優しい気持ちで目が覚めた。オランジュは朝の光が頬に当たったのを感じてゆっくりと瞼を開く。
 身体を起こして瞼を擦ろうとして、自分が泣いていたのに気づいて笑った。
 どうして忘れていたんだろうと思った。自分の手を引く主人の優しい温もりも、泣いて笑ったあの時間も。今になって思い出すなんて思わなかった。
 オランジュは夢に見た伯爵との出会いを全て思い出した。

 自分はこの工場に勤める前、いや、もっともっと幼い頃にホワイトブルク家に使用人として勤めていた。家族とも呼べる使用人の仲間と、仕えるべき主人のもとで幸せに働いていたのだ。そしてその主人の娘が一人いて、その名前は、

「あっ、いけない」

 オランジュは娘の名前を思いだせなかった。それよりも、今は何時だろう。今日の昼には完成したドレスを依頼主に渡さなければいけないのに。
 立ち上がって抱きしめていたドレスを手に取ろうとしたが、どこにもない。
 おかしいな。
 オランジュは裁縫をしている間に寝てしまったが、確かに抱えて眠ってしまったはずなのだ。それを忘れてしまっていたとしても、同じ部屋にドレスほどの布らしいものが見当たらないのは不自然だ。

「何で……?」

 焦るな。確かにこの部屋にあるはずだ。そう思うのに心は段々と不安の色に染まっていく。そんな彼女の背後から、冷たい笑い声が聞こえてきた。
 オランジュはまさか、と唇を震わせながらゆっくりと振り向いた。

「ばーか」

 そこには自分の事をよく思っていない同僚の姿があった。手には、オランジュが縫っていた大切なドレスを持っている。
 それを足元に放り投げられたのが先か、オランジュが駆けたのが先かわからなかったが、赤子を手繰り寄せるようにオランジュはドレスを抱きしめた。
 ドレスはハサミか何かでズタズタに引き裂かれてしまっていた。
 どうしてこんな事を。そう思って顔を上げれば、同僚たちは冷え切った声で言った。

「そんな状態じゃあ、もう間に合わないでしょうね。いい気味」
「最近ずっと忙しかったからちょうどいい憂さ晴らしになったわ。どうもありがとう、オランジュ!」

 あははは、と同僚の一人が甲高い声を上げて笑った。
 悔しさに唇を噛んだ。どうしていつもこんな目に遭うのだろう。もうドレスは間に合わない。同僚にこんな風にされてしまったと答えても、誰も信じてはくれない。
 いや、信じようが信じまいがどうだっていい。夫人のドレスを完成させることができなかった。それが事実だ。

「どーすんのお? その状態じゃ工場長にぶたれてマジで辞める羽目になりそうね。最高」

 同僚が顔を覗き込むようにして言った。きっと泣き顔を見られると思ったに違いない。
 本当にどうしよう。オランジュは抱いていたドレスをじっと見つめていた。こんな状況になってもどうにかできるだろうか、と考えている自分がいるのが不思議で仕方なかった。繋ぎ合わせてもハリボテのようにしかならない。どうしたらいい。どうすればいい?
 考えてもわからない。
 私は、どうしたら幸せになれる?

 ――破れたところは、隠してしまえばいいんですよ。

「え?」

 ふと、誰かに声をかけられたような気がしてはっと顔を上げた。けれど同僚の困惑した表情しかそこにはなくて、周囲を見渡す。そこでオランジュは初めて頭の隅の方で遠い昔の記憶の誰かの言葉を思い出したことに気づいた。

 あれは誰の言葉だっただろう。
 虚空を見つめるオランジュを同僚たちが気味が悪そうな目で見てきたが、オランジュは気にしなかった。

 ――本当に直せる?

 記憶の中の小さな女の子が問いかける。
 そうだ、それを直せるよと言ったのは私だったとオランジュは思い出した。忘れていたことを一日に二度も思いだすのは今までで初めてかもしれない。
 もう少しで何かを思い出せる。そんな気がしてオランジュは、大粒の涙を浮かべてドレスを差し出す女の子の顔を賢明に思い返そうとする。けれど、その顔には白い靄がかかったままだ。
 恐々と、不安そうに預けたドレスをオランジュは受け取った。破れたのは袖の膨らんだレースのところだった。やんちゃだった女の子は登った木から降りた時に、誤って枝に引っ掛けてしまったのだ。

 ――直せます。お嬢様は知っているはずですよ。私は屋敷の中で一番裁縫が得意なのです。

 そう、誰よりも。そう言うと、お嬢様と言った女の子は安心するように笑ったのだ。笑った後で、恥ずかしそうにオランジュにお願いごとを耳元で囁いた。

 ――じゃあ、私のウエディングドレスもオランジュが作ってね。約束よ、オランジュ。

 小指をすっと差し出された。その指に自分の小指を絡めて自分も笑ったのを覚えている。

 ――はい、約束ですよ、シュネー様――

「ああ……」

 オランジュはドレスをぎゅっと抱きしめたまま、愛しい人の名前を思い出せた幸福でいっぱいになった。忘れていた事を思い出した。奥方が亡くなり、主人が亡くなり、屋敷を出て行ったことも。悲しみからその記憶に都合よく蓋をして忘れてしまったことも。
 もう思い出すことも、その必要もないと思った。それなのに、また再び出会うなんて思わなかった。
 あのシロという女性はシュネー様だとオランジュは核心した。見目や顔立ち、その言動から時は経っていても見間違えることはなかった。

 ――私の約束まで忘れたら許さないから

 その言葉を思い出して、ようやく心の中でそれに応えた。はい。はい、申し訳ございません。私は今、貴女との約束をようやく思い出しました。
 オランジュは自分を恥じると共に、抱いていたドレスに目をやった。
 ぼんやりしている時間はない。もう新しく縫う時間はない。ぼろぼろになったこのドレスを、世界一最高のウエディングドレスに生まれ変わらせる。それが私の使命だ。
 オランジュの瞳に力が戻り、すくっと立ち上がる。同僚たちは急に立ち上がったオランジュに驚いて後ろに下がったが、オランジュが再び針と糸を取り出して裁縫を始めたのを見て嘲笑った。
「嘘でしょ? あともう三時間もないわよ。そんな状態のドレスから何ができるって……いうの……よ……」
 裁縫の様子を見ていた同僚たちは絶句した。オランジュの手元は、普段の五倍ものスピードで破れたところを縫い上げていっている。こんなに能力があるなんて聞いていない。同僚たちは腕に泡が立つ思いがした。目の前の彼女は、本当に私たちが知っているオランジュなのか?

 ドレスの裾はもう破れたままでいい。むしろ広がっていくように綺麗に整えよう。両袖には原型をとどめている花のコサージュを破れた箇所から移動させて縫いつける。胴の部分はもう隠せない。なら私が破れた事実を隠してしまえばいい。それができるのは、私だけだ。
 オランジュは息をするのも忘れたように一点を見つめて縫っていく。その速さに同僚たちが「人間じゃない」と呟いた。
 オランジュは鼻で笑った。そう、私は人間じゃないかもしれない。人に言われた言葉も忘れる、大事な人も悲しみで忘れてしまうような薄情なやつだ。でも裁縫なら誰にも負けない、ただの人間だ。

「できた!」

 オランジュが叫んだとき、時刻はちょうどシロとブラウ夫妻がやってくる時間になっていた。工場長が自分を呼ぶ声が聞こえる。オランジュは叫ぶように「はい!」と応えてドレスを抱え、店の方へと駆けて行った。

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