戯れが現実になる



※「煙草と何を手向けよう」と同じ夢主ですが、未読でも問題ないです。かっこいい萩原はいません。


2月14日。俺にとって、その日は特別な日だった。脳裏に浮かぶのは、ひとりの女の姿だ。高校のときから何とも呼べない関係を築いている彼女は、俺にとって今はもう失い難い存在になっている。そのことをまだ伝えられぬまま、恋人ごっこの終わりまでの期間は残り1年数ヶ月に迫っていた。大学を卒業するまで互いに特別な相手がいなければ、という条件を付けたのは俺だ。特別な相手はできた。気づけば惚れていた。胸を支配するほど鮮烈な存在を、手放せるわけがない。

────意外に真面目だよね

鈴のように笑って彼女が言った。"意外"と言う理由は分かる。その他大勢が抱く印象と同様に、彼女の目に映る俺は軽薄で、飄々とした奴。いや、鋭い彼女のことだから、笑顔の下に本心を隠した掴めない男くらいの評価かもしれない。俺からすれば、掴めないのは彼女の方なのだが。煙のようだと松田が彼女を評したときは「それだ」と言ってしまった。真面目なんかじゃない、臆病なだけだ。手を伸ばすことすら戸惑ってしまうのだから笑えてくる。なんとも思っていない女なら、煩わしくなる前に手放してるさ。

「おい、萩原!立ちながら寝てんじゃねえよ」
「…ああ、なんだ。松田か」
「てめえ、喧嘩売ってんのか?」
「ごめんごめん、苗字のこと考えてた」

青筋を立てる親友に詫びながら、正直に言う。松田はげんなりした様子で俺を見た。隠す努力はしていないから、こいつはたぶん俺の想いに気づいている。つまらない条件付きの関係だと知ったら、幻滅するだろう。俺なんかより余程強い正義感を持った幼馴染だ。見た目がおっかないから誤解されやすいが、真っ直ぐで優しい男。苗字が付き合うなら、きっと松田みたいな奴が似合うに違いない。

「この前さ、苗字に会ったんだ」
「聞いてねえよ。どうせ惚気だろ」
「バレンタイン、何も貰えなくてさ…チョコもクッキーも、なにも。思わず訊きそうになった、何もないのって」
「俺はお前が落ち込んでることの方が驚きだけどな。そもそも、あいつがその手の行事に興味があるようには見えねえし」

予想より真面目なトーンに足を止める。それから呆然と言葉の意味を咀嚼する。まさか、と笑い飛ばせないのは、松田が指摘した可能性がゼロじゃないと思ったからだ。惹かれたのは他と違ったからだ。少し冷めた性格で、他人に本心を見せない。そういう女は他にもいたけれど、苗字は俺以外にもそうだ。松田にも、女友達にも、同じように接していた。

「え、そういうこと?恋人じゃねえ奴にあげられないってことかと……」
「はっ、そんなこと言うような女じゃねえだろ」
「ちょっと待った。なんで松田、驚かないわけ?」
「は?……ああ、お前らのふざけた恋人ごっこのことか?苗字に聞いた。まじねえわ、お前ら」

確かに口止めはしちゃいないけど、まさか知っていたとは驚いた。しかも俺が既に彼女に落ちていることも松田は気づいている。それって、すげえ恥ずいじゃん。本気で行けなくて、手をこまねいてる奴だってバレてる。自分でも情けない顔を晒しているのが分かって、誤魔化すように髪をかき上げた。

「女に貰ってばかりなんて、らしくねえんじゃねえの」

松田が揶揄うように笑って、俺を挑発してくる。分かってるさ、もう2月14日は終わったんだ。来年まで待ってられるかよ。必死で走るのがかっこ悪いなんて、どうでもいい。俺より親友の方が彼女を理解している風なのが苛つく。苗字名前の魅力を知っているのは俺だけでいい。

3月14日。バイトがあるらしく、夜の8時に駅前で彼女を待つ。チラチラと注がれる視線に愛想を振り撒くことはしない。改札を抜けて歩いてくる姿に、寄りかかっていた柵から身を離す。他がモノクロに見えるとか本当にあるのか。

「苗字!」

意図せず大きなる声も、早くなる鼓動も、気づかない振りは止めだ。無視できる段階は終わった。右手を上げて迎えると、彼女は大きな瞳を見開いて笑う。ああクソ、なんだこれ。好きだと言葉が這い出てきそうだ。

「そんな大声で呼ばなくたって、ちゃんと見えてるよ」

呆れたように声を上げながら笑って彼女が言う。いつも通りパンツ姿で、羽織ったコートはシンプルなデザイン。街中には着ているだけ疲れそうな服を纏う女が沢山いる。全部マネキンが着ているなら、確かにそういう服の方が美しく見えるのかもしれない。何も言わない俺を、不思議そうに見つめる瞳は何よりも綺麗だ。

「萩原、なんか変だよ」
「うん……俺、病気みたいだ」
「え、大丈夫?帰った方がいいんじゃない?」

冷めてるくせに心配はしてくれるんだよな。覗き込む瞳を見返して、手を握った。何一つ装飾されていない爪とは裏腹に、女らしい細く綺麗な指。手を握れるようになるまで数年かかった。ビクビクしながら尋ねたとき言われたのが「意外に真面目」という言葉。そして、迷う俺の手を取って彼女は笑った。キスを強請っても同じ台詞を吐きながら許してくれるだろうか。

店に入って料理を食べる間も、俺はこの後どうやってプランを実行に移すかを考える。ガキみたいだな。上着のポケットには今日のために用意したプレゼントが入っている。たぶん彼女には、何のプレゼントなのか言わないと伝わらない。今の関係になってから数年経つのに、こんな気持ちで何かを贈るのは初めてだ。1年前はまだ好きだという自覚がなかったから、バレンタインなんてスルーしていたし。

並んで歩きながら、ぐるぐると思考は巡る。どうすりゃいいんだ。本気で恋愛するって、こんなに体力使うのか。会って1時間で疲労困憊だ。20代の男がこれでいいのかよ。今の俺を見たら、松田は指を差して笑うのだろう。たぶん、高2の俺も同じようにする。あの頃は、ひとりの女に翻弄されるなんて思いもしなかった。たとえ特別な相手が現れたとしても、もっとスマートに余裕を持って接する自信があったのに、このザマだ。

「−−ら、萩原!」
「え……ああ、ごめんっ、どうかした?」
「あのさ、無理して会ってくれなくてもいいよ」

言葉の意味が分からなくて、貼り付けた笑顔のまま硬直した。苗字は、言いにくそうに眉を下げながら俺を見る。それが初めて目にする表情で、状況そっちのけで鼓動が早くなる。ああ、彼女が何か言ってるのに俺の耳は飾りに成り下がったように機能していない。早口で動く唇にばかり目がいきやがる。薄いピンク色のそこはどんな味だろう。チョコなんかより何倍も欲しいものがあったわ。

「だから、気を遣う必要はないから。私達、恋人同士じゃないんだし。ああでも、振るなら早くしてほし…いっ、

ビクッと肩を震わせる姿に、しまったと後悔する。馬鹿か、怖がらせてどうすんだ。悪いのは俺なのに、彼女を責めるような真似をした。せっかく一緒にいるのに不安にさせて、挙句の果てにあんな事を言わせるとかダサすぎる。

「ごめん、ちょっと待って。ああ〜、マジでクソかっこ悪いな。あの、さ…苗字が俺の事どう思ってるかは分からないけど、どうでもいい女をデートに誘ったりしないから。確かに仮の恋人だけど、俺はその相手が君でよかったと思ってるよ。今日だって会いたくて電話したんだ」

ていうか、これもう告白じゃね。頭をガシガシ掻きながら、逸らしていた視線を戻す。真っ黒な瞳を見つめ返した。これで伝わってくれたら苦労はしない。苗字名前という女は頭がいいくせに、恋愛を表面的にしか見ない。言葉の裏を汲み取る努力をしない。だから今の言葉も伝えたままの意味で捉えたに違いない。

「じゃあ、どうして上の空なの?」

それを訊きますか。つい再び視線を逸らして、苦笑した。正直、彼女が俺を好きだという自信はない。嫌われてはいないだろうが、松田と接するときも大差ない。他人の心情の変化に疎くはないし、むしろ敏感な方だ。しかし全く読めないのは、相手が好きな女だからか。

「苗字、今日が何の日か知ってる?」
「今日って…3月14日?」

スマホを取り出して日付を確認しても、ピンときていないらしい。松田の言う通り、興味ゼロ。ふぅ、と息を吐いてポケットに手を突っ込む。箱に入ったそれを取り出して、彼女の手を取る。大人しくしているのは驚いているからか。パチン、と音を立てて手首に付けたのは腕時計。穴に通すタイプは面倒だと言っていたのを思い出して、バックル付きの物を選んだ。

「3月14日はホワイトデーだよ。仮の恋人がプレゼントを贈るのは変かもしれないけど…腕時計、水没して壊したって言ってたからさ。あと、こっちはキャンディ」

ポンと掌に包みを乗せる。未だに状況が飲み込めない様子は微笑ましい。今日はなんか普通の女の子みたいだ。惚れた弱みか、どんな反応も愛しく感じる。ギュッと包みを握って彼女は言う。

「ホワイトデーって、バレンタインのお返しをする日じゃないの?私、萩原に何も贈ってない」
「俺が欲しいものを言ったら、くれる?」
「私があげられる物ならね」
「了解……その前に、それ食べてみてくれない?」

たった今あげたキャンディを指差して言う。苗字は何度か瞬きを繰り返したあと、黙って結んであったリボンを解いた。中から一つ取り出して、口の中に放り込む。ふわりと笑う顔を見て、体が勝手に動いた。腕を掴んで引き寄せて頬に手を添える。

「舌、噛まないでね」
「はぎ、わら…っ、

小さく開いた唇に噛み付いた。逃げる舌を追いながら、その上にある甘い塊を掬う。クセになる熱さに、我を忘れて貪りたくなるのを堪える。視界に映る、必死に応えようとする顔にゾクゾクと何かが体を駆け上がった。唇を解放すると、胸に雪崩れかかってきた体を抱き締める。口内に広がる甘さは飴のせいか、それとも目の前の柔らかい唇のせいか。

「この飴、少し甘すぎない?」

肩で息をしながら俯いたままの彼女は、どんな顔をしているのだろう。押し当てたその額から、俺の鼓動が伝わっていればいい。その時が来るまで愛の言葉は贈れないなら、全身で俺の全てで伝えればいい。



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