太陽がまだ真上に昇りきっていない頃。
 街並みの屋根はオランジュの髪色と同じように橙色に並んでいた。彼女が進む街中のメイン通りは、呼び声をあげる商人や買い付けを頼まれたのだろう使用人でひしめいている。オランジュもその一人で、今は頼まれた糸や布の買い出しの途中だった。

 しかし右往左往している彼女の様子はどこか不審で、歩を進めるたびにその表情が曇っていく。まるで母親とはぐれた迷子のような顔を見た誰かが、隣にいた物売りにひそやかに声をかけた。

「おい、見ろよ」

 振り返った物売りはオランジュを見て「ああ」と頷いた。

「橋向うの仕立て屋で働くオランジュだろう」
「知ってるのか」

 声をかけた男は肩をすくめて言った。

「ここいらで知らないやつはいねぇさ。この街で何件も仕事を辞めさせられてる病気モンだ。三歩歩いたら大事なことを忘れるもんだから、使いモンにならないって有名なんだよ。アレはたぶん……買いつけに出されたのに、どこへいきゃいいかわからなくなったんだろ。仕方ねぇな」

 物売りは黙ってオランジュの方へ近づくと、何か一言二言話して道の反対側へと指を差した。それと同時にオランジュは飛んで行ってしまいそうなほどにぺこぺこと頭を下げている。物売りが戻ってくる頃には、オランジュは物売りが指を差した方へと急ぎ早に歩いていく姿が見えた。

「わざわざ教えてやったのか、優しいねぇ」
「馬鹿言え。……そんなんじゃねぇよ」

 男が下品な笑い方をしたのを嫌悪の表情で見返して、物売りは長く細いため息をついた。

 オランジュを知っている人間は三種類いる。
 ひとつは仕事で使えないやつだと思って嫌悪する人間。
 ふたつめは彼女が困っていても知らぬ素振りを貫く人間。
 そしてみっつめは、もしもあの病気が自分だったらと考えて憐みの目を向ける人間だ。

 物売りは考える。もしも自分がオランジュのように家の場所を忘れたり、仕事の仕方を忘れたり、大切な人の名前を忘れたなら。考えるだけで寒気がする。
 忘れてしまうということに気づきながら生きることは、いつか狂気に飲まれてしまいそうで、恐ろしい。

「……かわいそうなやつだよ」

 物売りが伏せていた顔を上げてもう一度オランジュの姿を探したが、そこに彼女の姿はどこにもなかった。


 オランジュは昔からよく物を忘れる子供だった。
 さっきまでしていた用事、言伝の内容。それくらいならまだよかった。
 上司の顔、勤め先の場所、友人の名前、大切な思い出。
 酷い時は家路さえもわからなくなった。

 物忘れは多いが素直で明るい性格に、彼女の両親もよくあることだ、そう難しい問題ではないと考えていた。しかし、努力をしても改善が見られない以前に、周囲は異変を感じ始めた。
 叱っても、叱られたことすら覚えていないのだ。
 最終的におかしいと思われたのは、仕事で三日ほど家を開けていた父親に向かってオランジュが放った言葉だった。

「あの、どちら様ですか?」

 その言葉に両親は戦慄したが、医者へ見てもらう余裕もなかったために早い段階で彼女は奉公に出されてしまった。
 今ではオランジュ自身も、もう親の名前も顔もぼんやりとしか覚えていない。それを寂しいとか辛いと考えることはない。なぜなら、自分は親の名前も顔も忘れたその事実さえも翌日には忘れてしまっているから、悲しむことができないのだ。

 オランジュの病気は、「完全に」記憶を忘れてしまうということではない。
 ただ、大事な記憶も簡単な記憶も、頭の中の引き出しの深い深い奥底に仕舞われてしまって、いつもすぐに取り出すことができない。

 前向きな人間は「都合がよくていいじゃないか」と自分を笑うのだろう。けれど、いつか自分が何者かさえ忘れてしまうのではないかと思うと、オランジュは体が震えてしまう。毎朝鏡に映る姿を見て、これは誰なんだろうなどと思わないか時折不安に駆られるのだ。
 今はそれだけが怖かった。

 そんな彼女でも、なぜか得意の裁縫だけは絶対に忘れなかった。
 どんなに複雑な構造の洋服でも、量が多くても、短時間で見事に縫ってしまえることができる。
 針と糸さえあれば、この手の中は自由だった。
 苦手なことがあっても、人間得意なことは何かしらひとつはあるんだと思える事は、希望だ。オランジュが生きていく上で、裁縫はとても重要な役目を持っていた。

 けれど世の中は「忘れっぽいオランジュ」しか見てくれない。忘れっぽいから、雑用しか与えてもらうことができない。それがいつも悔しい。
 私は縫える。
 私は服を作れるのに。
 悔しい思いをしても、それでも生きていくために、いつかちゃんとしたお針子との仕事をもらうために、オランジュはずっと耐えていた。
 人を笑うより、笑われる方がずっといいから。それが馬鹿なりに考えた、オランジュの生き方だ。

 ただ、どうして自分は裁縫の仕事だけ覚えていられるのだろうと、オランジュはときどき疑問に思っていた。
 どうしてなのか思い出せない。大切なことだったように思うのに思い出せない。自分はまた何か忘れている。
 いつもなら思い出せない事すら忘れてしまうのに、この事はオランジュの頭のどこかでいつもちらついていた。
 よほど大切なことなのだろうか。

「うーん……だめだなぁ、やっぱり思い出せない」

 オランジュは布と糸を抱えて支払いを済ます間もずっと思い出そうと頭を巡らせていたが、やはり今日も思い出すことができない。とぼとぼと重い足取りで勤め先に向かう途中、歩く前方から何やら騒がしい会話が聞こえてきた。

「まったく……あんな茶番をはじめるのなら最初から言っておいてくださいよ! いきなりけ……けっこんなんて仰るから、心臓が破裂するかと思ったじゃないですか!」
「あのね、何年私の専属使用人を続けていると思っているの。あのくらいの可愛い嘘、私の使用人なら臨機応変に対応できて当然。それに、ブラウは私より五つも年上なんだから。しっかりしなさいよ」
「年齢は関係ありません。あと、使用人を嘘つきの達人みたいに言わないでくれます? 臨機応変って仰いますけどね。大体、シロ様の言動に臨機応変に対応するこちらの身にもなってください。そういうの、何ていうかご存じですか? 横暴っていうんですよ、横暴」
「まーっ! ご主人様に向かってなんて口の利き方かしら。まったく、どこの使用人なのか主人の顔が見てみたい! 本当にしつけがなってないわね、しつけが!」
「そっくりそのままお返ししますよ……」

 ふっと顔を上げると、急に光を眼に受けたかのような眩しさを覚える。
 本当に光が目に入ったのではない。前からやって来た若く瑞々しい体つきの女性と、珍しい相貌の青年たちの美しさに驚いたのだ。
 女性は黒く長い髪に飽満な胸を遊ばせ、見つめられれば逸らすことはできないだろう大きな瞳。白い肌にちょこんとついた赤い唇は艶やかで鮮やか。
 対して、男性が持つ銀色の髪に夜のような青い瞳は、チョコレートの味でもしそうな色黒の肌を飾っている。
 珍しい宝石でも並ぶようなその二人は、嫌でも目についた。

 ――こんな田舎の町で、こんなにきれいな人っているんだなぁ。

 気づけば、道を歩く周囲の誰もがその女性と青年に釘付けになっている。オランジュは二人との距離が段々と近づくにつれ、物珍しさで見ていると思われぬようにと、目を合わせないようにしながらどきどきしていた。

「――……」

 ちょうどすれ違い様、女性の方から柔らかく甘い香りが漂う。本当に同じ女性なんだろうか。オランジュは反対側へと向かっていった二人の方へ、振り向いて思った。

「ねえ」
「!?」

 その時、もう行ってしまっただろうと思った黒髪の女性が振り向いて言った。オランジュは周囲を見回して、言葉を投げかけられた人間を探す。それは自分ではないと思っていたが、

「そこのオレンジ色の髪のあなたに言ってるのよ」

 そう言われてやはり自分に向けて言っていたのかと、お針子は観念したように「は、はあ」と絞り切った声で答えた。
 オランジュは目の前にいる美男美女と知り合いになった覚えはない。
 何を言われるのだろう。すれ違うあの一瞬で何か粗相をしてしまったようには思わないが、叱られ慣れていると心当たりがなくとも何かしてしまっただろうかと不安になってしまう。
 オランジュは内心ビクビクしながら上目遣いに尋ねた。

「な、何か御用でしょうか?」
「……」

 女性は大きな瞳でじっとオランジュを見つめて黙っている。
 早く何か言って欲しい。オランジュが困ったように眉を下げていると、長い沈黙の後、女性は口角をニッと上げて言った。

「私の約束まで忘れたら許さないから」
「――えっ?」

 オランジュは、女性の発した言葉に固まった。
 約束? 何の、約束?

「あのっ、それってどういう――」
「待ってるから」

 オランジュが言葉の真偽を確かめるために引き留めようとしたが、それじゃと女性は再び背を向けて去っていく。一緒にいた銀髪の男性も共に早々に去ってしまった。
 女性の甘い香りだけが、その場にうっすらと残っている。

「約束……」

 私はまた、大切な何かを忘れているのだろうか。
 オランジュは二人が進む方向をしばらくずっと、見つめていた。

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