君に消えない傷を



※全く救いがありません。

都内某所、時刻は午前2時過ぎ。ビル群の一角で、暗闇に紛れて向かい合うのは一組の男女。服装も表情も対照的なふたりだった。男は淡い青のパーカーを纏い、横顔は夜闇よりも暗い。一方で女の方はと言うと、烏のような出立ちで、薄い唇は緩く弧を描いている。

「毎度あり〜」

響いたのは、場違いな程に間延びした声。手元の端末で入金を確認すると、女はふわりと笑い、一歩身を引いた。受け取れという意味だろう。微かに息を漏らし、男はそれに手を伸ばす。目的の物を引き寄せ感度を確かめながら、胸の中で問うた────お前は一体、これで何人の命を奪うのか。幾度問いかけようと、返事はない。神にすらもわからないというのか。暗闇の中で僅かに歪むその横顔を、女は薄笑みを浮かべ眺めている。

「君には、苦しくなる瞬間はないのか?」

顔を上げて、男が尋ねた。仕事以外の話をするのは初めてだ。そもそも会うのは3回目であるし、目の前の女の名前すら知らない。だが、普通の人間でないということは分かる。いや、その普通とやらも男の主観でしかない。この世界ではきっと、彼女は普通なのだろう。それを嫌悪している自分の方が異分子であり、だからこそ、いつ弾かれるのかと怯えながら生きている。これでいいのだ。胸にある恐怖こそが、誇り。自分はまだ、堕ちてはいないのだという証明。

「七味唐辛子が喉に張り付いた時とかですかね」
「は?」
「ですから、七味です。最近苦しかった瞬間」
「本気で…言っているのか?」
「冗談を言い合うような仲ではないかと」

肩を竦め、女は答えた。質問の意図が理解できないくらい愚鈍なのか。将又、男が感じる痛みなど、彼女にとっては日常なのか。自分もいつか、こうなってしまうのか。想像するだけで吐き気がしてくる。刹那、女の姿が己に見えた。これが未来の自分の姿なら、今ここで殺してしまおうか。新品の銃に触れる指先が、疼く。1秒にも満たない時間の中で、殺意が芽生え、吠えた。その時、女が小さく右手を挙げる。まるで誰かに待機でも命じるような仕草に、男は狼狽えた。その様子を愉快げに見つめ、瞬き一つ。次に開かれた瞳に、男は銃を取り落とす。しかし女が受け止めたお陰で、床に転がる音は続かなかった。

「危ういですね。衝動に身を任せるなど、狙撃手として失格では?貴方、向いてないですよ」

ぞくりと、背筋が凍る。呑まれそうだ。頭上から丸呑みにされそうな心地がした。いかにこの場を乗り切るかを思案し始めようとした瞬間、男を再び衝撃が襲う。

「お前らも。外面だけで判断するなって、何回言わせれば気が済むんだよ。彼は善人だ。ったく、反省しろ。というわけで、今夜の焼肉は無し」

一変した口調に戸惑いを隠せない。この女は今、焼肉って言ったのか。きっと空耳だろう。精神が不安定な所為で、幻聴でも聞こえたに違いない。

「あんたさぁ、 潜入捜査官NOCだろ」
「っ!?」
「ぶははっ、役者も不向きみたいだな」
「何が目的だ?リークするつもりか?」
「いや、しないけど。メリットないし」
「は……」
「武器を買ってくれるなら、何処の誰だろうが関係ない。興味もない」

まるで石ころでも見るような目。もしこれが演技なら、相当だ。やはり彼女はおかしい。だがそれは、先程までの意味とは異なる。異常とは少し違う。適切な言葉を探すなら、奇妙。男はそこで一旦、呼吸を整えた。そして改めて、目の前の人間を観察してみる。日本人らしい黒髪は肩の下まで伸びている。深黒の瞳に、服装も黒で統一されていた。手には手袋、足にはショートブーツ。こんな仕事をしているくらいだ。丸腰ではないのだろうが、ジャケットの下に銃があるのかも、ブーツにナイフが仕込まれているのかも、分からない。肌が露出しているのは顔だけだ。肌色は健康的で、荒れもない。

「君は、単独ではないのか?」
「質問ばかりだな。フェアにいこう。次はこっちの番。せっかくお喋りするんだから、君とあんたじゃあまりに味気ないだろ。私のことはリリーと呼んでくれ。勿論、本名じゃないよ。昔飼っていた猫の名前さ。あんたは?」
「……スコッチ」
「ウイスキーは嫌いなんだが、まあいいか。で、さっきの質問…答えはイエスだ。彼らとは血よりも濃い絆で結ばれている。一番顔が整っているという理由で纏め役までやらされて、些か不本意だけどな」

確かに造形は整っている。本当にこれが彼女の本当の姿であれば、だが。そんな思考を見透かしたように、リリーは口端を持ち上げた。笑顔は気味が悪いほどに自然だ。心から楽しんでいるからかもしれない。そして顎をしゃくって合図。次はこちらの番だということだろう。

「俺はこの銃で人を殺す────君はそれをどう思っている?」
「別にどうとも」
「何も感じないということか?」
「おい、こっちの番だろうが……はぁ、もういい。一体どういう答えを期待してるんだ。心苦しいとでも言えば満足なのか?生憎、罪悪感など微塵もないよ。銃は道具に過ぎない。使い手次第だろ」

命を奪うのは引き金を引くお前だと、そういう意味か。結局最後に選択するのは、使う者。目元を歪め奥歯を噛むスコッチに銃を返し、リリーは大きく欠伸をした。かと言って、隙は微塵もない。

「銃は、人殺しの道具だ。それを売って生きている君も、同罪じゃないのか?」
「極論だな。罪は道具に宿るのではなく、人に宿るんだ。あんたの言う通り、私は武器を売って生計を立てている。それはつまり、需要があるということだ。この世界から殺意が消えない限り、私は供給を続けるよ。あんた一人の戯言程度で揺らぐような、安い志は持ち合わせていない。それに……世界というのは、そう簡単に変わりはしないさ」

決して嘆きではないと、スコッチは瞬時に正確に感じ取った。人間という生き物は、たとえ打ち拉がれるような出来事があっても、人生に希望があることを最後まで信じている。光と闇。その両方を受け入れて、人々は生きているのだ。しかし、どうやら彼女は違う。闇を闇とは捉えず、光としている。

「その程度で苦しいのなら、こっちには来ない方がいい────あんたならまだ、引き返せる」
「慈悲の心があるとは意外だな」
「そりゃあるさ。私だって人間だからね。弱者を憐れむ気持ちは常に忘れちゃいない」

弱者。その単語に、スコッチはぴくりと眉を動かした。しかしすぐに表情を消す。ところが、そんな些細な一瞬の変化すら、リリーは見逃さなかった。揶揄うように喉を鳴らすと、問いかけてくる。

「不満かい?」
「一対一なら君より俺の方が上手だ」
「おいおい、主語が違うぞ」
「なに?」
「脆いのはその身じゃあない」

ふるふると首を振り、女は一歩踏み出す。カツ、とブーツの踵が鳴った。肩を竦める仕草で、両の掌を見せながら────動けない。言い様のない感覚がスコッチを襲う。悪寒がした。暴力的な恐怖と言うよりも、不気味と言うべきだろうか。銃という、人を簡単に殺せる道具を手にしているのに、今この空間ではただの鉄屑にすぎない。先のリリーの言葉『使い手次第』の意味を痛感させられた。彼女はあっという間に身体が触れ合うほどの距離までスコッチに近付くと、ゆっくりと手を伸ばす。己の頬を美しい指先が掠める感触。急所とも呼べる場所を人質に取られ、スコッチは身を震わせた。彼の首に腕を回したリリーは、美しい声で教えてやる。タネも仕掛けもない、至極当然の事実を告げるように。

「もっとずっと奥にある……そう、心だよ。あんたは、心が弱いんだ」

どくん。と、心臓が鳴った。目を、顔を、時には身体ごと背けてきた真実。強くありたい。否、強くなければならなかった。しかしその奥底には未だ本来の脆さを残したまま。鎧を纏い必死に強者を装ったところで、心眼を持つ者には容易く見透かされてしまう。奥歯を噛み締めながら、スコッチは苦しげに彼女を見つめ返す。

「ふふ…いいね、その目。時々あんたみたいな奴に会えるのも、私がこの仕事を辞められない理由の一つかもしれないな。どちらに転ぶか、見届けさせてもらうよ。精一杯、抗ってみるといい。何事も本気で愉しんだ者勝ちだ」




────カン、カン、カン

階段を駆け上る足音。迷いなく、この場所に向かってくる。躊躇している暇はない。一瞬の選択。引き金に指を掛け、すぐそこまで迫っている死を迎えるために歯を食いしばる。そして、スコッチは引き金を引いた。思い知ればいい、銃はこんなにも軽い力で命を奪うのだと。

「そうか、意外と呆気なかったな」

電話の向こうから届いた訃報に、リリーは退屈そうに返事をした。それから腕時計に視線を落としながら、歩みを再開する。人々が行き交う街中を颯爽と闊歩する姿に、乱れは一切なかった。ネオンが煌めく通りから一転、真っ暗な裏路地に入る。ビルの間から見える夜空を仰ぎ、尋ねた。

「ところで、今夜の取り引きは何時からだ?」

−−fin.−−



TOP


(読了報告として押していただけると嬉しいです)