ブラウは台所を勢いよく飛び出すと、オリーブを振り返らずにシュネーの眠る部屋へ向かった。辿り着いた彼女の部屋の扉を、息を切らしながら荒々しく叩く。
「シュネー様……シュネー様、起きて下さい!」
頼む、早く出てくれ!
ブラウは逸る気持ちのまま、泣きそうな顔で彼女の名前を呼んだ。オリーブに追いかけられるかもしれない、という焦燥感と、早くここから連れ出して遠くに逃げなければという責務感が、彼を急き立てていた。焦るブラウの気持ちが通じたのか。しばらくして扉の向こうから物音が聞こえ、眠そうに目を擦るシュネーが顔を覗かせた。
「どうしたのブラウ。こんな時間に……」
「シュネー様、急いで着替えて、支度をして下さい」
ブラウはシュネーの許可も得ずに勝手に部屋に潜り込むと、箪笥の引き出しを開け鞄に服を数枚入れ込んだ。意識がはっきりしてきたシュネーは、何事なのかと怪訝そうに少年の顔を覗き込む。
「ブラウ?」
早々に用意を済ませると、ブラウは彼女の手をしっかりと握り、足早に部屋を出ようとする。厨房がある方角を振り返ったが、女主人は追いかけて来ていないようでひとまずほっとした。胸が早鐘のように鳴って止まない。
急がなければ。
寝間着姿のシュネーに向き直ってブラウははっきりと言った。
「逃げましょう」
彼の言葉の意味がわからず、シュネーは訝し気に首を傾げる。
「言っている意味がわからないわ。どういうことなのか、ちゃんと説明してちょうだい」
「すみません、きちんとお話したいのですが、今はその時間がありません。貴方が殺される前に、僕は貴方をこの屋敷から助け出したい」
殺される? とシュネーは幼い顔立ちを崩し怯えた。
「殺されるって……」
「……」
いったい誰に?
その問いに彼は答えられない。
「とにかく今は僕を信じて着いてきて欲しい」と懸命に訴えるも、シュネーはそれを許さない。
理由なく父や母と過ごしたこの屋敷から出る事は、たとえ一歩でも出る事は、彼女にとって二人を裏切ることだと思っていたからだ。だから、納得のいく答えが欲しいと思うのにも無理はなかった。
ブラウはそんなシュネーの気持ちを理解していたが、それを今許すことはできない。納得のいかないことは言うことを聞かないという彼女の性格を、執事はよくよくわかっていた。わかっていたはずなのに、ブラウは思わず歯噛みしてしまう。
この、わがままお嬢様。
早くこの城から出なければ、彼女は継母に殺されてしまう。時間がないという焦りから、いつしか二人の会話は口論へと変わっていた。
「お願いします、僕とついてきてください!」
「いっ……嫌よ! 貴方が話してくれないなら、私はここから動かない!」
「――すみません」
拉致があかないと感じたブラウは、失礼を承知でシュネーのお腹を拳で突く。少女の体はがくりと力が抜け、彼女はブラウの腕の中に静かに収まった。
……申し訳ありません。
そう心の中で呟いて、ブラウは大切な人を背負うと入口まで走りだした。
ブラウの生まれである一族は、元々は身体の作りが他人と違う。だから見世物小屋に引き抜かれ、芸をしていたという事もあるが、身のこなしや体力が普通の人より桁外れに優れている。
高いところで飛んだり跳ねたりバランスを取ることも。向けられた剣を軽やかにかわすことも。彼には簡単なことだった。
そのため、十一歳になったシュネー一人分なら、十七歳のブラウにはぬいぐるみを持つほどに、軽い。
腕の中の女の子が眠りから覚めない内に。恐ろしい女主人がやって来ない内に。
生温い風の中を、真っ暗な闇の中を、ブラウは必死で走り続けた。
「はあ、はあ……。うっ……」
大切な人は重くもないのに、オリーブの事が頭にちらついてブラウの心が乱される。何度も時折後ろを振り返っては、追いかけていないか確認してしまう。屋敷から大分走って来た。オリーブの足より自分の足の方がはるかに脚力が違うというのに、大切なものを奪われるかもしれない恐怖は、少年の精神を少しずつ削っていった。何もなかったブラウから、伯爵やその夫人だけでなくシュネーまで取り上げられたならば、きっと彼はおかしくなっていただろう。
こんな闇の中を行く先に、自分たちの希望はあるのか?
僕はこの道を進んでいいのか?
わからない。
ぬかるんだ足元はぐちゃぐちゃで、靴にまで染みてきている。少年が暗い森の中を一人背負って走るには、不安で心が潰されそうだった。途中、幾度もふらつきそうになった。その度に足に力を入れ直し、手でしっかりとシュネーを支え直す。
今は走るしかないと、力を振り絞ろうと唇を噛みしめた時。
ブラウはいつか伯爵が己に言ってくれた言葉を思い出した。
『君は美しいね。まるで摩天楼を照らす月明かりのようだ』
その瞬間、父のように優しかった伯爵の笑顔や、温かい思い出が、愛おしい気持ちと共に脳裏に蘇る。
「伯爵様……っ」
ブラウは走りながら涙を流していた。
伯爵様。
本当に、そうでしょうか?
こんな僕でも、貴方にとって月明かりのような存在になれていましたか?
無我夢中でシュネー様を屋敷から連れ出したけれど、本当にこれで良かったのでしょうか?
自問自答しても答えは出ず、一人走り続けるしかない。
上手く呼吸をしようとしても涙と感情が邪魔をして苦しかったが、溢れ出る涙は乾いては流れ、止まることはなかった。
誰かのために何かをする時、その判断は正しいのか。誰かのための月明かりに、果たして自分はなれるのか。
これが正しいのか、そうでなかったのかは、今のブラウにはわからなかった。
けれど確かなことは、自分にはシュネーを殺すことも、見殺しにすることもできない事だ。伯爵の大切なものを、守りたいと言う事だ。
宛てもなく走っているようで、行き先は決まっていた。
屋敷から大分離れた南の外れ、伯爵領の境ギリギリのところに、行き場のない子供たちが集まる孤児院があった。そこは訳ありの子供でも預かってくれると、かつて屋敷に招いた客の話を聞いて覚えていた。
ブラウは夜通し歩いて何とかその孤児院に辿り着いたが、さすがの彼も早朝には息切れし、彼女を背負っているのが精一杯だった。
孤児院の責任者がブラウに気づいて慌てて駆け寄って来る。その方にシュネーを託すと、ブラウは彼女が見たこともないような、ぐしゃぐしゃの顔でシュネーの頬に触れた。
「シュネー様」
彼女が起きないことをわかっていて、ブラウは呼びかける。
「起きなくていいです。黙ってこんなところまで連れて来てすみません。一緒に居られなくて、すみません。貴方が悪役令嬢になって活躍する日を見られなくて……すみません」
笑って謝ればぽたり、と熱い涙が滑り落ち、眠る少女の頬を濡らした。
「シュネー様、どうか」
ブラウは止められぬ涙を零しながら、朝日に照らされる美しい彼女に笑って言った。
「お元気で」
それから五年の月日が経った。
逃げ出したあの夜。結局ブラウ達を追いかけて来る者はおらず、そのまま孤児院にシュネーを預けた。今のブラウは、伯爵に会う以前のように見世物小屋で芸をしながら、毎日を何となく生きている。
……これで、良かったんだ。
ブラウは火の輪くぐりと空中ジャンプという芸を終えた後、拍手喝采の中、舞台を去って檻に戻った。
大きなテント屋根が張られた「サーカス」という名前の見世物小屋。ブラウはそのテントの中に建てられた小さな小屋の中に住み込みで働いている。
そこでの雇われや奴隷は、猛獣と同じように檻の中に待機させられていた。そこが待機場所であり部屋でもあった。
檻は五つあり、扉から一番近いのは猛獣であるライオン。その手前の檻には猛獣使いの少年。
その向かいの檻はピエロで、ピエロの隣がブラウ。
一番奥の檻がナイフ投げの少女だった。
サーカスの団長――今の主は金持ちの客に檻を眺めてもらい、気に入った者がいれば買い取ってもらう。
この五年間にブラウの事を買い取りたいという人も何人か現れたが、主は彼に高値を付けて、そう簡単には売れないようにしていた。ブラウ個人を売ってしまうより、ブラウに芸を長くさせた方が儲かるからだ。
そんなやり方をずっとさせられるのかと思うと、青年は胃の辺りがムカムカした。十七歳だった少年のブラウも、今では二十二歳。立派な若者だった。細身の体躯は相変わらずだが、手足や肩などが大人のものへと変わり表情も完全に幼さが消えた。美しい見た目から、女性の熱視線が送られることもしばしばで、彼見たさに入場料を払う客も少なくはない。
――他の召使い達は、元気にしているだろうか。
ブラウはふと、狭い檻の中から顔を上げた。そこには何も見えない。あるのはただ埃臭さと、獣の臭い、風呂に入れない男どもの何とも言えない臭いだけだ。
――シュネー様もお元気でいらっしゃるだろうか。風邪をひいたり、駄々を捏ねたりしていないだろうか。もしかしたら孤児院で金持ちに目をかけられ、引き取られて幸せに暮らしているかもしれない。
生きていれば、今頃十七歳。
きっと元の奥様に似て、美しく成長したいに違いないとぼんやり思う。だがそこに意味は無い。使用人ですらなくなったブラウには、関係の無いことなのだから。
ブラウがふうと短い息を吐いたその時、見世物小屋の裏側から誰かが入ってくる音がして振り返った。
扉を閉める音と共に、主の猫撫で声も聞こえてくる。『商品』を見に来た金持ちも一緒に入って来たのだろう、ブラウはまたかと思いながらも、姿勢を正しきちんと座り直した。それは他の檻の中に入っている者達も同じで、いい子にしていないと後で酷い目に遭うのだ。そう、例えば鞭で叩かれたり。
主と客は入り口のライオンから順番に見て回っては、何かを話しながら奥へと近づいてくる。
「この子は猛獣使いなのね、こんな怖そうなライオンを扱えるなんて、すごいわ!」
「そうでしょうそうでしょう? 大柄ですし、気が利く子供なので奴隷にもピッタリですよ」
「でも、もっと奥の方も見てみたいわね……」
どうぞどうぞと下手に出ながら、主はひとつひとつの檻にいる者を説明し始める。今日やってきた金持ちは、若い女のようだった。ブラウはちらりと遠目で見遣ったが、自分とそう変わらない年齢に見える。
どうせ、暇を持て余したどこぞの貴族が、言う事を聞かせたい奴隷欲しさに親に連れられて来たのだろう。
ピエロを素通りした後、主と女はブラウの前に立ち止まったので、ブラウは俯いたまま黙って胡坐をかいていた。
「この者はこの国では珍しい見た目の奴隷でして、白っぽい髪に青い瞳が幻想的でしょう? そして何より褐色の肌がそれをより引き立てているのですよ」
主は自慢半分、宣伝半分にブラウの事を話し始める。売りたいのか自慢したいだけなのか、どっちかにすればいいのに――ブラウはイライラしながらその場を過ぎるのを待った。見世物小屋で働くのは慣れたものだが、やはりじろじろ見られながら話されるのはいい気がしない。犬や猫の気持ちがわかるのは自分達くらいなものだ、そう少年は心の中で吐き捨てた。
ここからは主の独壇場。バカ高い値段をチラつかせ、手の届かない金額に指をくわえて見ている金持ち達を心の中で笑う。
――趣味が悪い。
ブラウが小さくため息をついたとき、金持ちの女がなるほど、と切り出した。
「確かに、美しいわ。摩天楼を照らす月明かりのようね」
ブラウはその言葉に、思わずはっと顔を上げて息を飲んだ。
「……シュ、ネー、様……?」
そこには、
黒檀のような艶やかな黒髪で。
雪のような白い肌を持ち。
林檎のような赤い唇を持った、彼がよく知る女の子。
シュネー・ハインリヒ・ホワイトブルクが、腕を組んで笑顔でブラウを見下ろしていた。