さざなみの音

 ――海の前を通ると、いつも呼ばれている気がした。

 授業中、数学教師の藤田の声に紛れて、耳元でさざ波が聞こえたような気がした。私は思わず顔を上げて窓の向こうを見遣ったが、隣のクラスがサッカーをしているだけだった。
 気のせいか。と頭を左右に軽く振って否定する。

 そもそも、さざ波の音が聞こえる方がおかしいのだ。この学校は、海から大分離れた場所に建っているのだから。

「理央ちゃん」

 クラスメイトの朝香に後ろから声をかけられた。朝香はクラスでひときわ可愛くて、誰とでも分け隔てなく接するスーパースターな女の子だった。

 二年生になって、親友と別のクラスになってしまった私のところへ、一番に声をかけにやってきたのは朝香だった。それ以来、よく絡むようになったと思う。
 朝香は私がぼんやりしているのを見て、落ち込んでいるとでも思ったのだろうか。彼女は心配そうな顔でこちらの顔を覗いてきた。

「どうかしたの? 授業中もぼうっとしてたみたいだけど……」
「何でもないのよ」

 私はへらっと笑って、両手を胸の前で振った。高校生にもなると、嘘をつくのが上手になって困る。

「そうお? なら、いいんだけど……。何かあったら、何でも言ってね!」

 にっこりと笑った朝香に、内心辟易していた。何かあったら、何でも言ってねって。何かあっても、あなたにだけは絶対に言わないって、心の中で思ってしまう。

 私は、クラスでは大人しいタイプだけど、女性らしいやりとりが苦手だ。いつもにっこりしている人よりも、不愛想ではきはき物を言うタイプの人の方が、すき。
 笑顔の人は、一般的には愛想がいいと思われるだろうけど、私にとっては何を考えているのかわからなくって怖い。裏も表もない人の方が、信用できる。それでも今の私には、朝香しかいなかった。
 それがほんの少し、息苦しくて……たまらない。

「それじゃあ、またね」

 私は手を振って、朝香にさよならをした。なるべく早く、その場から離れたかった。朝香に寄ってきた誰かが「朝香ちゃん、理央ちゃんと仲がいいの?」なんて聞いているのが聞こえて私は耳元を両手でふさぎながら廊下を走った。そういうの、聞きたくないのに。

 遠のいていく校舎を背に、海沿いに向かって自転車をこぐ。海から大分離れているのに、潮の匂いが風に乗ってやってくる。

 ふと、見えてきた水平線の向こうを、目を細めて見つめる。水面はきらきらと光を浴びて美しい。私は、地上で泳ぐのと海の中で泳ぐのと、どっちが泳ぎやすいんだろう。そう思った。

 ざざん、ざざん。
 授業中に聞こえた音と、同じ音が聞こえる。
 さざ波の音は、ひどく優しく感じられた。私はどうしてか、さざ波の音を聞くといつも海に呼ばれているような気がした。
 どういう感覚なのか、教えて欲しいと言われるとちょっと困る。
 心が落ち着くような、懐かしいような、胸がきゅっとなるような。そんな気分になるのだ。

「早く大人になりたいな……」

 自転車をこぎながら、誰に聞こえるわけでもなく呟いた。大人になったら、少しは上手く泳げるようになるのだろうか。
 誰にもぶつからず、自由に泳げる魚のように。


即興小説トレーニングのお題
お題:遠い潮風 制限時間:30分

戻る