ミルクの適温に対する考察
計時機関本部の一画に設けられた、時計屋の居住区。その談話室で、サクヤは悩んでいた。
左腕には医者の手から離れたばかりの赤ん坊──テンを抱え、右手には哺乳瓶。この状態で、かれこれ5分。
医者曰く、ミルクは人肌くらいの温度に温めて与えるらしい。ちなみに『人肌くらいの温度』とは触って熱くない程度なのだとか。
しかし感度は人それぞれだというのに『熱くない程度』だなんて曖昧な表現をされても、いまいちピンとこない。それは具体的にどのくらいの状態なのか。
判断をつけかねて、サクヤは右手の哺乳瓶を軽く振る。手の中にあるそれはサクヤにしてみれば熱くない温度だが、成人男性の感覚が赤ん坊にも通用するとは思えない。どうしたものかと、哺乳瓶とテンを見比べて首をひねった。
と、その時。
各個人の部屋へと続く廊下から慌ただしく出てきたのは、サクヤの隣室に暮らす7時の時計屋。丁度よく登場した年下の同僚──ウィラードに、サクヤは呑気に声をかけた。
「ウィラード」
「…何?」
急いでるんだけど、と言いながらも足を止めたウィラードに、手にした哺乳瓶を差し出して訊ねる。
「熱くないってこのくらい?」
サクヤの抽象的な質問にウィラードは怪訝そうな顔をしながらも寄ってきて哺乳瓶に触れ──すぐに手を引っ込めた。渋面を作ってサクヤに問い返す。
「…ちなみにこの状態が熱くないと思う理由は?」
「持てるから」
「持てる=熱くない、という図式は成り立たないぞ?」
へらりと笑うサクヤに呆れたように告げるウィラード。その背後から唐突に、そうね、と声がかけられる。笑いを含んだその声に、ウィラードの肩が跳ねた。
「つまり、気分が悪くなる=仕事をしなくてもいい、という図式も成り立たないわ」
「あ、総監」
「…げっ」
アニタの姿を認めるや否や、弾かれたように窓へと走るウィラード。部屋から出てきたのは、どうやら仕事から逃亡を謀るためだったらしい。
「止めなさい、サクヤ」
「え? えー…ウィラード!」
アニタの急な無茶振りにサクヤは一瞬だけ戸惑う。しかし言われた通りにウィラードの動きを止めるべく、咄嗟に手にあったものを彼へと放った。サクヤの動く気配に視線だけで振り返ったウィラードは、自分に向かって放られたそれに気付き絶句する。
「な…」
慌てて身体ごと振り返って手を伸ばせば、綺麗な放物線を描いていたそれは無事にウィラードの腕の中に収まった。
ナイスキャッチ、と呑気に呟くサクヤの手の中にあるのは哺乳瓶のみ。彼の左腕にいたはずの赤ん坊は──空中浮遊の結果、ウィラードの腕の中にいる。
「な…投げ…投げるか普通!?」
勢いは皆無だったとはいえ、受け止められていなかったら床に直撃することは免れない。失敗していたらと思うとぞっとする。
流石に顔を青くしたウィラードに、サクヤは罰が悪そうに視線を逸らした。
「あー…うん、つい?」
「つい、じゃないだろ!」
ウィラードが少し声を張り上げれば、衝撃に驚いて放心していたテンがワンテンポ遅れて顔を歪める。火がついたように泣き出したテンに、慌てる男二人組。
「反射神経は鍛えられているようで大変よろしいわ」
そんな二人から、慣れた手付きで泣きじゃくるテンを取り上げたアニタ。彼女の腕の中で徐々に収まっていく泣き声に、サクヤとウィラードは安堵の息を吐いた。
同時にウィラードは、テンをあやすアニタに一瞬忘れかけていた、『逃走』という当初の目的を思い出す。
アニタの視線が手元に注がれていることを確認する。今なら逃げ切れるかと踵を返しかけ、
「ウィラード」
牽制するように名前を呼ばれて、思わず動きを止めた。
「私が来たからには逃げられると思わないことよ」
いくらか落ち着いた様子のテンをサクヤに返して、アニタはにっこり笑う。
「さ、行きましょう?」
腕を掴まれて、ウィラードは頬をひきつらせる。仕事は嫌だ。拒否したい。しかしアニタを振り切れる自信もなかった。
考え込むように唸って、諦めたようにため息を吐く。
去り際、アニタに連れられて扉をくぐるウィラードに、恨めしそうな視線を送られたサクヤ。確かにサクヤが呼び止めなければ、今頃逃げ切れていたかも知れない。しかし過ぎてしまったことは致し方ないだろう。とりあえず笑顔で手を振っておいた。
「あ」
静かに閉じられた扉を前に、サクヤは後悔する。
ミルクの最適温度をアニタに聞けばよかった。慣れた手付きでテンをあやしていた彼女なら、知っていたに違いない。
「…ま、いっか」
腕の中のテンは泣き疲れたのか、うとうとし始めている。
ミルクの時間はもう少し後になりそうだった。
...fin
2012/02/21
制作:名月魚々