本当の、名前
『リオ様、リオ様』頭の中に、声が響いた。“僕”であり“僕”じゃない“僕”を呼ぶ声。
身体を手に入れて、自我を持って、自分が文字盤と呼ばれる存在である事を知ったのは、52年前くらい。
身体…いや、器と言ったほうが正しいのか。この、僕が手に入れて動かす事になった器は、いわゆる貴族と呼ばれる人種。それはそれは大事に育てられ、素直な良い子で育っていたらしい。病弱だったためなのか、同じ歳の子供に比べたら体格は小さめ。周りの愛情を受け、将来を期待されていた。
それが、僕の持つ、僕の器が生きていた頃の記憶。その後器の周囲がどうなったとか、そんなのは、知らない。知りたくもない。今の僕には関係ないから。
『タトゥーリオ』
これが、今の僕が名乗る名前。タトゥは3、リオは器の名前から。
「…リオ」
過去の出来事に思考を巡らせていた僕に、突如として背後から声が掛かる。思考を巡らせていた、その名前で。
「なんで、その名前で呼ぶわけ」
ひどくゆっくりと振り返って、声の主、セイディを見上げる。立っていても少し見上げるくらいの位置にある彼女の顔は、地べたに座っていた僕の視線から、少し遠い。振り返った拍子に、僕の頭に巻いてある布飾りがなびいて揺れた。無表情にその布の片方を片手で掴み取り、セイディは少し屈んで、僕に顔を近づけた。彼女の長い髪が、僕の頬に落ちる。布飾りを少し上に引かれ、至近距離で彼女を見上げる形になる。
「リオ」
「何」
呟いた吐息がかかるくらいの距離で、その名前を繰り返し呼ぶ。彼女の表情は変わらない。意図は、掴めない。
「…タトゥーリオ。タトゥ、リオ、ね?」
そう区切りながら言って、掴んでいた布飾りを風に放ち、顔を引いて、屈んでいた身体を上げる。
「リオ、でしょ?」
あなたは多分、そう、呼ばれたがっているよ。と言った。
「嫌だ、って言ったら?」
「それでもあなたは、リオ。でしょう?」
でも、どうしてもって言うなら、タトゥと呼ぶ。そう付け加えた。
「別に。何でも」
「わたしも。何でも良い。名前なんて、なくても困らない。わたしは何も知らないし、わたしの名前は、わたしのものじゃない。貰いもの。器の名前も、わたしの名前も、全部偽物」
「名前の本物なんてどこにあるのさ?名前なんて、みんな貰い物だよ」
「自分でつけた、タトゥーリオ。あなたの名前は、本物じゃないの?」
「そんなもの、それこそ貰い物ですらない、偽物でしょ」
言いながら、立ち上がる。近づいた目線をぶつける。風に煽られる頭の布飾りが、ちらちらと視界になびく。コートについた砂埃を払うと、これ以上無意味な会話をするつもりは無いと、セイディに背を向けた。
「でも、やっぱりタトゥの後ろ姿は、リオって、呼ばれたがっているみたい」
小さく呟かれたセイディの言葉に振り返る事はせずに。ただ、ゆっくりと歩を進めた。
『リオ様、リオ様』
つきまとう記憶は、未来を奪われた器の最後の抵抗か。絶たれた未来は、僕の記憶に過去だけを残して。
“リオって、呼ばれたがっているみたい”
僕に呑まれた事を、最後まで認めないとでも言うように、その存在感を、訴え続ける。でも、
「僕は、僕だ」
僕自身がそれをわかっていれば良い。器の過去の名前なんて、呼んで欲しい名前なんて、いらない。他人との接触は、いらない。
本当の、名前。そんなもの、ない。本当の自分が、此処にいるだけ。意志と自我を持った、自分と言う存在が、リオと言う名前の器を介して、この世に存在する。
ただ、それだけの事。
...end...
2012/02/17
制作:卯月真雛さま