「……ジュ、オランジュ、オランジュ!!!」

 春先の昼下がり。オランジュと呼ばれた女の子は、陽気な風と日差しにぼんやりと考え事をしていた。彼女が気がついた時には遅く、雇い主のつんざくような怒号と共に鋭い痛みが頬に走る。思ったより足に力が入らず、そのまま床に倒れ込んだ。口の中が切れたかもしれない。と、ぬぐう手の平に赤い染みが広がる。
 どうやら自分は、新しい雇い主にぶたれたようだと顔を上げて気が付いた。

「お前! さっきから何度も何度も呼んでいるのにちっとも返事をしやしない。聞いているのかい!」
「す、すみませんっ……」

 オランジュは慌てて立ち上がり謝った。すぐに反応しなければまたぶたれるか、蹴られてしまう。
 途中まで進めていた婚礼用の布を確認する手を止め、オランジュは来いと命じる雇い主の後をついて行く。建物のあちこちが傷み劣化も激しいその工場は、大きさに比べて少数精鋭で、給料も働く割合に対して少ない。工場で働く人間は皆不満に思うばかりで、女たちの間ではいつも衝突やいじめが横行し、オランジュもその被害の例外ではなかった。

 彼女はこの工場で働くまでに三十三回の転職をしている。
 近頃は能力があれども、人間同士のコミュニケーションが取れない輩は必要ないと言われてしまう。オランジュには大きな欠陥があり、ゴルト伯爵の屋敷を出てから中々仕事に就けなかった。運よく働くことができても、一か月後には解雇になることもよくあることだった。
 今働いているこの仕事は婚礼衣装を作る仕立て屋で、貴族から町民、平民まで貴賤なく買い物ができる店だった。今までも様々な夫婦が足を運んでは衣装の内容を話し合い、決まったものを納期までに分担して作業していく。本来ならオランジュも、裁縫の第一線で作業ができたらと淡い期待を寄せていた。

「今度はこの洋服を解いて、糸にしておいてちょうだい」
「……はい」

 工場の裏に集められた大量の服を前に、オランジュは心の中でため息をつく。
 新入りの彼女の仕事は布を解いて糸に戻したり、布を買ってきたり、掃除したりなど誰もができる……下手をすれば子供でもできる雑用だったのだ。しかし目の前にあるのは、一人でやってのけるにはあまりにも多い服の山。これを夕方までに解いておけというのだから、店主も相当鬱憤が溜まっている。

「どっちが先でもいいから、あとは新たに入った注文の仕様書をよく確認した上で、今日中に問屋から布を用意しておくように。……何か不満があるのかい?」
「い、いいえ! とんでもないです!」

 オランジュがまたぼんやりと洋服を眺めていたせいで、店主は眉間に皺を寄せて尋ねた。慌てて否定するも、店主は慈悲もなく「なら、さっさとやっておくんだよ」と声を荒げた。

「仕様書がまとめて置いてある場所はもう覚えているね?」
「……えっと」
「まさか、また忘れたんじゃないだろうね?」
「……」

 長い沈黙の後、オランジュはあてずっぽうに「机の2番目の引き出し」と答えてみるが、違ったようだ。

「玄関ロビーの大棚の上にあるラックにすべて刺さってる。早くしな!」
「は、はいっ」

 オランジュは店主から言われた言葉をまた忘れてしまわないように、足早にロビーへと駆け出した。こんな生活はずっと続いていく。怯んでなんて、いられない。


 古びた工場の扉からオランジュが出てきたのを見て、物陰に隠れる者たちが二人。釣り上がったアーモンドアイをきらめかせ、ひょっこりと壁から出したシュネーと、いぶかし気に顔をしかめたブラウだった。

 オランジュは買い出しに行くのか大事そうに紙を、手提げ籠に入れてはまた取り出して確認し、また仕舞っては取り出して再度確認をしている。何度も確かめておかなければ不安なのだろう。三度目の確認を終えた後、オランジュは集合商店街の方へと早足で歩いて行った。
 オランジュの背中がまだ見える内に、ブラウは立ち上がったシュネーに尋ねた。

「追いますか?」
「いえ、今はいいわ」

 それにしても、とブラウは手で顎を撫でながらため息をついた。ブラウはシュネーの提案で、隣町にいるオランジュを尋ねに来ていた。サーカスの檻の中で一生を終えるはずだったブラウにとって、散り散りになった使用人仲間が近くに住んでいることを知らなかったのは仕方ないとはいえ、盲点だった。
 美しいシュネーは腕を組みオランジュの行く先を真っすぐに見つめている。その横顔から、何を考えているのか読み取ろうと青年は目を細めるが計り知れない。青色の瞳は、数週間前のシュネーの様子を思い出していた。

 ブラウはシュネーと共にサーカスを抜け出した後、彼女に連れられ隣町の小さな家へと案内されていた。「狭いけど我慢しなさいよ」と言うシュネーはにやっと笑うと、慣れた様子でソファーにどかっと顔をうずめてそのまま眠り込んだ。貴族のご令嬢だったとは思えないほどの今に、ブラウは動揺を隠せないまま夜を過ごした。
 翌朝、尋ねたいことが山ほどあるブラウの言葉を遮って、彼女はこう言った。

「私はお義母様に復讐をしたいの」
「復讐……って」

 そう、復讐よ。とシュネーは毅然としてブラウに言い放った。自分を殺そうと考えていたオリーブに、何をどう復讐するというのか今はまだその内容は言えない。言えないが、そのためにブラウと、居なくなってしまった使用人達全員を集めなければいけないという。

 ――あなたなら、手伝ってくれるわよね?

 そう言って困ったような笑顔を向ける少女に、ブラウはノーとは言えなかった。それは、あの時置いて行くことしかできなかったことへの後ろめたさからか、幼い頃の面影を見たからなのかは、わからない。
 力なく頷いたブラウは、はにかんでありがとうと言うシュネーに彼もぎこちない笑みを浮かべるしかなかった。

「さてと。さあ、ブラウ! 中に入るわよ」

 シュネーの溌剌とした発言に、ブラウは現実へと引き戻された。腕を組んで強く引っ張っていく彼女に、ちょっと待ってくださいと歯止めをかける。道を行きゆく人々は、不思議そうに二人を見遣っては、自分に関係ないとわかると自然と前へ視線を戻す。

「入るって……シュネー様。まさか、先日の火事みたいに法に触れそうな事をお考えではないですよね……!?」

 ブラウは慌ててシュネーの腕をやんわりと掴んで尋ねる。しかし当の彼女は両手を腰に当て、もう何度目かの飽きれた顔で言い放った。

「ちょっと!ブラウってば……もう何度も言ってるでしょう。私の事はシュネーじゃなくてシロって呼びなさいって」
「いや……仮にも元勤め先のご令嬢を妙なあだ名で呼ぶわけには」
「まあっ! 妙なあだ名とは失礼ね!これは施設で仲良くなったお友達が考えてくれた大切な名前なのよ。それに今はシュネーより別の名前でいる方が都合がいいの」

 復讐を遂げるためには。その言葉があとから付け足されたような気がして、ブラウははっとする。
 わかった? とその顔を覗き込むシロに、ブラウは耳まで赤くなるのを感じつつ頷いた。

 わかってもらえたことに機嫌を良くしたシロは再びブラウの隣に立つと「危険な事もしないから安心なさい」と言って、すっと彼の腕に自分の腕を滑らせる。腕を組んでそのまま店に引っ張っていこうと歩き出す彼女にバランスを崩しかけたブラウは、慌てて歩幅を合わせるのだった。

 扉の前で二人、店を見上げる。工場よりは手入れがされているのか、塗装をやり変えたばかりのようで店前は綺麗に見えた。オレンジの屋根に白い壁。温かみのある木製の扉にブロンズの取っ手。
 格子窓で中の様子は何となくわかる。カウンターが一つと打ち合わせのための机と椅子が二つほど。また、壁際には様々な婚礼衣装がトルソーに飾られている。

 ――オランジュを追わず店に入って、シロ様は何をお考えなのだろうか。
 ブラウは疑問を頭に浮かべたが、シロに急かされてそのまま店へと入った。

「いらっしゃいませ」

 店内は思ったより光が差し込んでいて明るい。工場の暗く陰気臭い雰囲気とは雲泥の差である。
 店の奥から店主であろう恰幅な女性が手を組んでやってきた。が、ブラウとシロの姿を見ると明らかに残念な顔をして、急にそっけない態度で話しかけて来た。

「……どのようなご用件で?」

 ……これは、金のないやつだと思われている。ブラウはそう思いつつも否定できなかった。
 無理もない。若い男女が二人だ。いくら適齢期とはいえ、身なりがそれほど裕福でもなさそうな二人に来られれば肩を落とすのも仕方がない。様々な身分の相手をしていても、商売人から見れば気分の下がる客だろう。
 ブラウがシロの出方を見ようとした、その時だった。

 ぼとっ。
 ぼと、ぼとと。

 シロが笑顔で懐から札束を机の上に投げ捨て、そして、とんでもない事を言った。

「私たち、今月結婚するの!」
「ブーーーーーーーーッ!?」

 ブラウは大量の札束よりも彼女の爆弾発言に泡を噴きそうになった。実際、ちょっと噴いた。
 誰と誰が結婚するって?
 口を魚のようにぱくぱくさせながらシロに説明を求めたが、視線で遮られ冷静さを取り戻す。何か考えがあるのだろう。ブラウとは反対に、主人は目の前の札束に顎が外れそうなほど驚いていた。札束は見たところ、平民一年間の家賃分はありそうだった。

「だから、それに見合う私のウェディングドレスを作って頂きたいの。ねえ、旦那様!」
「は、はは……」

 笑うしかないブラウに、シロは邪気のない笑顔でそう言った。
 誰が旦那様だ。

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