ブラウは目を瞬かせてまじまじと彼女を見上げた。
 貧乏人が見ただけでわかる、高価な生地を使ったそのドレス。体のラインがくっきりとわかるその服は、彼女の華奢な体に不自然についた豊かな胸を強調させている。
 大人の色香が漂う妖しさと、若さ特有の穢れのなさが入り混じったその容貌は、街の大通りに出たならその美しさに誰もが振り返っただろう。
 幼い頃の面影は残っているものの、女性らしく美しく成長したシュネーの姿に、ブラウはしばらく目を奪われていた。
 それも束の間、不躾に見ていたせいで主の怒号が青年へ飛んだ。

「おい、いつまでもじろじろ見てんじゃねぇ! この方がお前のお知り合いなわけがあるか!」

 ブラウが慌てて彼女から視線を外すと、主は再び猫撫で声に変わり客に謝っていた。

「ご気分を害されたら申し訳ございませんねぇ、シロ様。シロ様がお美しいから、こいつも見惚れてしまったようでして」

 シロ?
 目の前にいる少女はどこからどう見ても間違いなく、ブラウの元主人の娘、シュネー・ホワイトブルクだった。ところが主の口から出た名前は、耳馴染みのない聞いたこともないもの。ブラウは怪訝な顔をして、主と少女を交互に盗み見ていた。

「別に気にしていないわ、よくある事よ。売りに出した奴隷がもう一度自分を買って欲しい、と私を見つけて懇願しに来ることが……困るのよねぇ」

 何度も奴隷を売り買いしているような口ぶりに、サーカスの主は双眸を開いて嬉々とした。いったい、屋敷にどれほどの財を持っているのか。シュネー様によく似た少女は、ブラウの方を一瞥する。

「だから私もこんな奴隷が屋敷にいたかしらと思って、よくよくお顔を見てみたのだけれど……」

 そう言って、少女はふふっとおかしそうに笑った。

「全然、全く、超絶マクロも知らない他人の空似でしたわァー!!」

 おーっほっほっほっほと高く声をあげて、なぜかブラウに向けて満面の笑みを向けた。
 何だ、この女。
 ブラウはしばらく飽きれてその様子を見ていた。少女の高笑いに気を良くしたのか、サーカスの主も負けじと大きな声で天井に向けて笑い始める。狭い小屋に二人の高笑いが響き、古棚から小さな埃がぱらりと落ちた。

 シロという女は、主に連れられるとその日はそれきり戻って来なかった。ブラウは主が商談に失敗したかと思ったがそうではなく、一旦帰られてしまったらしい。その日のうちに金を作りたかったのだろう、主は舌打ちしながらぶつくさ文句を言っていたが、それも次の日になれば何事もなかったかのように仕事を再開していた。
 少女を見世物小屋の客席でも見かけるかと目を凝らしてみたが、開演中にその姿を見かけることは無かった。
 日が経つにつれてその面影も曖昧になっていき、本当に他人の空似だったように思えてくる。

 ブラウは頭を振った。
 あの時に見たのは確かにシュネーだった。それなのに、少女は自身のことを知らないと言って笑っていた。それがなぜだか、ブラウには無性に空しく感じるのだった。

 一週間が過ぎた日の夜のこと。
 ブラウはいつも通りの演戯を終えて、檻の中に入って暇を潰していた。今日は見世物小屋の客の入りがあまり芳しくなく、人がはけると主が早々に閉めてしまったのだ。
 もちろん彼の機嫌は現在、最悪最低。
 日もとっぷりと暮れていた。
 他の奴隷たちも、無言で片付けを終えて檻の中で静かにしている。何か一言でも発すれば、それが三倍の鞭となって返ってくることはわかっていたからだ。

「そういえば、今日も来ていなかったな、あの女……」

 ふと、見世物小屋に来ていたシュネー様に似た女を思い出す。結局、ブラウたちの中から奴隷を買うことはしなかったのだろうか。
 まあ、もう来ないだろうし。どちらでもいいけれど。
 そんな風に考えていると、外で大きな悲鳴が上がった。

「な、なに?」

 隣の檻のナイフ投げの少女が身を強張らせる。同時に、ライオンが低く唸り始めた。

「火事だああああ!」

 その声を皮切りに、外が騒がしくなっていく。

「火事だって!?」

 ブラウは急いで立ち上がり、檻越しに窓の隙間から覗き見た。
 炎はテントのすぐ近く、主が住んでいる小屋から上がっている。離れた場所で、顔を青くして叫ぶ情けない面の主が見える。
 火は煌々と燃え上がり、火消しの甲斐もむなしく主の小屋を包んでいる。その周りを近くの住人が慌てふためき、炎から逃げまどっていた。

「演技に使った残り火が引火したのか!?」

 だがサーカスは早々に閉め、後片付けなどとうに終わっているはず。早鐘のように打つ心臓に落ち着けと言うかのように、胸元をぎゅうと掴んだ。

「そんな事より! 俺たちもここから出ないとまずいぞ!?」

 ピエロの男が焦った様子で檻越しのブラウに叫んだ。
 見ると、向こうのテントが炎で明るく揺らめいているのがわかる。
 ブラウが声を発する前に、ライオンも本能で危機を感じたのか檻を破って脱出した。鍵がかかっていたはずの檻は状態が悪く、錆びついていたのだろう。

「鍵はどこだ!?」

 猛獣使いの少年が悲鳴に近い声を出して鍵の在り処を探る。
 ブラウたちは檻の中から周りを見回して探し始めた。

「――あ、あった! あったぞ、ドアのすぐ隣だ!」

 ピエロが扉の隣を指さして答えた。
 木の板に釘が打ちつけられただけの、簡易な鍵かけにそれぞれの鍵があるのがわかる。一番近い猛獣使いの少年に、ピエロが手繰り寄せた棒を渡し取ってもらおうと試みる。

「焦げ臭くなってきたな……」

 ブラウは咳き込む口元を抑え唸った。テントの隙間から煙が入り込んできている。心無しか中の温度も上がっていて熱い。早くしなければ、全員逃げ出す前に神様に挨拶をしかねない。
 猛獣使いの少年がやっと、鍵を手繰り寄せるとそれぞれの檻に鍵を投げつける。ピエロは慌てながらも扉を開けることに成功した。

「悪いが先に逃げさせてもらうぞ!」
「おい、まだ他のやつも残っているのに……!」
「知るかよ! 俺だって自分の命の方が大事だ!」

 ピエロはそう叫ぶとそのまま小屋を逃げ出して行ってしまった。本来なら人を笑顔にさせるその顔は、酷く歪んで見えた。泣きじゃくる声が聞こえて振り返ると、小屋の隅から火が上がり出したのがわかった。

 クソッと苛立ちを露わにして、ブラウは自分の鍵を錠に差し込む。カチン!と外れる音を耳に扉を思いきり蹴破って、ナイフ投げの女の子の元へ駆け寄った。少女は手が震えて、錠前に鍵が刺さらなかったのだ。
 ブラウが少女を助け出した頃には、誰も居なくなっていた。

「まずいな……」

 気が付けば、自分たちのテントの周りは火の海で囲まれている。見世物で使う小道具も衣装も、赤々と燃える材料に変わってしまっていた。唯一の出口である扉さえもが炎に包まれ、今か今かとその炎を二人へ伸ばしている。
 少女はブラウの足元にしがみ付いて震えている。真っ青であるはずのその顔は、炎に照らされて橙色に光っていた。

 どうする?
 ブラウは頬に伝う汗を袖口で拭いながら考えていた。テントの中で建てた木材の小さな小屋、その正面の入り口以外に逃げられる場所がない。唯一の窓も小さすぎて通れない。

「くそ……どうすれば……」

 ふと、震えている少女に目を遣ると、なぜか少女があの日のシュネーと重なった。
 ともに、オリーブから逃げるために、仕方なく孤児院へと届けるしかなかった不甲斐ない自分をも思い出す。大切な人さえ、満足に守れない弱い自分を。

 あんな思いは、もう二度としたくない。
 ブラウは地面を舐めるように這う炎から庇うように少女を抱き寄せる。幼い少女は、ブラウの腕の中でひぐひぐと泣いている。何かないのか、この小屋を脱出する方法は。何か……。
 考えを巡らせるブラウに容赦なく炎の息吹がごうっと吹き上がる。着々と忍び寄る炎に、ブラウは思わず目をぎゅっと瞑った。
 その時。

「ドアも窓もないのなら、空から逃げればいいじゃない!」

 胸に抱く少女のものではない、軽やかな鈴のような声が、どこからか聞こえた。はっと顔を上げたが、どこにも姿は見えない。
 熱く燃え盛る小屋の中で風を感じ、ブラウは天井を仰いだ。

「ハロー、ブラウ! お困りのようね?」
「……君は!」

 小屋の天井に穴を開けたシロという女が、そこから頬杖をついて見下ろしていた。

戻る