悪夢は突然に



※はとり視点、母親の名前は固定。


────あれは草摩の面汚しだ。

父は実の妹をそう揶揄した。決して温厚な人間ではなかったが、あそこまで冷たい声を聞いたのは後にも先にもあの時だけだ。会ったこともないその女性は、父の吐いた言葉通りの人間として俺の記憶に刻まれた。だから、初めてその姿を見た時はひどく驚いた。抱いていた印象とあまりにかけ離れていたから。古ぼけた写真の中で、風に靡く髪を鬱陶しそうに押さえながら微笑んでいた。

「お父上があの女性ひとのことを、はとり君にどのように話したかは想像に難くないですが・・・彼女はとても心根の優しい女性ですよ」

後に猫憑きを引き取ることになる彼は、呆然とする俺にそう言って笑った。暗く狭いこの場所で育ちながらも、心は枯らさない。その女性はそういう人間だったと知らされる。写真越しの邂逅によって、暗いだけだった印象が俺の中でひどく眩しいものに塗り替えられた。

「はとり君が物心つく前にここを去ってしまいましたが、君が生まれたとき彼女はとても喜んでいました。胸が痛むことがあった日は今でも彼女のことを思い出します。そうすると、不思議と前向きになれるのですよ」
「彼女が今どこにいるのかご存知ですか?」
「いいえ。草摩を出る理由も、どこに行くのかも、彼女は何一つとして告げなかった。人伝にこの家の敷居を跨ぐことを禁じられたと聞きました。強い女性でしたから、今もどこかで笑っているでしょう」

否、違う。彼女は自ら去ったのだ。二度と戻らないと誓うことで逃げ道を塞いだ。父は恨み言を吐きながらも、どこか未練があったように思う。立場上その存在を疎ましく感じつつ、迷いなく飛び立った姿に憧憬の念を抱いていたのかもしれない。この檻から出られない以上、彼女に会うことは一生ないだろう。俺のような、草摩の呪いの中心にいるような人間は、その呪縛から逃れることなどできないのだから。

「いやぁ、もうすっかり春だねぇ」

高校2年の春のこと。春休みを間近に控えたその日、俺達は普段通り帰路についていた。紫呉が空を仰いでそう言うと、綾女が訳の分からん言葉を並べ出す。なんてことない、いつもの帰り道に俺の心は一瞬で乱されることになる。

「あ、知ってる顔だ」

背後から聞こえた声に振り返った。前を行く二人は気づいていない。声の主を探すと、一つの影を捉える。そこには少女がいた。日本人離れした澄んだ青色の瞳が、真っ直ぐに俺を映している。首にはカメラが掛けられている。

「こんにちは、草摩はとり君」

微笑を浮かべて彼女はそう言った。初対面のはずの相手に名前を呼ばれ、警戒心が増す。それとも、俺が知らないだけで草摩の人間なのか。

「なになに、はーさん。僕の知らない間に他校の女子と知り合いになってたの?」

茶化すように紫呉が肩を組んでくる。その脇から綾女が便乗して、少女に意味のない言葉の嵐を浴びせた。しかし彼女は目を逸らさない。まるで俺以外、視界に入っていないようだ。スッと伸びた背中に、高く結われた黒髪が揺れる。凛としたその佇まいに既視感を覚えた。そんな少女を、紫呉が興味深げに眺める。

「君は誰だ?何故俺の名前を知っている?」
「苗字名前です。貴方のことは母から聞きました。生家でただ一人、愛しい存在だったと。どんな家なのか気になって今日はここに来たんですけど、正直広すぎてドン引きしました。でもまさか本人に会えるなんて、今日の私はなかなか運がいい。帰りにアイスでも買おっと」

独り言のように呟きながら、大きく欠伸を零した。第一印象はちぐはぐな奴だと思った。丁寧な言葉遣いをするくせに、どこか無気力で緊張感がない。その時の俺は、彼女の言った"母"が誰を指すのか分からなかった。自分を愛しんでくれる相手など草摩にはいない。

「とりさん!僕に黙って友人作りなど、水臭いじゃないか!さあ、ずずいと紹介してくれたまえ!!」
「それじゃあ、お元気で」

騒ぎ出す綾女には目もくれず、背を向ける。風に靡く黒髪にハッとした。色素の薄い肌、絹のような髪に芯の強そうな瞳。彼女には、紛れもなくあの人の面影があった。話したことも、ましてや実際に見たこともない相手だ。それでも確信があった。興味を無くしたように去ろうとする細い肩を咄嗟に掴んだ。

「君は……美明みめいさんの、
「ええ、娘です」

まさか、相手から会いに来るなんて予想していなかった。言葉が続かない。彼女は黙ったままの俺を仰ぎ見てから、首を傾げる。何故引き止めてしまったのだろう。繋がりを持ったところで意味がない。十二支の俺が他人、ましてや女性に焦がれるなんて不毛だ。

「美明?ああ、思い出した。確か、はーさんの叔母さんの名前だね。ってことは、彼女は君の従妹なんだ。ふーん……ね、僕と友達にならない?」
「それは名案だね!とりさんの親戚は僕らの親戚!是非とも親しくしたいね!!」
「紫呉」

まずい、興味を持たれてしまった。効果はないだろうが、名前を呼び制止する。品定めでもするように見つめる紫呉に、数回瞬きして真顔で一言。

「しぐれ…綺麗な名前なのに、物凄く性格悪そう」
「え」
「友達になるのはいいですけど、私を使って遊ぶのはオススメしませんよ。たぶん、つまらないので」

恐らく、あの時ほど紫呉が間抜けな顔をすることは二度とない。のらりくらりとして、腹の底では何を考えているのか分からない。掻き乱し、愉しむ。そんな男が二の句を継げないでいる。その時、パシャとシャッター音が鳴った。

「はは、イイ顔」

紫呉の間抜け面をカメラに収め、声を上げて笑う。どうやら彼女も、中々いい性格をしているらしい。日頃から振り回されている身からすれば、少しいい気味だと思った。

「クレープが食べたい」
「は?」
「そこの公園に出店があるので、お近付きの印に奢りましょう。何にします?いちご?それともバナナ?」

俺達が返事をする間もなく、軽快な足取りで歩き出す。俺だけでなく紫呉ですら硬直したままだ。ただ一人、綾女だけが「僕はマンゴーを頼むよ!」と冷静、いや柔軟に状況に対応している。いかん、全く動きが読めない。残りの2人と同じタイプか。正直言って、予想外だ。

「はーさんと足して2で割った方がいいんじゃない?彼女たぶん、僕と同じタイプだ」
「お前みたいな人間が二人もいて堪るか。とにかく行くぞ。あいつらだけにはしておけん」

ニヤニヤとこの男、完全に楽しんでいるな。これ以上トラブルメーカーが増えるなんて想像もしたくない。急いで後を追うと、二人はすでに列に並んでいる。本当に食うのか。

「はいよ、アヤちゃん」
「有り難く頂戴しよう、名前くん!」
「なーんか…すごく仲良くなってない?いいなぁ、僕も女子とお近付きになりたい」
「お、来た。ほい、いちごとバナナ。どっちにするかはふたりで決めてね」

クレープを右手に2つ、左手に1つ持ちながら笑う。しかしいくらクレープと言っても、4つも買ったら学生には手痛い出費だろう。金を出そうと鞄を探ろうとしたが、無理だった。口ではなく、ほぼ顔全体にクレープをお見舞いされる。否応なしに口内に甘さが広がった。こっちはバナナか。顔がベトベトだ、どうしてくれる。

「じゃ、僕はいちごだね。女の子に奢ってもらうのはちょーっと気が引けるけど、有り難く頂きます」
「ふぁっき聞ひたふぇど、ふぉない年みふぁいだから……タメ口でいい?」
「あ、ああ」

こいつ、一瞬で平らげたぞ。口端に付着した食べカスを舐めとると、俺と紫呉を仰ぎ見てそう言った。なんとか頷き、大きな青い瞳に思わず後ずさる。この目はなんだ。今まで対峙した誰とも違う。見透かされているように感じるのは、この青のせいか。

「名前ちゃんって、ハーフ?」
「ううん、クォーター。父親がイギリス人と日本人のハーフなの。瞳の色は父譲り。そのせいで外国人によく道聞かれる。あ、ちなみに髪と性格は母譲りだよ」
「へぇ、美明さんってそんな感じなんだ。なんか意外だなぁ。本当にはーさんの従姉妹?」

それは俺の台詞だ。父の態度やその生き方からも薄々気付いていたが、やはり美明かのじょは変わっているらしい。その娘である名前も母親の性格を色濃く受け継いでいる。確かにこれは、草摩にとっては異分子。

「アヤちゃんの髪も珍しいね。それ、地毛なの?」
「そうとも!どうだい、この美髪!」
「皮肉なものだな、紫呉。同じ質でありながら、容易く鳥籠から飛び立つ人間もいる」

十二支という枷がある限り、同じ真似はできない。どこまでも呪いだな。騒ぎ合う二人の影で呟くと、紫呉は少し驚いて笑った。

「はーさん、それは違うよ。僕は、鳥籠ここから出たいなんて思ってない。だって外には僕の欲しいものは無いからね」
「…この性悪め」

顔を歪め見返すが、どこ吹く風。本気で相手をするだけ無駄だ。そう、こいつは呪いから解放されたいなんて思っていない。羨んでいるのは俺の方だ。視線を落とすと、下から青い瞳が覗き込んでくる。

「よっぽど息苦しいんだ、あの家。どんなに環境に恵まれていても、幸せとは限らない。君が三十路みたいな雰囲気なのは、その所為かぁ」
「三十路……」

呟く俺にカラカラと笑うと、クレープの包みをゴミ箱に放った。息苦しい−−−確かに草摩は息がしづらい。何処に行こうと薄い膜が張り付くような感覚が常に付き纏う。

「私、もう行くね」
「なんと!もうお別れかい?」
「あらら、随分とあーやに懐かれてちゃったみたいだね。でも僕も、君とは仲良くしておきたいなぁ。今後のためにも、ね」

何が今後のためだ。白々しい紫呉に軽蔑の眼差しを向けても、肩を竦めてみせるだけ。まさに暖簾に腕押し。纏わりつくような視線を向けられた当の本人はキョトンとしてから言う。

「残念ながらデコボコなんだよね、私」
「え、なにそれ。どういうこと?」
「つまり、思い通り掌で転がらないよってこと。それに草摩家自体には大して興味ない」
「ふぅん、じゃあもう僕らとは会ってくれないんだ?せっかく友達になったのに」

口を尖らせる紫呉からフイと視線を逸らし、彼女は俺を見た。そして、目を細めて笑う。恐らく、この時ほど自分の不注意を呪うことは二度とない。たった一度、瞬きをした。ほんの一瞬の間に彼女との距離がゼロになる。微かな吐息を残し離れていく唇に、頭が付いていかない。今こいつは何をした。

「へぇ…やるね」
「おお、やはり見込み通りの女性だ!」
「でも君にはちょっと興味がある。いつか本気で笑わせてやるから、よろしく」

ビシッと人差し指を俺の鼻先に向け、そう言い放った。感心する紫呉と綾女など、どうでもいい。呆然と自分の唇を指でなぞり我に返ると、目の前の女を睨み付けた。相手は女性だ。いつも通り警戒していたはずなのに、易々と踏み込まれた。

「ふざけるな、二度と会う機会などない」

己の顔が歪むのが分かる。しかし当の本人は反省するどころか声を上げて笑うと、背中を向けて去って行った。なんなんだ、一体。親子揃って人を惑わすな。油断すれば、形のいい桜色の唇が脳裏をよぎりそうになる。振り払うように手の甲で唇を拭った。

−−終−−



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