夕方。
 一羽の鷺が夕日に向けて、高く頭上を飛んで行った。鳴きながら飛んで行った山の方から、入れ違いに一台の馬車がやってくる。
 ホワイトブルク家にやってくる馬車は一日二回。朝と夕刻。その夕刻に来た馬車から荷物を下ろした商人が、支配人のリラに一通の手紙を手渡した。表と裏を二、三度返し確認したリラの肌色がさっと青くなる。違和感を感じて首を傾げた商人が声をかけた。

「おや、リラさん。どうかしましたか? まさか借金取りからの督促状でもないでしょうに」

 冗談を口にする商人の言葉も聞かず、リラは震える手で手紙を乱暴に開けた。折りたたまれた便箋を広げ、泳ぐ瞳ですべての内容を読むと、よろめいた後ロビーへと駆け出した。商人が後ろから声をかけていることにも気づかず、リラは大声で叫んだ。

「ロート!! ロート……ッ! いないのか!? ロート……!」

 まるで絞り出すように悲痛な声に、何事かと屋敷中の人間がロビーへと顔を出した。気だるそうに「名前はいっぺん呼べば聞こえとるわ」と現れた彼に、リラは縋りつくようにしてその場に崩れ落ちる。常に余裕な笑みを浮かべる支配人のただならぬ様子に、医者も顔を歪めてその腕を掴んだ。引き寄せて立たせようとするも、その足に力はない。「何があった」と低い声で唸るロートに、リラは手紙を握りつぶしたまま、震えながら嗚咽を漏らした。

「ゴルトが死んだ」

 ぴくりとロートの肩が揺れる。まるで時が止まったかのように目を大きく見開き、口元が引きつった。死んだ、との言葉にその場にいた誰もが息を飲んだ。
 ブラウは、一瞬誰が亡くなったのか理解できなかった。

「事実なのか」

 ロートは子供を殺しそうなほど、怖い顔でリラに尋ねた。

「僕が嘘を言うもんか……!」
「貸せ!」

 リラが持っていた手紙をひったくるように奪うと、ロートは手紙を読み始めた。文字を追う目がすでに険しい。一言も発しない彼に、その場に居たものは皆、息ができない思いだった。
 間違いであって欲しい。ブラウは血の気が引くような思いでロートの言葉を待った。しかし、彼の口から放たれたのは非情な結果だった。

「……間違いない。先日赴いた先の村で死んでる。この手紙はその村のやつが、そこから近い大きい街から送ってる」
「そん……な」

 震える唇で言葉を紡いで、ブラウはそのまま立ち尽くしてしまう。頭の中で、ご主人様が亡くなった、死んだという文字がぐるぐると駆け巡るばかりだった。オランジュがわっと泣き崩れた声が聞こえたが、振り向けなかった。ゲルプが俯いて拳をきつく握りしめ、シュヴァルツが片手で顔を覆っていた。グリューンは壁を叩こうとしてやめ、リラもロートも、押し黙ったまま項垂れていた。
 ブラウは頭の中が真っ白だったが、どこかで冷静な自分もいた。親のように接してくれた伯爵が亡くなったことは、胸が刺すように痛い。痛くて、辛くて、どこかへ逃げ出してしまいたい気分だった。けれども、これからのことを考えると、もっと締め付けるように痛い思いがするのだ。ブラウはふと、口を開いていた。

「だって、そんな、嘘でしょう。先日まで、僕はロビーで旦那様を見送って」
「……ブラウ」
「行ってくるよ、って仰ってたんです。それってまた、帰って来るってことでしょう!? そんな手紙一枚で、僕は……信じられません!!」

 ゲルプが彼の肩に手を置いてなだめようとしたが、ブラウはそれを振り切ってロートの元へ詰め寄ったが反応はなかった。反応を返す言葉がなかったのか、気力がなかったのかはわからない。
 ――嘘だ。
 帰って来るのが、旦那様のご遺体だなんて。信じたくない、とブラウは顔をくしゃくしゃにして唇を噛んだ。そこへ、ナイフを突き刺すかのような冷たい声が響き一同はやっと顔を上げた。

「騒がしい」

 いつから居たのか。
 細い目でブラウ達をじっと見つめていたのはオリーブだった。階段を手早く降りて来ると、ロートが持っていた手紙を黙って目を通す。ブラウが見ていた場所からは、オリーブの目が右から左へと動く仕草しか見えない。一通り読み終えたのか手紙を再び彼につき返すと、彼女は短いため息をついて――信じられない一言を放った。

「仕方がありませんが、死んだ人は帰りません。伯爵様が亡くなった今、この屋敷を統率するのは私しかおりません。リラ、明日に私は手続きを行いますので、その準備を行いなさい」

 皆、耳を疑った。
 同時に時間が止まったかのように感じたのは、ブラウだけではなかっただろう。ホワイトブルク家の当主が亡くなった後でも、この女は身じろぎ一つしないのか。

「何を言って――、ッ」
「お前、それでも伯爵様が選んだ女かッ!!?」

 ブラウの肩にぶつかって、オリーブの胸倉を掴んだのはグリューンだった。顔を真っ赤にし、その瞳は憤怒に満ち満ちている。グリューンの力はその辺の男よりも屈強で、オリーブは彼女の荒々しい力に、さすがに顔を歪ませて言った。

「……っ、乱暴な人ですね。まるで闘技場で我慢されている闘牛のよう。この手を離しなさい」
「……」
「グリューン、奥様から離れて」
「こいつは奥様なんかじゃない。ゴルト伯爵の奥様は、たった一人だ」
「グリューン!」

 ぎらぎらと光るグリューンの瞳がオリーブを離さない。胸倉を掴む腕に力が籠もり、このままではまずいと感じた男勢がグリューンと夫人を引き離した。グリューンは掴みかかっていたブラウ、ゲルプ、シュヴァルツ達を義手で薙ぎ払い、夫人はリラが夫人の前に立つ事でもめ合いは鎮まった。オリーブは佇まいを整えると、グリューンを一瞥し嘲笑うように口走る事で、再びグリューンの目が血走った。

「ふ……私が貴女の言う奥様と似ても似つかぬというなら、いいでしょう。認めます。貴女は貴女が仕えたい人に仕えればいい。この屋敷にいなくとも」
「何……!?」
「やめろ、グリューン。夫人、それは一体どういう意味で仰っているのでしょうか」

 グリューンを制したロートが、オリーブの言葉にさすがに眉をひそめて尋ねる。返答によっては、ロートも黙ってはいない。そういう気迫を感じられた。

「どういう意味も何も。言葉の通りです。明日からこの屋敷を動かすのはこの私。ですが、私が気に入らないというのなら、いつでも出て行って頂いて結構ですよという意味です。使えない使用人など、居てもいなくとも変わらない。むしろ……この屋敷には必要ありません」
「な……!」
「そこまでおっしゃるなら、出て行きます!」

 そこからはもう、めちゃくちゃだった。「何と言う事を」と続けて言おうとしたブラウより先に、オランジュが泣き叫び飛び出して行く。ゲルプは腰掛けを地面に投げ捨て、シュヴァルツが眉を下げ背を向ける。グリューンは何か言いたげにしたが、歯を食いしばって部屋へと戻って行った。リラとロートもその場を後にし、残った使用人はブラウだけとなってしまった。オリーブが冷たい瞳をブラウに向ける。

「貴方はどうされますか? ミスターブラウ。」
「僕は……」

 どうされますか。
 その意味は、「お前も同じようにこの屋敷を去る方を選ぶ」か、「私に仕えこの屋敷にとどまるのか」のどちらかだ。ブラウが一瞬言い淀んだその時。

「シュネー様……」

 ブラウが振り返った先の、混乱する眼差しをしたシュネーと目が合った。

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