「君は……」

 ブラウは面食らった顔で彼女を見上げた。小屋をじわじわと炎が包んでいく中、天井からブラウを見下ろす彼女の頬は、炎に照らされて妖しく揺らめいている。

「何でそんなところに……!」
「何でって、決まってるじゃない。助けに来たのよ」

 おかしな事を、とでも言うかのように彼女は首を傾げた。この状況でどうやって来たのか、どうやって登ってきたのか。頭の中を掻き回されたような思いで呆然と見つめていたブラウだったが、彼女が先ほど放った名前にはっとして叫んだ。

「っていうか……僕の名前! やっぱり、シュネー様じゃないですか!!」
「そういえば、そうね?」

 シュネー。狂おしいほど懐かしい名前を呼ばれてうふふと笑った少女は、ぺろっと舌を出してしたごまかした。その様子、仕草に、五年前のあどけない娘の思い出が蘇る。その反面、嘘をつかれたことで長年の時を経た再会に感動……するよりも。嘘を吐かれてブラウは怒りが込み上げてきた。

「何であんな嘘を吐いたんですか!」
「そんな事より、ブラウ。貴方、早くそこから出ないと死んじゃうわよ?」
「そんな事とか言いやがりましたね……ッ!?」

 罪悪感など何一つ見せず、シュネーはあっけらかんという。ブラウが周囲を見渡せば、壁を伝い天井にまで炎が登り始めている。このままでは焼けた天井が崩れ落ち、文字通り自分と腕の中の少女は共々に焼け死んでしまう。
 それだけは勘弁だ。

「ここから早く出なきゃいけない事なんてわかってますよ! でも、出口がないんです」
「出口がないなら出口を作ればいいじゃない!……私の使用人って、こんなに頭が悪かったかしら」
「は!?」

 ブラウが何を言っているのだと言う前に、シュネーは自分のいる場所を指差し何かを取り出した。それはサーカスで使う、ライオンと綱引きするための演技用の太いロープだった。シュネーはロープの片側を天井からぱらりと垂らすと、

「もう片方は大柱にくくりつけたわ。これに伝ってくればここから出られるでしょう!?」
「それは……」

 ブラウ一人なら可能だろう――だが。彼は足元で怯える少女を見た。小さな女の子は、ブラウを涙でいっぱいの目でじっと見つめている。
 この子を片手で抱き上げ、片方の手でロープを使うのは、

「無理じゃないし無茶じゃない!」

 彼の心を読み取るかのように、シュネーが鋭く言った。

「私はね、やってもいないのに無理だとか言ったり、諦めているような人間が大嫌いなの。……身体能力の高い一族である貴方なら、そのくらいできるはずよ。この部屋は、あなたの意思で出なければ意味がない」

 そう言って、シュネーはにっこりと笑ってブラウを見下ろした。その笑みは冗談で作っているものではない。彼女は本気だ。本気でブラウに飛べと言っているのだ。お前ならできるはずだ、そこからさっさと出てこいと。
 彼は女の子とロープを交互に見つめて、実際に飛んでみる自分を想像する。ブラウの肌がちりりと焦げ付き、服の中が熱気と汗で蒸れているのがわかる。彼にまだ迷いの心が生まれている中、頭上からシュネーのものではない怒号が響き渡る。

「見つけたぞ、てめぇ!!」
「!」

 声ですぐ、見世物小屋の主のものだとわかった。
 火が上がっていない反対側から登ってきたのか、主はシュネーがいるところまでやって来ると、憤怒の形相で彼女を睨みつけている。その様子が、天井の隙間から少しだけ見えた。

「あら、ごきげんよう。サーカスのご主人」
「ちっっっともよくねぇわ! シロ、てめぇ……、俺が居ない間に小屋に火ぃつけやがったな!?」

 主はいかつい顔のまま鼻息を荒くして唾を飛ばす。目は血走り、今にもシュネーに噛みつきそうな勢いだ。そんな主とは対照的に、シュネーは腕を組み微笑んだまま首を傾げている。組んだ時に持ち上げられる豊満な果実が艶めかしい。

「火、って……シュネー様、まさか……そんな事。貴女じゃないですよね?」

 ブラウは耳を疑って尋ねた。火付けはこの領地でも重罪だ。いくら悪役令嬢になることを夢見ていた彼女でも、犯罪に手を染めるようなことはしないだろう。
 ブラウは自分が炎の中に居ることも一時忘れて、口論の様子を見届ける。

「何の事かしら? 私がそんなことするはずないじゃない」
「嘘をつくな! 地元の商人が見たと言っていたんだ、お前が俺の小屋辺りで怪しい行動をとっていたのを!」
「ああ。貴方と今朝、商談をした後のこと?」

 主は鬼のような顔でシュネー様に食いかかる。自分の家をも同然の小屋どころか仕事場が無くなったのだ、怒り狂うのも無理もない。
 別に怪しいことなんてしていない、とシュネーは酷く面白そうに笑う。”私は貴方が吸った後の煙草に火が残っていたのを眺めていただけよ”と言って。

「な、なんだと?」
「その煙草の火が落ちて、貴方の小屋に火が燃え移るまでずーっとね! ……あははは!」

 その瞬間、ブラウは主の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。

「こ、この野郎おぉ!!」

 主は額に青筋を立ててシュネーの腕を掴もうと手を伸ばしたが、タイミングよく二人の間に炎が吹き荒れる。怯んだ主は手を引っ込め、シュネーは後ろに体を引いて逃れると、令嬢とは思えない悪役面でにやにやと笑い始めた。

「くそ、避けやがって!」
「ふふ。私を捕まえてどうするおつもり?」
「決まってるだろ! てめぇを放火魔だって警察に突き出して、ぼこぼこにしねぇと気が済まない!」

 主がそう言うと、今度はシュネーの方が高らかに笑い始めた。

「何がおかしい!」
「だって、貴方の方が滑稽なんだもの。これを見てちょうだい」

 シュネーは懐から折りたたまれた一枚の紙を取り出すと、主に向かって広げて見せた。
 そこには、

「どう? わかる? 土地の権利書。この土地一帯の所有権は、本日をもって私、シュネー・ハインリヒ・ホワイトブルクに引き継がれました!」
「な、んな、なん……!?」
「移行に大分時間がかかったけど、今日やっと手続きが終わったところなの」

 赤かった主の顔が一気に青紫へと変わり、指を差して魚のようにぱくぱくと口を動かしている。

「貴方が悪いのよサーカスのご主人。ブラウの値段を馬鹿みたいに引き上げるからちょっと、どうしようかなって思っちゃって。でも、まあ……それが土地ごと買えば済むかっていう、私の名案を生み出したんだけれど」

 ――土地ごと。その言葉を頭の中で主もブラウも反芻する。この周辺一帯を所有している商人から買い取ったということか。そんなお金がどこにあったのか。ブラウは自然と口にしていた。

「ああ……そこ、疑問に思っちゃうわよね。心配しないでブラウ。ちゃあんと考えてお金は使ってるから!」
「そういう問題じゃないですよ! もともとのお金はどっから出したのか疑問に思ってるんですよこっちは! あと土地を買うっていう時点でお金の使い方間違ってますって! 土地を買うよりも、僕の値段の方が安かったんじゃないんですか。第一、僕なんかに……」
「なんかって言わないで」

 そう言った声は冷ややかなものだった。ブラウを見下ろすシュネーは、真面目な顔をして言った。

「私は貴方を絶対にあきらめたりしない。だからここにいるの。大事で大切な使用人の貴方をお金で取り戻せるっていうなら……どれだけお金を使ったってかまわない」
「しゅ、シュネー様……」
「私はあなたを返品したりしない! 傷つけたりもしない! 捨てたりもしない! 一生、私が大事にしてあげるんだから、大人しく一緒についてきなさいよ!!」

 ブラウは胸が熱くなるのを感じた。どうしてホワイトブルク家の人間は、いつも自分に同じことを言うのだろう。
 シュネーは口元をさらに三日月に描くと、主に権利書を突き出した。主はそれを引ったくるようにして上から下へと目線を移すが、主の顔色は青紫のままでこれ以上変わることはなかった。

「う、嘘だ!」
「嘘じゃないわ、本当の話よ。何なら今から役所に行って確かめてくるといいわ。土地の管理者さん、怒っていたわよ。貴方、許可もしていないのに勝手にサーカスなんて始めたっていうじゃない。だから私が言ったのよ。サーカスを追い出してあげるから、その代わり土地を一旦売って欲しいって。サーカスを追っ払ったらこの権利書も返す予定なの。……まあ、そういうわけで権利書通り、この辺一帯の土地も建物も全て私のものになったのよ。だから」

 シュネーはブラウを一瞥すると、含み笑いをして主に向き直る。

「ここにあるものすべて、私のもの。土地も、サーカスも、貴方も、ブラウも。そう、この土地の中で私が焚火を眺めていようとすべて、私の勝手なのよ!」
「嘘だあぁああああ――!!」

 主はこんなもの!と半狂乱になって権利書をびりびりに破り捨てたが、その権利書は複製だとシュネーに伝えられて更に発狂した。そして今度こそ彼女に掴みかかろうと、腕を振り上げて襲い掛かる。
 シュネーは微動だにせず強い目つきで主を睨んだまま叫んだ。

「ブラウ!! さっさと私を助けなさいッッ!!」

 ブラウは反射的に体が動いていた。主がシュネーの方へ視線をやった瞬間、咄嗟にナイフ投げの少女を腰から抱き上げて高く跳ぶ。それは彼の中でも高得点の部類に入る、勢いのついたジャンプだった。

「この……ッ!」

 主がシュネーへと一歩近寄ったのがスローモーションのように見えた。ブラウは自分が今まで入っていた檻の縁を踏み台にして、ロープを使って勢いをつける。つま先に焼けたような痛みが走った。そして、男の指先が彼女に触れる、その時。
 勢いのついたロープから手を離し、穴の開いた天井に向かって――

「ぶご……っ!?」

 小屋脱出と同時に、主の顎を思いきり蹴り上げた。

「シュネー様に触るな」

 冷たく睨んだブラウの青い瞳と無機質な銀髪が、暗闇を炎が照らす中、サーカスの下で揺らめく。
 それはまるで、

『君は美しいね。まるで摩天楼を照らす月明かりのようだ』

 かつてホワイトブルク家の当主が彼に放った言葉そのものだった。
 ブラウが屋根に着地するのと、顔が変形した主が倒れるのは同時だった。鈍い音を前に軽く息をついて振り返ると、ブラウは早々にシュネーの方へ駆け寄った。

「お怪我はありませんか?」
「ええ、貴方のおかげでね」

 小脇に抱えた少女をシュネーの近くに下ろして、彼女の身の安否を確認する。服が煤こけている以外は、大きな怪我もない。だが自信満々にそう答えるも、組んだ腕が震えているのをブラウは見逃さなかった。
 こんな時、青年は大切な女の子にどう声をかけていいかわからなかった。困ったように頭を掻き毟り、考え抜いて出した言葉は、

「……あんまり、無茶はなさらないでください」
「な、なによ」
「あと……」

 さっきの言葉、嬉しかったです。とは、ブラウは恥ずかしくてとても言えなかった。炎に照らされて赤くなっているのか、照れのせいなのかわからないほどに、ブラウは頬を赤く染めて黙った。

「おにいちゃん」

 シュネーが何か言う前に、少女が急くようにブラウの袖を引っ張った。

「そろそろ逃げないと、本当に死んじゃう」
「そうね」

 足元の屋根がきしむような嫌な音がし始める。

「……急ぐか」

 周りが熱気に包まれ、息をするのも苦しいほど。ブラウは袖を口元に当て咳き込んで頷いた。出てきた小屋の穴からも、とうとう炎が噴き出している。そろそろ離れないと本当に誰か死ぬ。ブラウは、この小屋もよくここまでもったなと感心さえした。

「私はこの子を下ろして先に一緒に逃げるから、ブラウはその……初老のデブを何とかしなさい」
「は!? 僕がですか」
「貴方以外に誰がソレを運べると思ってるの。大体、気絶させたのは貴方のせいでしょ」
「う……」
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、早く……!!」

 ブラウは初老のデブを抱えたまま今行きますと声をあげて、新しいご主人様の元へ向かう。その横顔は、どこか晴れやかで口元は笑っていた。
 今度のご主人様は、使い勝手が荒そうだ。

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