美しいもの

 アメリカからやってきたウィリアムは、売れない画家だった。
 今日も早朝の海辺で露店を開き、やってくる猫を追い張らいながら絵を描いている。海辺には同じように似顔絵を描いたり、モチーフを持ってきて描く画家がキャンバスを立て点在していた。
 いつか俺の絵を認めてもらいたい――若い青年が野心を抱き、美術や芸術が日常にあるイギリスへとやってきたのは自然なことだった。とはいえ、日銭を稼ぐのも厳しい。一日一人か二人、姿を描かせてくれたらラッキーな方。ウィリアムは自分の好きな絵を毎日書ける幸せと、生きていかなければならない苦しみの中でもがいていた。

 そんな中で彼の唯一の楽しみは、街の美術館に通うことだった。
 イギリスは「どの人間にも平等に芸術を楽しむ権利がある」という国で、無料開放しているところも多い。夕暮れ閉館ギリギリにやってきては、美しい裸婦や光を再現した油絵を眺めていた。どんな思いで、どうやって描いてきたのだろう。先人に思いを巡らせる時間が、とても心地よい。
 そして、美術館に通う理由はもうひとつ。

「や、やあ、オリビア。今日もいい天気だね」
「……」

 受付嬢のオリビアに会うことだ。

 む、無視された――!
 ウィリアムはフレンドリーに片手を上げて挨拶をするが、彼女はそうではない。イギリスでは仲良くもないのに、馴れ馴れしく話しかけるのはタブーだ。接点を探しながら、少しずつ距離を詰めていく。そうしてお互いを知り合っていくのだ。
 しかしウィリアムには彼女との接点がなかった。そして女性を口説くという方法も知らなかった。
 オリビアからすれば、毎日馴れ馴れしく話しかけて来るあの男はなんなの? 状態である。

「もうすぐ閉館です。見終わったら退館をお願いいたします」

 あ、はい……。としょんぼりして出て行くウィリアムを横目に、オリビアはため息をついた。明日こそは、期待する言葉が返ってくるだろうか。

 翌朝。ウィリアムはビッグニュースに驚いた。小さな小さな仕事だったが、自分の絵を買いたいという人が現れたのだ。納期はまだ大分先だが、何を描いてもいいという。露店でこつこつと絵を描いていたかいがあった。こんなことは絶対にないチャンスだ。自分は運がいい、そう思った。でも、

「何を描こう……」

 そう呟いて真っ先に思い浮かんだのはオリビアの顔だった。オリビアは別段美しい女性じゃない。どこにでもいて、服のセンスも地味だ。けれど毎日毎日、受付の仕事を真面目にやっている。無料で美術館に通うウィリアムは、彼女が休んだ日を見たことがなかった。にこりともしないくせに、美術館の周辺を綺麗にしたり館内の不備がないか時々見回っている。
 誰にとも言われたわけではないのに、誰に褒められるわけでもないのに、ごみを拾い、美しいものたちを守っている――。そんなオリビアを描いてみたい。
 自分が、イギリスに来て一番最初に美しいと思ったものを描いてみたい。そう思ったのだ。

 ウィリアムは頬を紅潮させてオリビアがいる受付へと走った。昼間だからか、閉館間際よりは人が多い。帽子から覗く金髪を振り乱して、ウィリアムは受付の机をたたいた。オリビアの隣にいた別の女性が小さく悲鳴を上げるがおかまいなしだ。
 ウィリアムは呼吸を整えて間髪入れずに言った。

「君の絵を描かせてくれないか!」
「ノー(嫌です)」

 ウィリアムはピシリ、と固まった。

「何で!?」
「私があなたのモデルになる義理はないからです」

 胸の中をナイフで刺されたような気分だった。それもそうか。毎日話しかけても知り合いにもなれなかったのだ。女性であるオリビアからすれば、自分は得体のしれない男にしかなれない。それでも、初めて来た仕事だ。ぜったいに彼女を描きたかった。彼女がいいと思った。
「お願いだ。実はイギリスにきて初めて仕事をもらったんだ。どうしても最初の仕事は君をモデルに描いてみたいんだ。ダメかな?」
「今は勤務中です。仕事の邪魔だから帰って」
 オリビアも引き下がらない。ウィリアムは泣きそうになって、頭を下げた。行きかう紳士淑女が、物珍しそうに口元を押さえて笑った。オリビアは怪訝な顔をして、
「やめてください。本当に迷惑だから、帰って。どうして私がいいのよ」
 ウィリアムは叫ぶように言った。

「イギリスに来て、君が一番綺麗だと思った。綺麗だから、自分で描きたいと思った。そう思うのは、いけないこと? 美しいものを飾る美術館で、君が美しいと思ったんだ。仕方ないだろう」

 オリビアは真っ赤になって、黙るしかなかった。そんな小恥ずかしいことを平気で言うアメリカ人はやっぱり嫌いだとも思った。周りの人の目にやっと気づいたウィリアムは、さすがに分が悪いと思ったのか、机から手をどけて服装を正した。
 今日は引き下がるしかない。
「突然、ごめんね。今日はもう帰るよ。でもまた明日も来るから、君ももう少しだけ考えてくれないか。……それじゃあ」
 そう言って、ウィリアムは帰って行った。美術館はまだ騒がしかったが、オリビアは口をつぐんでいた。ふと、去って行った彼の足元に何枚か小さな紙が落ちている。
「何かしら」
 オリビアは一枚拾って、裏を返す。そこには――
「……まあ」
 朝の海辺とそこで絵を描く画家たちの様子が繊細に描かれていた。炭で描かれたものだろう。彼は売れない画家だと以前言っていた気がするが、よく描けている。もう一枚拾ってみた。そこには花屋の外観が描かれていた。買いに来た小さな女の子の表情が豊かだった。
 オリビアは最後の一枚を拾う。もう一枚もきっと、絵が描かれている。
 裏を返したそこに描かれていたのは、
「……いつの間に、描いたのかしら」
 美術館の受付で客と接する、オリビアの表情だった。オリビアは三枚の絵を握りしめながら、ウィリアムが去って行った方をもう一度見た。彼はもうそこにはいない。手元の絵に目線を移して、彼女は仕事に戻っていった。


「はあ……」
 ウィリアムはキャンバスの前で大きなため息をついた。
 やらかした。昨日、感情的になってあんなことを言うんじゃあなかった。早朝の海辺には、魚を狙ったカモメたちがみゃあみゃあと鳴いている。今日も同じような一日が始まる。
 夕方にもう一度美術館に行ってやる。ウィリアムはきっとまた、断られると思っていた。断られてもいいと思っていた。

 こういう時、自分は画家なのだなと苦笑する。しつこくて、頑固で、諦めがたい。ひとつの絵に対して、執着を持ちすぎ。自分が表現したいものを表現するために追い求める。それはある種向上心とも言うし、わがままだとも思う。それでもよかった。たとえオリビアに断られても、もらった仕事に間に合うギリギリまでお願いするんだ。ウィリアムは口元をきゅっと引き締めて朝日に誓った。
 その時、背後で砂利を踏む音が聞こえた。
 すみません、と話しかけられて彼は振り向き、驚いた。私服姿のオリビアが居たからだ。

「おっ、おっ、おおおオリビア……!? どうして……!」
「こちらで絵を描いてもらえると聞いてきたんだけど。……あなたが昨日、描いてくれるって言ったから少し早起きして来たのよ。それとも、もう描いてもらえない?」
「そそ、そんなことないよ! どうぞそこに座って!」

 心臓をばくばくさせながら、ウィリアムは慌ててキャンバスに向き直る。あんなに断っていたのに、絵を描いてくれとオリビアはやってきた。その理由がわからなくて、ウィリアムは首を傾げる。これだからイギリス式はよくわからない。けれど頭の中で考えるのはもうやめだ。今は目の前にいる人間を描く。自分の使命はただそれだけだ。
 キャンバスの向こうにいるオリビアが、彼の様子にはにかんだ。真っ赤になった顔を悟られぬように、ウィリアムは炭を握る手に力を籠めるのだった。


即興小説トレーニングのお題
お題:イギリス式の境界 制限時間:30分
加筆、修正したものをupしました。

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