心に傘を差す人



※秋彦視点。百合女主で家族愛です。


それって初恋じゃねぇの−−−いや、違う。これは恋なんかじゃない。いつだったか誰かに尋ねられて、内心そう否定した。ただ、初めてという点に於いては正解だろう。恋愛じゃない愛は、これが最初で最後。ひと目見た瞬間に、抱きしめてほしいと思った。それは決して恋愛的な意味じゃなく一種の甘えみたいなもので、母親に縋る子どもみたいな感情に近かったと思う。あの日は確か、ひどく寒い冬の日で、朝早く散歩に出た俺は、近所の神社であいつを見た。ベージュのコートを羽織り、左手にビニール袋を引っ提げて。宙に吐き出された息が白かったのをよく憶えている。葉の落ちきった木を眺める横顔は、凛としてただ綺麗だった。

「へえ、感心だね。こんな時間にお参りかな?」
「え・・・あ、えっと、散歩、です」
「そう、なら私と一緒だ」

柔らかく笑って声をかけられた。上手く返答できない俺を揶揄うように見つめて、袋から出したココアを放る。咄嗟に両手で受け止めて顔を上げると、女は俺が立ち尽くしていた階段に腰掛けてコーヒーの缶を開けた。服が汚れないのか不安に思ったが、気にする素振りは一切ない。

「私はここの娘でね」
「はぁ、そうなんですか」
「だが神は信じてない」
「神社の娘として、それはどうなんですか」
「ここに来る人が信じていれば、いいんじゃないかな。ひょっとしてココアは嫌いかい?」
「いや、別に」
「なら飲むといい。そして座りたまえ、少年」

自分の右隣を叩きながら、女は歯を見せて笑う。別に用事があるわけでもなかったから、黙って隣に座ってココアの蓋を開けた。開け口から出てきた湯気ごと飲み干すと、一気に身体が温まる心地がする。

「しかしさ、縁というものは信じているんだ。だから君に声をかけた。5分でいい。お喋りしよう。私は名前。君の名前も教えてくれるかい、少年」
「秋彦です」

何故かすんなり答えてしまった。縁と呟いた時の瞳にほんの少し憂いが宿った気がしたから。俺が名乗ると彼女は嬉しそうに目を細めて、小さく頷いた。

「秋彦くん。見たところ中学生くらいかな?」
「はい・・・名前、さんは」
「私は高校生、ちなみに3年だ。秋彦くん、すまない」
「何がですか?」
「私はきっと、今から君を困らせる。だが、何も言わなくていいし、心を寄せる必要もない。ただ暗い音楽でも聴いたのだと、思ってくれ」

訳が分からず見つめ返してみても、彼女はすでにこちらを見てはいなかった。曇った空を見上げて、くるくると手に持った缶を弄んでいる。そして瞳を閉じると、穏やかな声で呟いた。

「昨日ね、恋人が死んだんだ」

思いも寄らない内容に、心臓が跳ねる。無意識にその横顔を見つめると、彼女はまだ目を閉じたままだった。そして微笑を浮かべて続ける。

「雪みたいに白い顔で眠る彼女を見て、心が凍っていくのを感じた。私の心には二度と春は来ないとまで思ったが、意外と早く雪解けがきたようだ。私が薄情なのか、それとも彼女からの叱責かな・・・あの子の髪は、君のとよく似ていたんだ。ただそれだけで、私は笑える」

乾き切った笑いが宙を舞うのを、ただ聞いていた。彼女は最後にありがとうと言って、俺の頭を撫でてから音も無くどこかに行ってしまう。その気配が消えてもココアが冷めても、俺は動くことができなくて、一人目の参拝客が来て初めて立ち上がった。それが俺とあいつ−−−名前との出会いだ。悲しくて鮮烈で、温かなおとだった。

−−−−−

結局その後も、俺と名前の奇妙な関係は続いた。と言うより、頻繁に顔を出すようになった俺を彼女が面白がって、ふたりで他愛のない話をする。それだけの時間だったが、楽しかった。高くも低くもないその声はひどく心地よくて、女らしくない口調のくせに甘い匂いのする髪が印象的だった。高校で初めて雨月に会った日も、いつもの様に話せない俺を怪しむこともせず、名前はその日食べたスイーツについて詳細に語って聞かせた。

「あき」

いつの間にかそう呼ばれるようになった。もう俺の方が背が高いのに、名前はいつまでも野良猫にするみたいに髪を撫でる。少し背伸びをして両手を伸ばす姿を見ると無意識に身を屈めてしまうのだから、俺も大概だろう。それでも何故か、その身体を抱き締めたいと思ったことはない。どんなに心が荒んでいても、俺はきっと名前を抱こうとは思わないだろう。

「大事な相手ができた。あと、もう一度ヴァイオリンをやろうと思う」
「それはめでたいな。何か贈らせてくれ。欲しい物はあるか?」
「ふたりで飯が食いたい」
「なんだ、そんな事か。分かった、どこか店を予約しておこう」
「いや、名前の手料理がいい」

やっと前を向けてから、名前に伝えに行った。暫く振りに訪ねても、驚く顔すら見せない。突然の報告にも、笑って返してきた。ところが手料理を強請ってみたら、目を見開くから少し面白くなった。俺の要望に喉を鳴らして笑うと名前は大きく頷く。

「何が食べたい?」
「生姜焼き」

名前の料理は美味い。会ったことはないが、兄貴が三人いて、うち二人は料理人らしい。その影響か、時々寄越されるクッキーやマフィンも市販のやつより美味かった。出てきた生姜焼きから昇る湯気に、思わず口角が上がる。

「さぁ、食べようか……頂きます」
「頂きます」

白米と一緒に掻っ込む。ふと顔を上げると、名前と目が合った。その瞳に、初めて会った日の憂いを見た。なんでそんな顔するんだと、そう訊こうとした唇は震えただけ。こいつは、よく喋るわりに心の一番奥は見せない。箸を止めて数秒、結局何も言わずに笑う。帰り際、玄関先で振り返れば、名前がまた手を伸ばす。目を閉じてその温もりを享受する。ふっと空気が震える気配がして瞼を上げると、泣きそうな顔で笑うから、身体が硬直した。そしてこいつはまた、そっと俺の心臓を叩くんだ。

「あき−−−私はもう、大丈夫だ」
「……なんだよ、それ」

鼓膜を揺らした自分の声に温度はなかった。それでも、目の前の女は怖気付くどころか一層笑みを深くする。疑問の言葉しか吐けない俺に止めを刺すように、名前はまた唇を動かし始めた。

「言葉のままだよ。気付いているだろう?傷は塞がった。疼くことはあっても、痛みはささやかなものだ。瘡蓋のように、最近は心地よくすらある。君の手を煩わせることはもうないんだ。すまない。君と過ごす時間がとても楽しくてね・・・つい甘えてしまった。ここにも、もう来なくていい。君には心から感謝しているよ……本当にありが、
「ふざけんなっ!!なにひとりで勝手に決めてんだ・・・っ、逆だろうが!!縋っていたのはっ、俺だ!救われていたのも、甘えていたのも、全部、俺の方だ。なのに自分の所為みたいな顔しやがって……っ、はっきり言えよ、要らなくなったって。俺はお前のそういう所、大嫌いだ」

怒鳴り声が静かな部屋に響く。強い言葉をぶつけたくせに、視線を合わせられなかった。大嫌い−−−心にもない拒絶だ。名前が息を飲んで、戸惑うように俺の名を呼ぶ。やめてくれ、余計に自分が惨めになる。さよならを言わせたかったわけじゃない。分かっている。こいつは俺のために身を引こうとしているんだ。初めに手を伸ばした側として、俺を傷付けないように、悪者になろうとしている。でも違うんだよ。恋人でも友達でもない、熱じゃなくて温もりをくれる相手。そういう人間を俺はこいつ以外知らないし、知りたくもない。

「そうか……それは本当にすまなかった。私の我儘に付き合わせてしまったね。ここで涙を流す資格など私には無い。あき、最後だ。せめて顔を見せてくれないかい?」

髪を撫でられるのが好きだった。求められることが多かった中で、ただ話をして飯を食うだけの関係が堪らなく心地良かった。なのに今は、頬に触れる指の熱がこんなにも怖い。

「私、君のことが好きだった。大好きだったよ、本当に。だからこそ、綺麗に別れたいんだ。一言でいい、どうか君のサヨナラをくれないか?」

復唱できるはずもない。まるで続けて言えとばかりに覗き込んでくるから、思わず後ずさる。宣言通り涙の欠片すら見せず、その瞳はちっとも潤んでもいなかった。笑みすら湛えて、俺を見る。強かで凛々しくて、逞しい。腕の中で鳴く女達とは違う。屈服しそうになる。喉が、震えた。

「嘘でも言えるわけねえ、そんなの……ほんと卑怯な女だな、クソッ」

勝手に右手が動いて、気付けば細い腕を叩き落としていた。乾いた音が響いて初めて、自分が何をしたのかを理解する。俺はその時、初めて名前を拒絶した。華奢な身体が倒れ込むのがスローで見える。反動で置いてあった花瓶も床に落ちて割れた。我に返って駆け寄り、肩に触れて惑う。そこは小刻みに震えていた。

「え、ちょ、泣いてんの?」
「ああ、心は大雨だよ。ずっと、今日が怖かった…初めて君を見た瞬間、彼女が戻って来たと思ったんだ」
「知ってるよ、元カノの代わりだったことくらい」

自嘲しながら、避けて来た真実を吐き捨てる。ずっと分かっていた。俺の髪を撫でるのは、いなくなった誰かを重ねていたんだろう。それでも心地よかった。俺はこいつに男として愛してほしいわけじゃなかったし、背伸びする必要も見返りもなくいつだって迎えてくれるから。

「そう割り切れればよかったのかもしれない。だが生憎私は、君を見て彼女を思い出すことはもうないんだ」
「じゃあお前、俺のこと何だと思ってるわけ?」
「難しい問いだ。そうだな……傘を差す者、かな」
「・・・いや、訳分かんねえ」

弟とか友達だとかなら、まだ分かる。何なんだ、傘って。体の力が抜けて、床に散らばった花瓶の破片に手を伸ばした。一つ一つ摘んで、玄関にあったちりとりに乗せていく。そうしているうちに、その単語の意味をなんとなく理解した。思わず口元が緩む。

「前言撤回……分かったわ、お前の言ってること。俺もだ。大事な相手ができたって言っただろ?たぶん、俺にとってのそいつは、お前にとっての元カノで……顔を見ると途端に止むんだよ、どんな雨も。ここが晴れる」

胸を指差して見返せば、よく知ってるとでも言うように名前が頷く。そういう相手はかけがえのない存在で、無敵なんだと思う。だからって、それ以外が不要になるわけじゃない。少なくとも俺にとって、こいつは必要だ。

「でもお前は、違う」
「ああ、そういう相手は唯一無二だ。君が彼女の代わりにならないように、私もまたその彼の代わりにはなるまい」
「傘か……いい例えだ。好きに畳んで、雨に濡れたいときは付き合ってくれるんだろ?」

雨の日の独特な匂いとか、鬱陶しい湿気とか、そういうのを吹き飛ばす存在じゃない。ただ並んで「嫌だね」と微笑む、そんな奴だ。たぶん、こいつにとって俺もそうなんだろう。挑発的に尋ねると、名前は目を細めて笑った。

「それは実に楽しそうだ。今度雨が降った時は、ワルツでも踊るかい?」
「柄じゃない。俺が弾くから、ひとりで踊れ」
「つれないな」
「で、マジでサヨナラすんのか?」

揶揄うように覗き込む。本心が分からないほど鈍くはない。ここで恥じらったりしたら面白いのに、喉を鳴らしてまた髪を撫でてくる。敵わない。そっと目を伏せると、喉を鳴らして名前が言う。

「いや、無理そうだ。私は君が大好きだからな」
「知ってる」
「今度、フィアンセを連れて来るといい。コーヒーでも飲みながら、君の恥ずかしい話を聴かせよう」
「ネタがあり過ぎて不安しかねえ」

−−fin.−−



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