工場内に連続したミシンの音が鳴り響く。
そこには依頼主であるシロのために、ひたすらにドレスを縫い続けるオランジュの姿があった。
「何あの子? まだやってるの?」
「時間をかけても無駄だってことわかんないのかしら、かわいそうに」
あははは、と扉から覗く同僚のお針子が嘲笑する声が聞こえてくる。
以前なら、そういった声にいちいち心を揺さぶられる自分がいただろう。馬鹿にされたり、無視されたり、その恐怖を忘れることすら恐怖する自分に怯えていただろう。
けれど今のオランジュは、誰に何を言われようと何も感じなかった。
共有の灯りはとうに消され、唯一照らす灯りが手元のランプだけになったとしても、今の自分がやるべき事はただひとつ。
シロのウェディングドレスを明日までに仕上げることだ。
なんだか、不思議。
オランジュはぼんやりと頭の片隅でそう思っていた。
やるべき事が一つだとわかったからかもしれない。目標が定まったら後は心配することがないとわかって、気づいたら工場でミシンを踏んでいた。
「――よし」
上半身の部分は出来上がった。あとは袖と下半身のフレア部分にレースやパールを手作業で縫いつけていく。できあがったら両方を繋ぎ合わせれば完成だ。口で言うのは簡単だけど、やるだけやるしかない。
あとは時間との勝負なのだ。
ふと時計を見遣ると、シロや店主と話していた時間からちょうど一時間が経過するところだった。
さきほどまでの店主とのやり取りを思い出して、思わずオランジュの額に汗が滲む。
あなたのドレスは私が作ります。
あんなに思い切って何かを口にしたことはなかった。あれは本当に自分だったのだろうかと思うと、恥ずかしくなって顔が熱くなる。
ランプの炎がぢりっと揺らめいて、その情景がオランジュの脳裏へと蘇った。
「私が彼女のドレスを作ります……!」
そう言い放ったオランジュに店主は一瞬息を呑んだが、段々と憤怒の形相へと変わっていく。震える唇が開いた時には、彼女へと掴みかかっていた。
「お前……! 自分が何を言っているのか、わかってるのかい!?」
きつく掴まれた服は喉を圧迫されて苦しい。勢いに目を瞑りかけたオランジュだったが、それでも店主に訴えるように声を上げた。
「わかって……います。私が、シロさんのドレスを明日までに作ります。作りたいんです。やらせてください!」
「そんな……そんな事ができるわけが」
「できますっ!!」
オランジュは今度こそ強い瞳で言った。それは自分に言い聞かせたのではない。できるという自信と、やり遂げたいという挑戦の心がそう言わせたのだ。
拳を握り締め、店主へと頭を下げてお針子は言った。
「お願いします。ご無礼を承知の上でわがままを言わせてください。この方のドレスを私に作らせてください。お願いします」
「おまえのそのワガママで店が潰れたらこちらは溜まったもんじゃないんだよ! この店は私だけじゃない。他のお針子の世話だってしてるんだ。何を考えてんのか知らないが……お前は自分の勝手な思いでこの店の責任を取れるっていうのかい!?」
「その時は!」
オランジュは大きく息を吸い込んで叫んだ。
「この店を辞めます」
店主は絶句してオランジュを掴む手を緩めた。
「失敗したらこの店を辞めます! 成功しても辞めます! でも、私なら絶対にドレスを形にしてみせます!! お金は……損害に対するお金は一生をかけてもお支払いします! お願いします……どうか……どうか」
最後には潤んだ瞳をシロの方へと向けた。何も言わずじっと見つめていたシロは、悪戯な瞳を細めてふふっと笑うと店主の方へと向き直った。
「そこまで仰しゃるなら。ご店主、オランジュさんに私のドレスを作ってもらったらいかがかしら?」
「そんな」
「彼女の熱い思いに私、とっても心打たれたわ。いいでしょう、もし明日までに私のドレスが完成したら製作費は追加で二倍の金額でお支払いします。もしできなければオランジュさんにはこのお店を辞めて頂くということで。よろしいかしら?」
天使のように邪気のない笑顔を作ったシロを見て、隣に居たブラウはお弁当に嫌いなものが入っていた時のような顔をしていた。
店主はその後も何か言いたそうな顔をしていたが、「もう勝手にしろ!」とだけオランジュを怒鳴ってどこかに居なくなってしまった。
「あの……ありがとうございました」
むせながら、掴まれていた襟を正してオランジュはシロに言った。シロは首を左右に振って、ブラウの腕を取り背を向ける。
振り向きざまにアーモンドアイを三日月にさせて、
「期待して待っているわ」
それだけを言った。
――ガコン。
足踏みミシンから足を外した音でオランジュは我に返った。
手に持っていた針はそのままで、煌めくレースで膝が覆われている。机に散らばったパールの星粒たちを見て、ああ、居眠りをしていたのかと目を擦った。
ぱちんと両頬を叩いて座り直し、再び手縫いの作業に戻る。
一粒、一粒。思いを込めて素晴らしいスピードでレースに縫い付けていく様はまるで夜空に星を降らす魔法使いみたいだと自分でも思う。
思うままに、自由に洋裁ができるのは何て楽しいんだろう。
オランジュは苦笑いした。
危機的状況だというのに、自分の置かれている状況とは反して裁縫をさせてもらえているこの瞬間が楽しくて堪らないだなんて。
足りない糸は不要な布を解いて使った。生地は却下されたドレスをバラして使えるところだけを使い、余っていた別の生地と組み合わせて縫い上げた。
材料が足りない中でドレス一つ分の生地と糸が間に合ったことは、幸運としか言いようがない。
けれどそれよりも、買い付けと糸を解くだけの雑用ばかりをしていたおかげで材料をかき集めることができた事が、今までの自分が報われたような気持ちがしてオランジュは胸が熱くなった。
「絶対に、完成させてみせるのです……!」
『期待して待っているわ』
彼女の言葉が胸に焼き付いて離れない。
袖に花弁のようにレースを重ね、裾にパールを散りばめる。胸元に満開に咲く薔薇の刺繍を縫い上げた頃には、深夜を越えていた。
ドレスを抱くように椅子で眠りこけるオランジュは、遠い遠い日の事を夢に見ていた。