「お待たせ致しました」
「ドレスは出来たんだろうね?」

 店主は訝しげにオランジュを睨む。その目は不安と怒気をはらみ、オランジュへの信用は窺えない。
 オランジュはこくりと頷くと、すでに来店していたシロ……シュネーへと向かい合った。

「こちらで試着をお願い致します」
「わかったわ」

 別の店員がシロを案内し、オランジュが仕立て直したドレスと一緒に試着室へと消えて行く。
 精一杯を尽くしたのだから不安はない。後は彼女が気に入るか、気に入らないかそれだけだ。それでもオランジュは、シュネーが絶対に気に入ってくれる。そんな自信があった。
 大丈夫。
 拳をきゅっと握ってまじないのように俯いた。試着室では店員とシュネーの弾む声が聞こえてくる。その間、店主とブラウは押し黙ったままだ。店主はオランジュが作ったドレスが気に入らなかったらどうしようという不安から、額に脂汗が浮かんでいる。ブラウは腕を組んで無表情のまま、何を考えているのかこちらは計り知れない。

「これでいいかしら」

 カーテンを引く音が聞こえて、全員がその方向を向いた。ふわりとドレスの裾を引き連れて、シュネーの白い靴が一歩前へ出る。

「どう? ブラウ」

 時間が止まったかと誰もが思った。破れた裾はオランジュの手配によって見苦しさは無くなり、シュネーが動くたび咲くようにふわりと広がる。胴回りの破れは繋ぎ目が見当たらないほど綺麗に縫合され、後から縫いつけたパールは朝露のように光り輝いた。一番難しい袖の膨らみは二つに分かれ、そこへ可愛らしい薔薇のコサージュがあてがわれている。スタイルのいいシュネーはそれを見事に着こなし、彼女の希望だった「可愛い」ウエディングドレスは大人っぽい彼女が着ても装飾のおかげで、ミスマッチのならないようになっていた。

 シュネーの髪は店員が軽く結ったのだろう、黒く美しい髪はアップスタイルへと変わっている。耳元には蝶々のようなイヤリングが静かに揺れていた。
 オランジュは自分が仕立てたドレスを思った以上に着こなしているシュネーに呆然としてしまう。
 美しい、その言葉は間違いなく彼女のものだった。

 声をかけられたブラウが驚いたように息を飲むのが伝わって、シュネーの口角がくっと上がる。

「ふふん、私の美しさにぐうの音も出ないようね! ま、それも仕方がないけれどっ!」

 両腕を腰に当て、踏ん反り返るシュネーは相当気分を良くしたようだ。
 その声にはっとして、ブラウは体裁を整えて頷く。

「あ。ああ、そうですね。綺麗ですよ、シロ」
「……へっ」

 思っていた反応と違ったのか、素直に綺麗だと言われてシュネーは顔を真っ赤にして静かになった。そこは普通に照れるんですね……と笑うブラウに、うるさいわねっとシュネーは誤魔化すように言って反抗する。仲睦まじい様子は、本当に恋人同士のようにも見えた。
 話しかけにくい空気のなかへ、店主がおずおずと声をかけた。

「シロ様、その、大変申し上げにくいのですが。そのドレスは気に入って頂けたという事でよろしいのでしょうか?」

 手を揉みながら困ったように言う店主に、シュネーは「あーそうだった」と思い出したように言ってにっこりと頷いた。

「ええ、とても気に入ったわ。お約束通り三倍の価格で引き取らせて頂くわね。用意して」

 声をかけられたブラウが大きなスーツケースを持ち出して机に置いた。店主の前でそれを開けて広げると、中には今まで見た事のない額のお金がぎっしりと詰まっている。それを見たオランジュは「うわっ」と声をあげ、店主は「おほっ」と溢して「これは失礼」と続けて言った。ブラウはそれを白い目で見ている。これだけの額を人生の中でお目にかかることはないだろう、とオランジュは思った。
 満足そうにした店主は着替え終わったシュネーのドレスを綺麗に包装用の鞄に仕舞い込み、その場で引き渡しとなった。代金が支払われればそれでいいのか。店主が店先までご案内致しますと言ったところで、オランジュははっとした。
 そうだ、私はこの店をやめなければならない。
 ドレスが完成してもできなくても辞めると言ってしまった。シュネーとブラウが店を出たら、自分はどこに行けばいいのだろう。また帰る場所を無くしてしまったとオランジュは思った。明日からは絶望しかないが、でも後悔はしていない。シュネーとの約束は守られたからだ。
 最後に店主がにっこりと笑って言った。

「ありがとうございます。これでこの取引きは完了ということで……シロ様、ブラウ様ご夫妻には今後ともよいお取引のほどをお願いしま」
「ああ、その必要はないわ」

 店主は一瞬何を言われたのかわからず、聞き返す。瞬きをして首を傾げる店主にシュネーは笑った。そしてオランジュの方へ向き直り、

「私にはオランジュさんがいるからね」

 そうはっきりと言い放った。オランジュは目を見開いて驚く。彼女が言った言葉が、かつて彼女の父であるゴルトに言われた言葉と同じだったからだ。
 店主は慌てて「何を仰いますか」と怒るように言った。ドレスの出来上がりから今になってオランジュの能力を知ることになり、店主は彼女を捨てるのが惜しくなったのだろう。きっとこいつは金蔓になる、今さら他所の店になどやるものか、と。

「オランジュはうちの店の店員です、引き抜かれては困ります」
「あら? おかしいわね。オランジュは確かにこう言ったわ。ドレスができてもできなくてもこの店を辞めるってね。あなたも勝手にしろと言って承諾されたはずだと思ったけれど?」
「ぐうっ……そ、それは」

 店主がくぐもった声でシュネーとオランジュを交互に見遣った。

「店を辞めた人間を私が雇用しようと問題はないはずよ。そうね……なら、ご本人に決めてもらいましょう。ここに残るか、私のもとへ来るか。オランジュさんの意思で決めてもらいたいわ」
「私の意思で……」

 オランジュは怖くてシュネーの顔を見られなかった。どんな顔をしているのか、想像するだけで吐きそうだ。でも、言わなくてはならない。はっきりとした声で、迷いなく言おう。今なら言える。
 オランジュは思い切って顔を上げた。シュネーの顔は、思っていたより安らかだった。

「……私はシロ様のところで、いえ……」
「……」

 お嬢様、そう言おうとした時には、もう遅かった。

「……っ、私はっ……私はっ、シュネーお嬢様のお側に……居たいです……っ!」
「もう。思い出すのが遅いのよ。ばか」

 シュネーは仕方ないわね、と笑った。
 言葉にした瞬間、涙がとめどなく溢れてオランジュの頬を滑り落ちていく。
 今まで忘れていてごめんなさい。会いに来てくれて嬉しいです。ありがとうございます。あなたのそばに居たい。あなたのところであなたのために、働きたい。そう言いたいのに、嗚咽で言葉にならなかった。手の甲で涙を拭っても、その涙が収まることがなかった。

 その二人の言葉にブラウはオランジュが全てを思い出した事を悟った。安堵する様子を悟られたか、シュネーが振り返って目を細める。
 何が起きているのか全くわからないのは店主だけだ。「今までここに置いてやった恩が」だとか、「私を裏切る気なの」などと言ってはわなわなと震えている。店主の拳がシュネーとオランジュに目掛けて振り上げられる時、ブラウがそれにいち早く気づいた。主人を傷つけられては敵わない。

「スケさん! カクさん! 出番ですよ!」

 ブラウは息を吸うと大きな声を上げて、雇っていたスケとカクという巨男を呼び出した。店の外でブラウ達を待っていた二人は彼の声に気づくと素早く店内に入り、店主が掲げた拳を力強く握りこれを制した。

「い、いたたたたっ」
「今だわ! 二人とも、逃げるわよ!」

 シュネーはオランジュの手を引き、追うようにしてブラウが続いて店を出た。スケとカクはそのままにして大丈夫だったのだろうか。オランジュは振り返って店の方を振り返る。振り返ってあれ?と思った。今までずっとあの店に住み込みで働いていたというのに、あんなに小さい店だっただろうか。
 三人で全速力で走っていく。店がどんどん遠ざかっていく。忘れっぽい自分のことだ。次にこの街を訪れても、もうあの店の名前も場所も思い出せないだろう。オランジュはそう思った。

「オランジュ」

 シュネーがオランジュの名前を呼ぶ。ずっと忘れていたのにふと名前を呼ばれて胸が温かくなった。懐かしいという感情を思い出す。

「はい」
「約束してちょうだい。これからも、私のために服を作ってくれるって」
「はい……」

 走って乾いていた目元が、再び濡れるのを感じる。

「あと次はもう、私のこと忘れないで」
「……っ、はい!」

 オランジュは嗚咽を上げながら、深く深く頷いた。
 シュネーは前を向き、ブラウは優しく微笑んだ。オランジュの幸せは、これからだった。

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