手く視線が合わせられなくて俯いていると、信介が可笑しそうに肩を揺らした。

「ふはっ、下手くそ。こうやんのや」

握っていた指がするりと抜けて、包み込むみたいに手を握られる。驚いた。信介の手はこんなに大きかったんだ。胸がじん、と熱くなる。小さなふたつの手を繋いで走り回ったあの頃とは違う。いつの間にか背丈は追い抜かれて、見えるのは横顔じゃなくて背中になった。でも今、信介は近くにいる。手を伸ばせば、こうして応えてくれる。これからも、私の傍に。その事実だけでいい。他には何もいらない。

「私、神様失格でいいや」

−−fin.−−



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