愛を失い、愛を得る(後編)



そんな簡単に好きになるほど落ちぶれてはいないと自負している。それでも、惹かれた。愛おしそうに触れるのに、幸せを願ってくれるのに、明確な言葉だけはくれなかった。キスもするし、抱き締めてもくれるのに、決して『愛している』と言葉にはしなかった。あのとき、俺の想いは唯の"親愛"だと断言してくれていたら諦められたのだろうか。

自室でそんな事を考えていたら雨音が鼓膜を揺らす。雨。そうだ、あの日も雨が降っていた。梅雨の時期だったが、何月何日かは覚えていない。景光のことを思い出しては泣きそうになる日々を送っていた頃だったと記憶している。彼と、赤井秀一と初めて会った、あの日。

−−−−−

「あの、大丈夫ですか?ずぶ濡れですけど…、傘お貸ししますよ」

思い返すと、あの時の自分は命知らずだったと思う。湿度の高い雨の日に、ニット帽で傘を差さずに大通りを往来している長髪の男に声をかけるなんて。目が合ってから後悔した。
虚無と怒り。その両方がその目には浮かんでいた。尻込みしそうになる身体を奮い立たせ、折り畳み傘を押し付けて走り去る。全速力で人混みをかき分けて、タクシーに乗るまで安心できなかった。人間を怖いと感じたのは人生で初めてだった。

それから暫くは大通りを歩くのを自粛したが、あんな安物の傘を律儀に返すことはしないだろうし、向こうは此方の顔なんて覚えてはいないだろうと数週間後には警戒すらしなくなった。そして、二度目。

「おい、君」

聞き覚えのない声。声の主を見ても数秒間は全く思い出せなかった。あれだけ怖いと思ったのに自分は存外肝が据わっているらしい。それに加え、男の見た目の変化も理由だった。あの日、背中に流れていた黒髪は襟足が見えるほど短くなっていたし、何より虚無という言葉はもうなかったから。

「あ……、確か傘の」
「君はこの道をいつも使っているわけではないのか?諦めて捨てるところだったぞ」

思ったよりも柔らかい口調。心地よいテノール。表情は殆ど崩さず、何かを手渡される。押し付けた時よりも、丁寧に畳まれた傘。返却されることはないと思っていた手前、絶句してしまった。そっと男の顔を一瞥して、やはり、その目は初めて会った日とは違っていた。あの日見た彼の目を、よく知っている。喪失感に苛まれた人間の目、そう、今の自分と同じ目をしていた。

「あの日はすまなかった。少し余裕がなかったから、初対面の君を怖がらせただろう。後から随分な態度だったと反省してな。一言詫びなければと、暇を見つけては大通りを探していたんだが、名前も聞かなかったから、今日見つからなかったら諦めようと思っていたところだ」
「いえ、こちらこそお手数をおかけしてしまったみたいで申し訳ないです。ありがとうございます」

少し年上だろうか。景光よりも背が高くて、声は低い。悪癖だ。人混みを歩くときは無意識に彼を探し、異性と話す度に景光との類似点を見つけようとする。

『ヒロが死んだ。お前が待つ相手はもう、いない』

零は嘘をつかない。相手を傷つける真実でも、絶対に偽らない。分かっていたのに、有りもしない一縷の望みに縋りつこうとしていた自分。

「失くしたものは戻ってきたんですか?」

尋ねたあとに気がつく。いけない。自分が踏み込んでいい領域ではない。まだ間に合う、誤魔化せ。一言謝って立ち去れと脳が警鐘を鳴らす。ただ傘を借りただけの女に、こんな質問をされるとは思っていなかったのだろう。初めて目を見開いて、表情が崩れる。だが、それも一瞬のことで、すぐに目を細めると自身に言い聞かせるように呟いた。

「もう、二度と戻ってはこない」

その言葉で安心した自分を嫌悪した。醜い、汚い感情。今なら分かる、相手を憐んでいたのは自分も同じだ。失った一因は俺にもある、と言った彼が自分よりも惨めに見えて、確かに私は安堵したのだ。

−−−−−

二度あることは三度ある。それからひと月と経たない内に、また彼と会った。初めて会ったときと同じ雨の日。傘もないのに夕立に遭い、どこか喫茶店にでも入って夕食もついでに済ませようと横断歩道を速足で渡っているとクラクションを鳴らされた。注意力が散漫になって信号無視をしたかと思ったが、他にも多くの歩行者がいるのにそんなはずはない。音の主であろう紺の外車を運転している人物を見て、驚いた。

「乗れ」

有無を言わせない声と点滅し始めた信号に急かされるように、右隣の助手席に乗り込む。

「お互い、よく雨に降られるな。今日は傘を持っていないのか」
「今日に限って忘れてしまって…。それより、シートを濡らしてしまってすみません」
「構わんさ。乗るように言ったのはこちらだ。…仕事帰りか?」
「はい、予定より早く帰宅できたので何か食べて帰ろうかなと思っていたところです」
「ということは夕食はまだか。俺もだ。折角だ、一緒にどうだ?」
「えっと、私まだ貴方の名前も知らないので…」
「……そうか、言っていなかったか。赤井秀一だ」
「赤井…さん。あ、私は苗字です。苗字名前」

行くとは言っていない。言っていないが、流石に乗せてもらって嫌とも言えなかった。結局断れず、通りから少し外れたバーに連れて来られることになり、お酒はあまり得意ではないと言うと軽く頷いてさらりと注文まで済まされてしまった。度数の低いものを選んでくれたらしい。

「失礼します。こちら、お客様のものですか?」

ウエイターの手には手帳が握られている。焦茶色の革製の手帳。女性が持つには少し古くさいデザインかもしれない。でも、確かに自分の手帳だ。無くさないようにと気をつけていたのに。この人といると、どうしても意識がそっちに行ってしまう。

「私のです!すみません」

慌てて受け取り、中身を確認する。これは景光が就職祝いに贈ってくれた手帳だ。『彼女に贈るのにその色はないだろ』と零は言ったらしいが、贈られた本人が大喜びしたのを見て腑に落ちない顔をしていた。その横で景光が『ほらな』と言って得意げに笑っていたのはいい思い出。

ある時から、手帳と一緒に写真を持ち歩くようになった。警察学校を卒業したときに、これから忙しくなるからと一度だけ3人で集まって、桜の下で零に撮ってもらった写真だ。

−−−また暫く会えなくなるけど、体に気を付けろよ。あと、一人暮らしなんだから、戸締りしっかりな。

母親みたいなこと言わないでと、そんな会話をしながら、そう遠くない未来にまた笑って会えると当たり前に信じていた。『暫く』なんて嘘じゃないか。ああ、だめだ。また泣きそうになる。瞬きしたら、いよいよ涙が落ちそうだった。泣くなら一人のときにしろと言い聞かせ、写真が雨で濡れていないか確かめてから手帳に挟み直す。

「…っ!そうか、君は彼の…」

隣から息を呑む音がした。写真を持ち歩いているくらいだ、写っている男が恋人であることは察しがつくだろう。何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこない。だって、なんて言えばいい。もう恋人じゃない?もういないから?どちらも違うじゃないか。

「少し、話をしても構わないか。この前会ったとき訊いたな、失ったものは戻ってきたのか、と。何故俺に、あんな質問をした?余裕がなかったとはいえ、初対面の相手に心中を悟られるほど俺は落ちぶれてはいない」

聡い人だ。自分を隠すのは上手い方だと自負している。実際、隠し事をしても零と景光以外にはバレたことがなかった。でも、どうやら例外が他にもいたらしい。

「それは…同じ、だったからです。あの時の貴方の目は私のそれと同じだったから、貴方も私みたいに大切なものを失くしたのだと思いました。でも、二度目に会ったときには、違っていた。貴方の目には光があった。それで、あんな質問をしたんです…ごめんなさい」
「何故謝る?」
「私は貴方に同情しました。貴方が自分よりも憐れに見えて、そうすることで楽になろうとした。謝罪をするのも自己満足なのかもしれません」

認めたくなかった、醜悪な自分。どんどん嫌な人間になっていく。どうしたら、綺麗な部分だけを持って生きていけるのか。一人で前に進めるのか。

「謝ることはない。だが、いつまで君はそこにいる?君は俺とは違う。俺は理解していなかった。喪失感に苛まれてから、手放してはいけない存在ものだと気がついた。だが、君はそうではない筈だ。知っていただろう、どれだけ大切か」

手放すつもりなんてなかった。愛していた。今でも愛している。この傷を抱えたまま一人では進めない。でも、捨てて行きたくない。

「忘れる必要はないさ。嘆きながらでも進め。一人で立てないのなら手を貸そう」
「同情…ですか?」
「いや、贖罪とエゴの50:50だな。君が一人で進めるようになったら、対価として俺を許してほしい」
「許す?」
「真実を知れば君は俺を許せないと思うだろう。その真実を教えることは今はできないが、必ず伝えると約束する」

この人は景光を知っている。その最期を。ごめんね、零。知らない方がいいから零は何も言わなかったのに、自分から真実を求める私を許してね。

「よろしく、お願いします」

その日、初めて目が合った気がした。ふっ、と笑った顔は少しだけ幼く見えた。二度目の恋の始まり。

−−−−−

手を貸す、その言葉通りだった。毎日会えるわけではなかったけれど、連絡すれば返事は必ず返ってきた。泣きそうになれば髪を撫でて、海が見たいといえば連れて行って、誕生日にはプレゼントをくれた。

景光との時間は春。包み込むみたいな温かな思い出が桜みたいに散り積もっていく。
そして、この人との時間は粉雪のように、静かに傷を覆ってくれる。桜の花弁は踏まないように。

『しばらく会えなくなる。決着をつけたら、必ず戻る。だが、待っていなくていい。自分で思っているよりも君は強い。走れるのなら走れ。もちろん、ゆっくり歩いていてくれてもいいさ。すぐに追いつく』

そう言われて、自然に頷いた自分に驚いた。行かないでと言えなかったわけではない。すぐに悲しくなっていた頃とは違う。『行ってらっしゃい』と『死なないで』を素直に伝えることができた。

そして、彼は戻ってきた。会えない間ちゃんと歩けていたのか自信はなかったが、抱き締めてくれた。
良くやった、と褒められたみたいで気恥ずかしくなる。

終わりが近づくのと比例して、気持ちは次第に大きくなっていく。好きだ、と思う瞬間が増えていく。だからこそ、怖かった。真実を知ったときに同じように好きだと言えるのか、自分の思いがその真実に負けそうで震える。

そして、あの日。胸を張って愛してると言えなくなるのが怖いから、思いを告げた。自分の気持ちなど、とうに見透かされていると思っていた。そんな顔をさせたかったわけじゃない。ごめんなさい。でも、溢れてくるから、これ以上優しくしないで。好きにさせないで。気づいているでしょう?前に進み始めていることに。

『一人で進めるようになったら、俺を許してほしい』

許したら、離れていくの?許さないと言ったら隣にいてくれる?

『一人で進めるようになるまで』と期限付きで認められた関係だった。もし、まだ一人では無理だと嘯いたら彼はどうするだろう。きっと黙って傍にいてくれる。こちらの気持ちに気づいているのに、『無理だ』という言葉だけしか聞こえない振りをして。そういう人だ。優しいのか残酷なのか分からない。

でも、ぬるま湯みたいな関係なら、切れる寸前の糸なら、断ち切ってしまった方がお互いの為だと思う。だけど、それでも諦められない。伝えたいことがある。ありがとう。愛してる。この気持ちは本当だから、どうか傍にいて。

「真実を話そう。君の恋人は、俺の前で自ら命を絶った。止められなかった。彼は家族を、仲間を、そして君を守って死んだ。人の死を何度も見てきて、顧みることはなかった。今まで奪って失うばかりだったが、君と会い、幸せになってほしいと、そう思った」

初めて好きになった人には、さよならを言えなかった。伝えたかったことが、したいことが沢山あった。もう会えないから、せめて私は幸せだと言えるように、それでこそ名前だと笑ってくれるように生きていくから。

「景光を連れて帰って来てくれて、ありがとう。手を引いてくれて、ありがとう。奪って失っただけじゃない。私を救ってくれたわ。もう、一人でっ…、歩いていける」

今度は手を引いてもらうのではなく、手を繋いで、同じ歩幅で隣を歩いてほしい。抱えたままでいいと言ってくれた、何も言わず傍にいてくれた人。

「泣きながら言われても信じられんな」
「もう泣いたりしないから!慰めでも、許しを得るためでもない、唯一の存在として隣にいてほしい。そう、思うけど、貴方にも幸せになってほいしの。貴方を、愛しているから」

幸せになってほしいのは私も同じ。『幸せを願うだけでもいい』だなんて本当は思っていない。貴方の幸せに私が必要だと、言ってほしい。傍にいるなら貴方がいい。

俯けば涙が溢れるから、真っ直ぐ前を向く。いつからだろう。恐怖を感じたはずの目に、自分の姿が映ると嬉しいと思うようになった。一緒にいる時間が心地いいと感じるようになった。貴方がいてくれるなら幸せだよ、と胸を張って言える。

薄い膜の張った視界で愛しい人が微笑む。頭を撫でたその手で頬を包み込まれる。溢れた涙を指で拭って、額を突き合わせる。

「後悔するなよ。一度拒絶すれば、離れていくと思っていたが、君は存外諦めが悪いな。まあ、俺も人のことを言えないがな。君から思いを告げられたとき、誰かを愛する資格など無いのだと言い聞かせて突き放したつもりだった。嘘は得意分野だと自負していたが、そうでもないようだ」

思いが交わる感覚が蘇る。たとえその手が汚れていても構わない。思いきり抱きしめてほしい。名前を呼んで、愛してほしい。

その言葉に、堪らず目の前の首に縋り付く。どうしたら、この思いは伝わるだろう。頬に手を添えられて目を合わせる。ああ、そんな顔もするのか。ゆっくりとした低音が聴こえる。

「その手を伸ばすのは俺だけであってほしい。君の隣にいると血に塗れた手でも誰かを幸せにできると、その相手は君がいいと、そう思う。傍にいてくれ、名前。俺も、君を愛している」

唇が重なる感覚がした。深く、深く。きっと、今日のことを一生忘れないだろう。緑色の瞳をずっと見つめていたい。その左手で触れるのは私であってほしい。どうか、捕まえていて。離さないで。そう、強く思った。



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