それは、オランジュが奉公に出され、小さな工房で働いていた頃のことだ。
「オランジュ!! これはいったい、どういうことだい!?」
「えっ……」
猪のように鼻息を荒くした雇い主が、小さなオランジュのもとへ怒ってやってきた。
机の上に叩きつけられた子供用の服を指差して雇い主は言う。
仕様書と色が違う、と。
仕様書には青い糸で花柄の刺繍をするように書かれてあるのに、間違って赤い糸を使っていると言うのだ。
オランジュは確認しようと慌てて仕様書を探し始めたが、どこにも見当たらない。
自分が仕舞い忘れたのかと思ったが、
よくよく遡ってみると、忘れっぽい自分のために親切なお針子が預かってくれていたはずだったのを思い出した。
くすくすという笑い声が背中から聞こえた時。
オランジュは“やられた”と思った。
その親切なはずのお針子が、他と一緒になって笑っていたからだ。
オランジュは顔を真っ赤にして雇い主に弁明をしようとした。
間違えたのには理由がある。
本当は別のお針子に仕様書を隠されたのだ、そう言いたかったけれど、雇い主に反論される度にだんだんと気持ちが萎えていく。
所詮、自分が言ったって誰も信じてはくれない。
だって、私は忘れっぽいお馬鹿なオランジュなのだから。
もうすぐ得意先の受取人がやってくるのにどうするんだと、雇い主の怒りは全く収まる気配がない。オランジュは唇をかみ締めて、ただ地面を見つめていた。
私が私じゃなかったら、こんな惨めな思いをしなくてよかったんだろうか。
「お前みたいな役立たず、やっぱり雇うんじゃなかった……オランジュ、お前は今日限りで辞めてもらうよ!」
目頭が熱くなり鼻がつんとしてきたが、絶対に泣きたくはなかった。
泣いたら負けだ。
オランジュが雇い主から殴られることを覚悟にぐっと目を瞑った、その時。
「やあ、良かった。今日の私は本当に、運がいいようだ」
ドアの鈴が鳴ったことに、誰も気づかなかった。
張り詰めた空気の中にとんと落とされたかのように、穏やかな声が響く。
紺色のベストとズボン、渋いグレーのコートを着た紳士が弾む息を整えながら駆け寄って来る。
その姿を見た雇い主が、ぎょっとしてオランジュの前へ出た。
「ホワイトブルク様……! お約束にはまだ大分お時間があるようですが、いかが致しましたか?」
ホワイトブルクというこの紳士は、どうやらオランジュが製作した洋服の取引相手のようだった。
うそ、どうしよう……!
注文内容とは違う、今の商品を見られたらと思うと、彼女まで顔が青くなっていく。
ホワイトブルクは雇い主の問いかけには応えず、机にある子供の服を見つけるとぱっと顔を明るくして手に取った。その拍子に、雇い主がこの世の終わりのような顔をして息を飲むのがオランジュにもわかった。
「ああ、もう注文内容を覆すことはできないだろうと思っていたけれど、私は本当にツイているよ。彼女にも早く見せてあげたいな」
「申し訳ございません、ホワイトブルク様……! うちで雇っているオランジュという者が注文内容の色糸を間違えまして、このような刺繍でお届けすることになり……! 本当に申し訳ございません!」
雇い主が深々と頭を下げる様子にホワイトブルクがキョトンとしているのが気にかかったが、オランジュは雇い主に強引に頭を掴まれ、同じように頭を下げさせられた。
彼の足元に白い細身のズボンと磨かれた靴がやってくるのが見える。その同時に、頭上から品のある女性の声が聞こえて来た。
「ゴルト、君のその言葉だけでは彼女たちには伝わらないよ。新しい服を買えて嬉しいのはわかるけれど、ちゃんと説明してあげないと」
「そうかい? 困ったな、また私の悪い癖が……」
「まあ、気持ちはわかる。とりあえず……そこの御二方。顔を上げてもらえないかい」
どうやら、依頼主の使用人のようだった。頭にあった雇い主の手の力が緩んで、オランジュは隣の雇い主の顔が上がるのを確認すると、そっと自分の顔も上げた。
御付の者はリラといった。
男性なのか女性なのかわからないほど、美しい顔をしている。美しいのは顔だけではなく、立ち振る舞いもどこかの貴族のように優雅だった。よほど教育が行き届いているのだろう。
リラと目が合うと華麗にウインクを返され、お針子は恥ずかしそうに慌てて目を逸らした。
「やあ、君がオランジュかな。この洋服は君が作ってくれたものだね?」
ホワイトブルクに問われて、オランジュは曖昧に頷き返す。彼の眼差しは、今まで出会ったどの人よりも優しかった。
「実は、私の大切な娘のためにお願いしていたものなんだがね。私の勘違いで赤だった事が後になってわかって。それで、内容が変更できるか急いで来たんだよ」
依頼主は大事そうに赤ん坊の服を手に、まじまじと眺めていた。本当に大切だということが、彼の言動全てから感じられる。
「だから、どうにか別の色糸でお願いしようと馬を走らせたのだけど、その心配は無用だったようだ。オランジュ、君が赤糸で刺繍をしてくれていたからね! こんな嬉しい偶然があるかい? ……ありがとう、オランジュ」
「いえ、その、わたしは……っ」
ありがとう。
その言葉が温かくて、優しくて。オランジュは涙を零して顔を歪ませる。今まで抑えていた気持ちが溢れるようだった。
彼は自慢するように、隣に佇むリラにその服を見せ付ける。
「ごらん、リラ! 私は貴族として何年と生きているけれど、こんなに立派で美しい刺繍は見たことがないよ。特にこの花の蔦にあたるところ。細かいのに均等に縫われている。きっと愛らしい私の娘に良く似合うはずだ。すばらしいとは思わないかい!」
「確かに……。彼女ほどの年齢でここまで繊細な刺繍ができる人はいないかもしれないね。大抵の事はこなすこのボクにもこれは真似できないやも……って、ゴルト、まさか」
「ふふ、そのまさかだ」
静かに泣いていたオランジュへ、ホワイトブルクがポケットからハンカチを出してどうぞと差し出した。
受け取っていいものか判断に迷っていると、後ろに佇むリラが軽く笑って促している。微笑みをより一層深くした依頼主が満足そうに頷くのを見て、おずおずと小さな手を出して受け取った。
そこへ、確認するように雇い主が声をかけ歩み寄っていく。
「あの……と、いうことは、今回のミスはお咎めもなくお支払い頂けるということで、よろしいのでしょうか?」
「ああ、そういうことになるね」
お金は支払われる。
雇い主はそれを聞いて安心したのか、ほっとするように息を吐いた。
その隣で、オランジュはホワイトブルクのハンカチを胸の前で握り締めながら、明日からの自分のことを考える。
この工房で働けないのなら、住み込みで働いていた自分には帰る場所がなくなったということ。明日から文字通り路頭に迷ってしまうことになる。
明日から、どこに帰ればいいんだろう。
ぐるぐると不安が渦巻き、ハンカチを握る手に力がこもる。
そんなオランジュの心配をよそに、ホワイトブルクは思いもしない言葉を言い放った。
「ところでオランジュ。君、明日から私の屋敷で働かないかい?」
その場にいた全員が素っ頓狂な声を上げた。オランジュは目を瞬かせて彼を見つめたが、その表情は嘘ではなかった。
「……はたらく? 貴方のところで?」
「ああ」
「……あの、本当に、本当の本当に、貴方のところで働けるんでしょうか?」
「ああ、そうだよ」
ホワイトブルクはにっこりと笑って頷いた。
それは小さなお針子を安心させるための、優しい笑顔だった。
彼女が口角を上げかけた時、雇い主の慌てた声が投げかけられる。
「お待ちください、ホワイトブルク様! オランジュはうちが雇っている使用人です。勝手にお話を進めないで頂きたい」
オランジュを妬んでいた者たちが、顔を見合わせながら呼応していく。
「困ったな……私はオランジュがいいんだ。私は美しいものが好きでね。彼女が施す刺繍は美しい。刺繍だけじゃない、裁縫も文句ひとつない出来栄えだ。彼女さえいれば、私は今後、この店に注文しなくてもよくなるんだけど」
今度は雇い主の顔が真っ青になっていく。
「そんな……! 彼女は、オランジュはうちの大事なお針子ですよ」
その言葉にホワイトブルクは口角を上げてニヤリと笑った。
それはまるでお話に出てくる悪い貴族のようで、彼にはあまり似合わないなとオランジュは思った。
「おや、おかしいね。今さっき、貴方は彼女を解雇していたように思えたが?」
「ぐ……そ、それは」
「ここを解雇されたオランジュを、私が雇用するのに何も問題ないだろう? なあ、リラ」
「そうだねぇ、ゴルト」
リラに同意されて機嫌よくなったホワイトブルクは、改めてオランジュに向かって手を差し伸べた。今度は迷いなく、オランジュはその手を伸ばして掴み取る。
笑顔になった彼に小さく「ありがとう」と言われて、オランジュは泣いているのか、笑っているのかわからない顔をして喜んだ。
「というわけで、今日限りでこの工房への注文はやめさせて頂くよ。これからは私にはオランジュという凄腕の使用人がいるからね。今までどうもありがとう!」
元雇い主の悲鳴を背に、三人は工房を後にした。
リラが肩をすくめて両手を上げると、不敵な笑みでホワイトブルクを見遣る。
「これからはオランジュがいるって? よく言うよ。彼女を引き抜こうと虎視眈々と狙っていた癖に」
「何か言ったかい?」
「いいや、なんにも」
もう、悲しまなくていい。
私は新しい、帰る場所ができたんだ。
オランジュは瞳を潤ませて、声を押し殺しながらぽろぽろと泣き始めた。
その涙の一滴をホワイトブルクが指先で掬う。そして、この世のすべての不幸を吹き飛ばすような、爽やかな笑顔でこう言った。
「オランジュ、約束しておくれ。これからは、私の娘のために服を作ってくれると」
「はい……!」
笑って返事をしたオランジュの目元は、濡れた涙できらきらと光っていた。