午後十四時のショパン

 午後二時になるとどこかでピアノの音が鳴る。
 僕の仕事場は商店街の一角にあるビルのマンションの二階で、毎日この時間に練習しているのか必ず聞こえてくるのだ。

 音はまだ覚えたてというよりも、ピアノを触って間もない。という感じで、ド、とかミ、とか。ポーン、ポーンと跳ねるように鳴らすだけ。決して曲とは言えないのだけども、毎日のように聞こえてくるもんだから時計代わりになってしまった。

 今日も練習しているのかな、ご苦労様。心の中でふっと笑った。
 きっと、とても幼い子供が家で弾いているんだろう。
 僕は書類を途中にして椅子に座ったまま背伸びした。部長が社外に出て居ない今、曲にならないピアノの音を聞きながら癒されていた。

 毎日毎日、同じことの繰り返し。パソコンの画面に映る細かい文字の羅列に辟易していた。仕事に行って、家に帰って朝起きて仕事に行って。生活をするためにお金を稼ぐのはわかっている。
 でも、趣味もない、恋人もいないこの人生に意味はあるのか。時々くだらないことを考えてしまう。

 一週間ほど経っただろうか。
 今日も同じように仕事に行って、書類を片付けて、メールを送って電話も取って。そうしていたら時刻は十三時五十五分。時計が目に入って「あ、そろそろだな」と思った。そろそろ例のピアノの練習の時間だって。そうのんびり構えていたら、突然入ってきた部長に睨みつけられた。

「おい、三島! こないだの案件、違う商品が間違って先方に届いてたそうだぞ! 何やってんだ!」

 心臓が一気に跳ね上がって僕は椅子から立ち上がった。部長の前まで駆け出して、申し訳ありませんと叫んだ。どこがまずかったのだろう。今から先方に掛け合って……いやまずは正しい発注が先だ、どうしよう、どうしよう、そんな事を考えていた。
 その時だった。

 ピアノの音が、聞こえてきた。いつものたどたどしい音ではない。滑らかに、踊るようなまさに、音楽だ。部長はひとしきり何かを言って、外へ出て行ってしまった。きっとタバコを吸いに行ったのだろう。僕は驚いて窓の外を見遣った。
 ピアノはまだ、聞こえている。
 先日まで人差し指で鍵盤をはじいたような音だったのに。どうして……。人が変わったんだろうか。どこから聞こえてくるのか、その音を探してみる。

 ――あ。

 向かいの家の窓に、女の子が見える。その女の子を見て、僕はアッと声を出した。
 そうだ、確か彼女は近所で有名なピアニストだ。こないだ家の前に救急車が止まっているのをみかけたことがある。もしかしたら、いや憶測だけれど、病気か何かだったのかもしれない。もしかしたら今の今まで指ではじくくらいでしかピアノを触れなかったのかも。様々な考えがよぎるが、僕は窓を開けて午後の風に触れた。美しいピアノの歌が、僕の耳をくすぐっていく。

「いい音だなぁ」

 今日も仕事が三分の一を占める一日だった。けれども、今この時は結構、気分がいい。


即興小説トレーニングのお題
お題:鈍い曲 制限時間:15分

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