それじゃあ、行くねと彼が言った。
河の一番浅いところから靴を丁寧に脱いで、つま先を沈める。よほど冷たかったのだろう、一度ピクリと震えた足先を引っ込めると、彼は振り返って私に笑いかけた。
私は何が面白いんだろう。と思いながらも薄く笑って、ゆっくりと頷く。私も後から一緒に行くからね。そう、言うように。
今、私達は街のはずれにある森の中、国の観光地にもなっている大きな河の前に来ている。早朝は霧が立ちこめ、薄暗い。どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくるが、どこで鳴いているのかもわからない。
心中を口にしたのは彼の方だった。
もう、生きていることが苦しいと。
もう、君を幸せにしてあげることはできないと。
そう言いだした。目の下の隈の上を涙が零れ落ちたのを見て、「ああ、私たちが進む道はここで終わりなのか」と悟った。私はとても静かで、とても冷静だった。
「いいよ」
私が彼にそう言うと、彼はほどなくして安堵して笑った。彼の笑顔など、三年ぶりに見たかもしれない。
気づくと彼は河の中央まで進んでいた。水は、腰辺りまで浸かっている。思っていたよりも深かったが、彼はもう振り向かない。順調に、死へ向かっている。
私はそのあとを追いかけるだけだ。彼が完全に浸かったところを見て、私も後を追うだけ。私も河のふもとまで行って、靴を脱ぎ始めた。靴下を脱いだ時には、彼は肩辺りまで河に浸かっていた。結構深い河だったんだな。ぼんやりそう思いながらも、私はその様を見届けようとゆっくりと立ち上がって――
――とぷん。
あ。
その拍子、彼は足を滑らせて河に流された。水にあらがうように、苦しそうにもがいているのが遠目で見える。がふ、がふ、と水を多く飲み込む声が聞こえてきた。何か言っている気がする。いま、なんて言ったの?
「た、たす、たずげで、くれっ由香ァ!」
ヒッ、と私は小さく悲鳴をあげた。さきほどまで生きることをあきらめて河へと向かった彼が、今度は死にたくないと私へ手を伸ばして助けを求めている。そんな、今更だ。本当に、今更だ。私がどんな思いをして、あなたと生きてきたかなんて、あなたは全く、考えもしなかったというの。
なんて、勝手な。
私はゆっくりと後ずさりをして、裸足でその場を走り去った。私だって、できればあなたと一緒に居たくなんてなかった。できれば、光ある場所へ向かっていきたかった。あなたさえ、あなたさえいなければ、私は……。
お腹の中でどす黒い何かが生まれようとしていた。耐え切れず、声が聞こえなくなったところで河の方を横目で見遣ると、そこには彼の右手だけが水面から覗いていた。
まるで、私にさよならを言うように。