築三十年の家の扉に手をかけたのは、およそ二十年ぶりだった。
二十年も経てば、家も、親も、犬のラッキーがいた犬小屋も、全てが変わっている。そして自分もその内のひとつだ。
目の下の隈は隠しても隠したようにならないし、食べるものもたくさん入らない。普段、運動もさぼっているから筋肉がない。だから、すぐに疲れてしまう。
ただいまと短く廊下に言い放って、重たい荷物を床に置く。複雑な留め具のあるブーツなんか、買うんじゃなかった。私は長いブーツを蹴飛ばして、母を探した。
「ただいま」
母は洗濯機に服を放り込んでいた最中だったらしく、私が玄関を開けたことに気が付かなかったらしい。私の登場に驚いたように「あらっ、言ってくれたら迎えに行ったのに」と目を丸くしていた。
迎えに来てくれたらそれはそれでありがたいと思うけど、齢七十を過ぎた危なっかしい運転で迎えに来てもらうのはやや不安がある。死に急ぎそうで。
古い家はどこも薄暗い。階段も穏やかではない。私は歳を取った母親のために取り付けたスロープを握りながら二階へと向かった。実家に帰ってきたのは、用事があったわけじゃない。
よくある話だ。都会に夢を見て仕事を探しにいったものの、夢と現実との狭間に戸惑い、苦しみ、挫折して帰ってきただけの。
部屋の扉を開けると、なんてことはなかった。二十年前と同じ光景がただ、そこに広がっている。
ホコリをかぶった机。誰も寝ていないベッド。古めの絨毯。足を一歩進めるたびにぎしぎしと床が悲鳴を上げる。
まだこの部屋の景色を、低い位置から見ていた頃が懐かしい。
あの頃はとても自由で、無知で、何もできないくせに何でもできるような気がしていた。まぶしい未来に希望を持ち、夢を語っていた。未来には、楽しいことがいっぱい待っていると信じて疑わなかった。
今はもう、色褪せて物悲しい。
何年も出入りしていない部屋だったが、それでも几帳面な母が床の掃除だけはしてくれていたようだ。部屋の隅にある掃除機を見て直感でそう思った。視線を移して、掃除機の隣に”あるもの”が置いてあることに気づいた。
――あれは……。
床は落ちないとわかっているのに、ゆっくりと部屋の隅へと向かう。腰を落として、大事なものを扱うかのように拾い上げた。バスケットボールほどのその箱は、色褪せた引き出しの奥へ手で探るように、私の思い出の中から取り出した。
宝箱だ。
躊躇することなく蓋を開けた。小学生の遊び道具が乱雑に散らかっている。一言でいえばガラクタになってしまうそれらの中から、ひとつ掬い上げた。
桃色の花が規則正しく描かれた手紙。たぶん、一枚しか便箋は入っていない。外からでもわかる薄さに、思わず苦笑が込み上げた。そうだ、たしかこれは。
「美沙ちゃんなんか、だいきらい」
封筒から出した可愛らしい便箋に書かれた、毒々しい鉛筆の言葉。これは、同じクラスの親友からもらった最後の手紙だ。
十二歳の時に、クラスの女子グループが真っ二つに割れたのを思い出す。ミニバスに入っている口調のきつい女の子のグループと、バレーボールクラブに入っているちょっとおしゃれな女の子のグループ。
私はどちらにも属せず、部屋の隅で図書室の本を借りて読んでいた。
しかし二つの派閥はそれを許してくれなかった。十二歳は子供だけど、大人である。派閥のリーダーは私と仲が良かった麻美にどちらのグループに属すのか聞いて欲しいと頼まれたのだ。要するに、美沙はどちらの味方なのかはっきりさせてこいと告げられたのだ。
今ならわからなくもないが、当時の麻美はそうとう悩んだだろう。友達がどちらかのグループに属さなければ、片方からは目をつけられてしまう。困った麻美は、私を逃すために一筆したためた。
美沙ちゃんなんか、だいきらい。と。
私は手紙を見ながら思わず笑ってしまった。おかげ様で私はクラスから浮彫になり、麻美の思惑から大きく外れてしまって、麻美の顔が真っ青になったのは傑作だった。後から私たちは仲直りできるのだが、それは十年経った同窓会での話。
手紙を端に避け、その奥にある汚れた塊を手に取る。ひし形をした水色の、匂いのする消しゴムだ。手を自分の鼻に近づけ、すんと嗅いでみる。クリームソーダの匂いは、思い出とともに薄れてしまっていたが、わずかに残るあの懐かしい匂いは、私の秘密を呼び戻す。
くたくたになっている消しゴムのカバーをそっとずらした。
こうだいくん。
その名前に、口元がだんだんと三日月と同じ形になっていく。好きな人の名前を書いた消しゴムを、誰にも見られないまま使い切ると両想いになれる。そんなおまじないがあったっけ。
こうだいくんは、図書室の魔物だった。当時、足の速い子を好きになる女の子が多い中で、こうだいくんは見向きもされなかったが、私にはそれがよかった。
誰にも見向きされない彼のいいところを、私だけが知っている。そう思うと、心がいつもくすぐったかったのだ。
バレンタインデーも間近の1月後半。チョコレートづくりが流行ると同時に「匂い消しゴム」が大流行。消しゴムに好きな男の子の名前を書いて使い切れば、相手も自分のことを好きになってくれる。そんなおまじないが流行った。
私はバカバカしい。そう思った。思ったけど、淡い期待を抱いてしまった。私はこうだいくんが来ていない図書室で、油性ペンと買ったばかりの匂い消しゴムを取り出してにらめっこをしていた。
誰もいないよね。
私は書いた。彼の名前を書いて、その気持ちが、私へ向くように――。
「何してるの?」
私は夢中になっていて気づかなかった。こうだいくんが、私のすぐ隣まで来ていることに。
今思えば、相当な失態だ。人生ワーストランキング初期にランクインするほどの。
あの後、名前を見られてしまってギクシャクしてしまい、バレンタインデーも沈黙を貫き、私の初恋はあっけなく終わってしまった。家に帰ってから親の知らないところでわんわん泣いて、何もなかったことにした。もしかしたら、勘のいい母親は気づいていたかもしれない。友チョコに混ざった本命の色が混ざっていたことに。
匂い消しゴムをしまい込んで、私は一番底にあったものに手を伸ばした。固くて冷たい物が指先に触れる。取り出したものが部屋の光に透けて、きらきらと壁に反射した。
「これは……」
上のパーツが大きなダイヤのケースになっていて、下は普通の輪っかの指輪。ダイヤのケースはピンクの蛍光色をしており、その中に手紙が小さく折りたたまれているのが見える。光で遊ぶように、くるくると回す。
もう二十年も前だ。さすがに手紙の内容まで覚えていない。
けれど、この指輪のケースが何かは、覚えている。
タイムカプセルに入れそこなった私の、手紙だ。
小学六年生最後の日。卒業の日の帰り際、皆でタイムカプセルを埋めようと先生が言い出した。小さな紙に、未来の自分へ手紙を書いた。あの時は確か、十年後の自分に向けて書いた。
まさか読むのが二十年後だとは思わなかったけど。
ケースを開けるのは簡単で、蓋のつまみを掴んで上に押し開ける。子供の頃と違って指が太くなったのは盲点だったが。手紙は二枚入っていた。
手紙を開こうとして、さすがに躊躇した。
夢を追って東京の果てまで行ったのに、諦めて帰ってきてしまった。そんな自分が、あの頃のまぶしい自分から何て言われるのだろう。そう思うと胸が張り裂けそうだった。
頑張っていますか、とか。小説を今も書いていますか。なんて……書かれていたら。
幼い私の言葉は、誰から叱咤されるよりも恐怖に近かった。
私は恐る恐る、その手紙を開いた。そこには、
「未来の自分へ。今も、小説は好きですか?」
そう書かれてあった。
恥ずかしかったのか、慌てていたのか、走り書きみたいな文字で。
気づいたら両手が震えていた。私の頬を、熱い物が滑り落ちていく。
「そうだね。そうだったね……」
私は誰にも聞こえないように、涙を流しながらそう言った。
私は、小説を書くのが好きだ。
どうやら、この二十年で大切なことを忘れていたようだ。
十二歳の私が残した手紙。二枚目には、「辛いこともたくさんあると思うけど、体に気を付けてね」と、大人ぶったメッセージが添えられていた。