その日は、朝からずっと雨が街を水浸しにしていた。
工場内で黙々と糸を解き、巻き直す作業を繰り返ししていたオランジュは、他のお針子達が神経を研ぎ澄ませている空気に飲まれそうになっていた。
シロから頼まれていたドレスは今日が完成予定。
夕方に二人が取りに来るまでに、絶対に完成させなければならない。
それなのに当のドレスにはまだ袖もついておらず、そのプレッシャーから誰もがイライラしていた。
「右袖のレースを縫い付けてんの誰!? 早くしてよ!」
「うるッさいわね!! 今やってるわよ! ちょっとその口閉じてなさいな!」
「もう、皆黙ってやりなさいよ! 早くしないと客が来ちゃうわ!」
攻撃的な言葉が飛び交う部屋の中にいるのは、いたたまれなくてどうにかなりそうだ。
オランジュはいつ、その攻撃がこちらへ飛んでこないかと内心ビクビクしながら、必死に糸を解いては巻き直すのを繰り返していた。
怯えた心を読み取られたのか、一人のお針子がちらりとオランジュを見遣る。スッと真顔になったかと思うと、誰に話しかけるともなく呟いた。
「あーあ、簡単な仕事だけしてればいいやつは楽だよね、ホント」
ギシリ、とオランジュの心が氷のように固くなり、布を持っていた手が震えだす。
オランジュは「聞いちゃだめだ」と俯いて目を固く閉じた。
その呟きを聞いた他のお針子達が、同調するように一人、二人と呟いた。
「何もできないなら、仕事してないのと一緒なのにね」
「いっそ居なくなってくれればいいのに」
違う!
オランジュはかっと目を見開いて他のお針子達を振り返った。
しかしそこには、ただ手元を見ながら黙って作業をする者たちしかいない。
本当は、私だって服を作れるのに……。
そう言い返せるだけの勇気はない。歯向かって、自分も刺々しい言葉で防御したって、疲れるだけだと知っている。もし言ったって、「おバカなオランジュがまた何か言っている」とあしらわれて終わりだ。
もらえている仕事があるだけありがたいと思わなければ。
オランジュはひりひりする心を守るように、唇をきゅっと噛みしめて再び俯いた。
それと同時に工場の扉がけたたましい音を立てて開かれる。一斉に皆が見遣ると、お針子の一人が息を切らして飛び込んできた。
「みんな……たい、たいへんよ……!」
落ち着かず息の整わない彼女の背をさすりながら、別のお針子が心配そうに言った。
「どうしたのよ、そんなに息巻いて」
「さっき、店の外からドレスを注文してるあの夫婦が来るのが見えたのよ! しかも、なんかヤバそうな男二人連れて来てんの!」
ええ、とその場がどよめいた。
「客が来るのは夕方でしょ? どういうこと?」
「まさか、早めに仕上がってないか確認しに来たとか? ――やばいじゃない!」
一人が急いで思い切りミシンを踏んだのを皮切りに、他のお針子達も半ば半狂乱になって手元の作業を再開させる。
縫製はあまり焦りすぎてもいいことはない。スピードを重視しすぎると、集中力と丁寧さに欠けた代物ができあがってしまうからだ。
大丈夫だろうかと不安になりつつも、オランジュは、あの若い夫婦たちが気になっていた。
――私の約束まで忘れたら許さないから。
シロが言ったあの言葉がふと、頭の中で繰り返される。
蘇るその言葉が、自分を呼んでいるような気がした。
遠くの方で、店の扉の鐘が鳴る音が聞こえてオランジュは振り向いた。皆が作業に集中している今なら、シロと主人が話す様子が見られるだろうか。
これはサボリなんかじゃない。オランジュは心の中でそう思いながら、誰にも見られていないことを確認してそろりと抜け出した。
店まで繋がる廊下をやや早足で渡る。従業員専用の入り口の前まで来ると、オランジュはしゃがみ込んで耳をそば立てた。
「どういう事ですか!?」
「ひゃっ」
店主の大きな声が間近に聞こえて、オランジュは悲鳴を上げそうになるのをぐっと堪えた。心臓がどくどくとうるさい。扉の窓からそうっと店内を覗き込むと、後ろに屈強な男二人、二人を携えたシロとその婚約者、そして顔の青い店主が話し合っている。
やはり、早めにドレスが完成していないか様子を見に来たのだろうか。
店主の焦り様からそう思ったオランジュだったが、どうも様子がおかしい。
オランジュは見つからないよう、息をひそめてその様を見守った。
「どうもこうも、言葉の通りよ。気分が変わったから、今進めているドレスは中止して欲しいの。もちろん代金を返せなんて、今更そんな事言わないわよ。ただ……」
「ただ?」
店主がごくりと喉を鳴らした。
どんな難題をぶつけられるのだろうかと考えて、オランジュさえも神妙に彼女の言葉を待った。
シロは腰に手を当てて、艶やかな唇をにっと三日月にして答える。
「デザインを一からやり直してちょうだい!」
店主が悲鳴に近い声を上げたのと同時に、オランジュも心中で声を上げた。
今作っているデザインはやはり時代遅れだとシロは言う。
人生で大事な時である結婚式のドレス。そのドレスに一ミリでも悔いがあれば一生心に残ってしまう。だからもう一度、デザインからやり直して欲しい、そう言うのだ。
だけど納期は、明日まで。
「お気持ちはかわります。でも……! そんな乱暴な……明日だなんて! 物理的に無理ですよ!」
「無理じゃないし、無茶じゃない」
その言葉に、隣にいた婚約者のブラウがぴくりと眉を動かした。
「このドレスを仕上げてもらえるなら、追加で代金も二倍お支払いするわ」
二倍という言葉に店主は思わず唾を飲むが、それでも明日までに仕上げるのは無理だ。工場内のお針子たち総出で仕上げたとしても、一か月かかるところを明日までになど不可能だ。
不可能、なのに。
オランジュは扉越しに会話を聞きながら、心の中である気持ちがふつふつと湧き出ていた。
「納期もですが、今市場では布も糸もほとんど買えない状態なんです。誰かが買い占めているのか……材料を調達するのも厳しくて、新しく仕立て直すのも難しいんですよ!」
「へえ、そうなのねー。誰かしらねー、はた迷惑なものだわ」
今初めて知った、とシロは意気揚々と答えた。その隣で、なぜかブラウの顔が曇っている。
そんなことは私の知ったことではない。そう言うかのようにシロは続ける。
「まあ、断ってくれても構わないけれどね。……ただその場合、もう代金は支払っているのだからそれ相応の対応でこちらも応えなければならないことを……理解しているわよね?」
シロがそう言うと後ろに控える男たちが二人の前へ出た。
その体の差は歴然で、男たちは店主の二回りほど体が大きく、オランジュの腕の四倍ほど太い腕を持っている。まともにやり合えば歯の一本や二本、犠牲になるのはやむを得ないだろう。
その立ち振る舞いや空気から、ドレスの制作を断ればこの店もただではすまないという事が覗える。
店主は後ずさりしながらぐっと唇を嚙みしめていた。
作れない。
けれど、作れないとも作らないとも言えない。言わせない空気が漂っている。
やっぱり嫌な客に当たったと今ごろ店主は思っているだろう。
――どうしよう。
このままではこの店が潰されてしまう。
オランジュはぎゅっと拳を握って固唾を飲んで見守っていた。店がめちゃくちゃにされてしまうかもしれない。いや、相手は貴族だ。それどころか悪評を流されてしまうかもしれない。
そうなってしまえば店どころか自分たちお針子は皆、路頭に迷ってしまう。
そうしたらまた、オランジュは一人ぼっちだ。
「――困ったわね」
張り詰めた空気を壊すようにシロが呟く。
しばらく店主を見つめていた彼女は、ふっと視線を外してこう言った。
「この店に私のドレスを作れる人はいないのかしら」
その瞬間、オランジュは雷に打たれたかのような衝撃が走った。
嫌だ……!
唇を強く噛み、握っていた拳がわなわなと震え出していた。シロがいかにも落胆した顔をして切なげなため息をつく度、どうしようもない焦燥感に苛まれる。
「いないのなら、仕方ないわよねぇ――ブラウ、どうする?」
「……ええと」
尋ねられたブラウが言葉を濁しながらシロの方へと向き直る。その時、わずかに窓から覗くオランジュと目が合ったような気がした。
嫌だ! 帰らないで!
作れる人ならここにいる! 私がいる!
オランジュは強い苛立ちを覚えながら、知らない感情に不思議な気持ちにもなっていた。
それは、自信を持てないオランジュの心を打った強い「悔しさ」だった。
存在しているのにいないものとして扱われるのはもう真っ平だ。
だがこうも思っていた。私はどうしてこんなに焦っているんだろう。
単に悔しいからではないような気がする。シロの、彼女のドレスを作ることに対する「使命感」のようなものが自分の中にあるとオランジュは感じていた。
あの人のドレスは私が作る。
いや、私が作らなければならない。他の誰にもできないし、私にしかできないはず。
そう思うのだ。
なぜそう思うのかはわからない。けれどもう、考えている余裕はこのお針子には無かった。
オランジュは衝動的に扉の取っ手を強く握って、解き放つようにその扉を勢いよく押していく。
開かれた扉の先には、突然現れたお針子に目を丸くした店主と、悪戯な笑みでこちらを見つめるシロがいた。
「あなたのドレスは、私が作ります!!」
オランジュは黄緑色の瞳を真っすぐにシロに向けて言い放った。