屋敷の使用人がブラウだけになってから、一週間が経った。
 伯爵の葬儀も終え、屋敷の主がオリーブに変わる手続きが無事が終わり、何事もなかったかのように屋敷は静けさが広がっている。
 父親が亡くなってしまったシュネーはというと、力なく部屋にいることが多くなった。時折、ブラウの前へ飛び出してきては、元気いっぱいに振舞っている。それが空元気だということがわかっても、ブラウはただ黙って彼女を見守るしかなかった。

 オリーブは相変わらずの態度で、シュネーに対してもブラウに対しても辛口だ。最近はブラウだけではさすがに屋敷が回らないため、新しい使用人何人かと契約を結んでいる最中らしい。明日の朝には新入りが挨拶のために顔を見せにやってくると聞いて、ブラウは今までやってきた仲間を思い出しては胸が痛んだ。

 どうすればよかったのだろうか。

 思えば何年も前から、流行り病が広がり始めたあの頃から、少しずつ屋敷の中が変わって行ってしまうことが辛かった。奥様が亡くなり、新しい奥様がやってきて、伯爵が亡くなって。そしてついには使用人たちがバラバラになってしまった。

「寂しいもんだな……」

 誰にともなく呟いて、ブラウは俯く。思えば始まりも一人だった。せっかく伯爵に拾ってもらい、家族のような仲間を得たのに、また一人ぼっちになってしまった気がする。そう思って、思わず首を振った。
 ――自分にはまだ、守らなければならない大切な女の子がいるじゃないか。

 切り替えよう。
 生きている限り、いつも自問自答で苦しい。どうすべきか、どうすれば前へ向いていけるのか。それでも人の温かさに触れるたび、大切なものがある限り、強く生きていかなければならないと彼はこの屋敷に来た時から知っていた。

「よし」

 肩を大きく回して、ブラウは仕事へと戻って行った。



 その夜。
 月の出ない、生暖かい気持ちの悪い熱気に寝付けず、ブラウは目が覚めた。
 水を飲もうとふと、部屋の隅にあるガラス瓶を見る。運悪く空っぽだったグラスにブラウはため息をついて一枚羽織ると、台所へと向かった。
 誰も居ない屋敷に、彼の足音だけが響く。
 真っ暗な中を歩いていると、今でもひょっこりと伯爵と前妻の奥様が現れるような気がして仕方が無かった。
 出てきて欲しい。
 少なからず願っているからかもしれないと、灯りを照らし進む中でブラウは思った。

 夜中に浮き彫りにされるこの見た目が時折恨めしい。自然と流れ出す涙を拭い水場へと向かおうとしたその時、気味の悪い呻き声がどこからか聞こえて来た気がして立ち止まる。
 地の底から絞り出すような、苦しそうな声。

 護身用のナイフは……。
 ブラウはポケットに得物があったことを確認し、声のする方へと忍び寄る。台所の机にガラス瓶をそっと置いて足音を立てないように。
 一歩ずつ確かに歩み寄り、灯りの見える方へ距離を詰める。残念なことに、グリューンが屋敷を出て行ってしまったために現在の警備が手薄だった。ブラウは密かに眉を寄せた。
 ――伯爵が亡くなった噂を聞きつけて来た、泥棒か?

 何者かの気配とある程度の距離に近づけた時、相手に逃げられないように背後から声をかけた。

「誰だ」
「!」

 薄暗い暗闇の中で、彼の声に驚いた呻き声の張本人が固まる。ブラウの灯りが、振り返る目の前の人を照らして驚いた。

「オリーブ様……こんな時間に何を」

 呻き声をあげていたのは、酷い顔色のオリーブだったのだ。
 気分が悪かったのか台所の残飯桶に吐いていたようで、はあはあとゆっくりと息をしていた。その傍らには、何故か刃渡りの鋭いナイフが置かれている。
 ここで一体何をしようとしていたのか。
 ブラウは脳裏に恐ろしいことを考えてゾッとした。まさか、深夜の楽しい料理時間でもあるまいに。

「お、」

 ブラウが何かを言いかける前に、オリーブが思わぬ強い力で彼の両肩を掴む。

「……誰にも言ってはいけません。ここで見たもの、私と話したことの全てを」
「は……?」
「言う事を聞きなさい!」

 ランタンの光で照らされた彼女の目は、青い顔と対照的にギラギラと輝き、ブラウは恐ろしく感じた。
 何という力だ。
 両肩に爪が食いこみ、痛みに一瞬顔を顰める。そしてなお、オリーブは続けてとんでもない事を言い放った。

「シュネーを、あの子をこの屋敷から追い出しなさい」

 ――は?

 ブラウは夫人が言っている意味を理解できなかった。

「簡単なことです。今、部屋で寝ているあの子をどうにかして、この屋敷から一番遠い施設にでも預ければいい」
「なぜそんな事を……」
「なぜ、ですって?」

 オリーブはせせら笑った。

「今は妻である私がこの屋敷の主ですが、継母の私など、実の子供より権力は小さい。いずれ彼女が十七歳にでもなれば追い出されるのは私の方。今の内に芽を摘む事でそれを回避できる」
「貴族であるシュネー様が屋敷から出る事を、貴女は理解していないはずがないでしょう!?」

 ブラウは知っている。
 自分のように見世物にできるような見た目であるか、特異な能力でも持ち合わせていない限り、地位から離れた貴族が市制に下ればどうなってしまうのかを。男なら低賃金による力仕事を強いられるか、悪事に手を染める。女なら男よりも低い賃金で針仕事、あるいは……体を売るか。
 どちらにせよ、体を壊して心も折れる。ぬくぬくと育った貴族が到底やっていけるものではない。オリーブの言っている事は、「シュネーを殺せ」と同義であった。そしてその手伝いを自分にしろと、ブラウは今、言われている。

「そんな事をしてみれば、国から罰せられるのは貴女の方だ! それに……私がシュネー様を傷つけるわけがないでしょう」
「しないなら、させるまでですよ」

 嘲笑うようにして言い捨てるオリーブが恐ろしく見えた。唇が震えて、上手く喋れない。布切れで口元を拭いた女主人は、続けて言った。

「ホワイトブルク家に忠誠を誓い続けたブラウ。貴方なら……子供一人を殺す事など造作もないことでしょう?」

 脳が脈打つ。頭の中でぐるぐると何かが駆け巡る。声を失ったブラウに、オリーブはとどめを刺すように言った。

「……貴方が殺せないのならば、今夜、私があの子を殺します。そして、貴方も」

 彼女が持っているナイフに目を遣ると、その平に怯えたような顔の自分が映っている事にブラウは気づく。
 彼女はやはり、シュネーを妬み、恨んでいたのか。自分が愛した夫の子供だというのに、殺そうとしていたのか。
 この、ナイフで?

 その瞬間、ブラウの頭の中で何かが弾ける。オリーブが掴んでいたナイフを弾き、彼女を思い切り突き飛ばした。とっさに体を守るように転げたオリーブは、床下からブラウを睨みつけると、自分の肩を抱くようにして「貴方……」と呻く。
 何が主人だ。
 何が、使用人だ。
 ブラウはナイフを拾い窓から放り投げると、オリーブの前へ仁王立ちし睨み、見下ろした。銀色の髪が、夜闇に浮かぶランプの灯りに照らされてしゃなりと揺れる。映る瞳は決意に満ちていた。

「いいでしょう。私がこの屋敷からシュネー様を連れ出しますよ。でも、絶対に……」

 ブラウの声が固く、鋭く部屋に響き渡る。

「殺しはさせない。私が彼女を、貴女から守り通します!」

 言い捨てるように厨房から飛び出して、ブラウは大切な子が眠る部屋へと駆け出した。

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