「ただいま戻りました……」
「おや、おかえり。遅かったじゃないの」

 不思議な二人との遭遇に悶々としながらオランジュがようやく店へ戻ると、先輩にあたるお針子の一人に声をかけられた。いつもなら悪態をつかれるというのに、今日はなにやら機嫌がいい。オランジュは不思議に思っていると、他のお針子たちや奥にいる雇い主さえも浮かれた様子で仕事をしている。誰も怒ったり、文句を言いながら動いていないことに疑問を感じたオランジュは、雇い主に買い付けの報告をするついでに、こっそり尋ねてみた。

「あの……みなさん、何かいいことでもあったのですか?」
「ああ?」

 不意に声をかけられた雇い主に睨まれて、オランジュはひえっと声を出したものの、恐る恐るもう一度声に出す。

「あ、い、いいえ! 何やらみなさん、いい気分でお仕事をされているようでしたので……ちょっと聞いてみたくて」
「いいもなにも、いいに決まってるじゃないか!」

 雇い主が鼻息荒く、うっとりとした様子で持っていた布を自身に手繰り寄せる。

「とびきり羽振りのいい上客がさっき、やってきたんだよ! ああ、あんたがちょうど出かけている間か。今時珍しい若い夫婦でね。あんたとそう歳は変わらんだろうけど、たぶん、あれはいいとこのお貴族さんだろう。しばらくあたしたちが困らないだけの金を前払いでどーんと払ってくれたのさ!」
「はぁ……」

 なるほど。だから皆の機嫌がいいのか、とオランジュは内心納得がいった。この不景気なご時世で、身分の差によっては贅沢な暮らしができるとは、なんと幸せなことだろう。
 オランジュはそれを聞いて、妬ましいとか羨ましいなどと思う気持ちは出てこなかった。人間、身分を選んで生まれてくることはできない。平民として生まれてしまった自分は、羨ましいと思う事すら無駄だからだ。

「その代わり、一か月以内にドレスを仕立てなきゃならない。まあ明日も客は来るって言ってたし、ドレスの内容さえ決まればね、店のお針子全員で取り掛かればそう難しくない。さ、これから忙しくなるよ。あんたもキリキリ働きな!」

 はい、と反射的に思わず大きな声で返事をしてしまった。後ろで別のお針子が、嗤うようにくすくすと声を漏らす。オランジュは顔をさっと赤くして俯いた。
 忘れん坊のオランジュは、いくら裁縫が得意でも大事な仕事はさせてもらえない。
 そのことを嗤われるのは、自分が病気だと哀れに思われるよりよっぽど悔しかった。

 翌日の午前。その依頼主である若い夫婦が来る時間が近いということで、雇い主からお針子全員に集まるように呼ばれた。今日はそのご婦人の採寸と試着、簡単にドレスの方向性を話すだけだけだったが、これから全員がこの仕事に取り掛かるために、依頼主へ全員が挨拶をした方がよい。との雇い主の考えからだった。

「いらしたわ……さあ、あんたたち!失礼のないようにするんだよ。……まあまあようこそいらっしゃいました、シロ様。旦那様も。どうぞ中へ」

 雇い主の声かけに店内に現れたのは、オランジュが昨日出会った不思議な二人だった。突然の再会に、オランジュは思わず声を上げる。

「――あっ、あの時の……」
「あら、運命的ね」

 黒髪の女性はシロというどこかの貴族のお嬢様らしく、婚約者であるブラウという男性が共にいた銀髪の男性だったようだった。偶然すれ違った男女が、自分の勤め先のお客様だったなんて。そういった偶然は、あるものなんだろうか。
 再会に驚いたオランジュは、昨日シロが自分に言った「約束」について、あれはどういう事だったのかと問う機会を逃してしまった。驚いているオランジュを気にも留めず、上品な笑顔でシロは言う。

「これからこちらのお店でお世話になると思うけれど、よろしくね」
「はい、あの……はい、よろしくお願いいたします」

 その言葉に、ちくりと僅かに胸が痛んだ。オランジュは自分は製作に携わりませんとは、到底言えなかった。
 シロとオランジュのやり取りを、雇い主やほかのお針子は不審に思ったようだったが、特に何も言われずに済んだ。
 彼女は雇い主に呼ばれると、何人かのお針子と一緒に試着室へと向かい採寸を受けに行く。その間、雇い主は婚約者のブラウと打ち合わせに向かった。
 ――あれ?
 その様子を雑用をこなす間に眺めていると、オランジュはあることに気づいた。

 昨日シロとブラウという夫婦に出会ったことを私は「覚えている」。
 なぜ、覚えているんだろう。
 オランジュのような物忘れの病気を抱えていない一般的な人なら、こんなに個性的な男女に出会って声をかけられた事実は普通に覚えているだろう。
 けれど彼女は違う。いつものオランジュなら、絶対声をかけられた事さえ忘れてしまい「はじめまして」と挨拶さえしたかもしれない。親さえ三日会わないだけで忘れてしまう彼女なのだから。
 オランジュは首を傾げたが、仕事をしているうちにやがて疑問さえも薄れてしまった。

 そのうち採寸も終わり、二人の若い夫婦は店を出ていく。

「それじゃあ、また三日後に。ドレスのデザイン、楽しみにしてるわね」

 次に来店するのは三日後。店の方でドレスのデザインが完成してから、打ち合わせをするそうだ。三日という時間はかなり短いが、すでにお金はもらっている。一か月後に間に合わせるためには、早くデザインを決めたい。
 シロが機嫌よく足取りを進めるのとは対照に、ブラウはオランジュをあからさまに一瞥すると、シロの手を取って表通りへと歩いて行った。近くに馬車を用意しているらしい。

 結局、約束については何も聞くことができなかったが、また三日後にはやってくる。その時にシロが来ていれば、聞けばいい。オランジュはふっと軽いため息をついた時、背後で雇い主が大きなため息をついていた。

「どうかされましたか?」

 オランジュが何の気なしに尋ねると、雇い主は顎に手を当てて、唸るように言葉を零す。

「あの女の方……ちょっと厄介かもしれない」
「え?」

 オランジュは夫婦のいた方向へと振り返ったが、そこにはもう二人は居ない。

「今日見せた試着室のドレスや、以前の客にウケがよかったデザイン案をいくつか見せたんだが、どれもあまり気に入った様子がなかったんだ。むしろ鼻で笑ってた……」

 オランジュは、あの気品の好さそうなシロという女性が悪態をつくような、そんな人には見えなかったので驚いた。また、うちは「小さな店だが商品にはプライドを持って製作にあたる」というのが雇い主の信条だとよくよく聞かされていたので、気弱な上司の発言にも目を瞬かせた。

「あんなんで、無事にドレスができるのかね……いや、まず……デザインが決まるのかどうか。先行き不安だよ。あんたの前で言うことじゃないけどね」

 それっきり、雇い主は黙ってオランジュの前からいなくなった。

 三日後。再び夫婦がデザインの打ち合わせにやってきたが、雇い主の心配通り、ドレス製作はデザインを決める時点で困難をきわめた。
店のデザイナーが考えたデザインはすべて却下。シロが欲しいドレスの理想に全くかすりもしないのだという。

「全然ダメってわけじゃないのよ? ただ、私が欲しいドレスはね、可愛いウエディングドレスなの。おしとやかで大人っぽいドレスは求めていないの。だからリボンもレースも必要だし、お花の飾りだって欲しいわけ。わかる?」
「ですが、シロ様はせっかくいいプロポーションをお持ちですし、顔立ちも大人っぽいですから今流行りのこのデザインがお似合いだと思うんです。シンプルなデザインの方がより美しいお姿になるかと……」
「だから、それが嫌だって言ってるのよ! 私は可愛いものが好きなの!」
「はあ……」

 こういった具合で、まともに話が進まないのだ。
 店の者がいくら提案を進めても首を縦に振らない。
かといって、店内にある「綺麗なウエディングドレス」はダサい、古い、センスがないなどと見向きもしない。
 そのまま日が経ち、デザインが決まるまで二週間を要した。
雇い主はこれ以上日にちがかかれば製作が間に合わない、と文字通り泣いてシロに頭を下げたことでシロが妥協し、ようやく製作に進むこととなった。

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