「逃すな!! 全員死ぬ気で捕まえろ!」

 数人の駆ける足音が続いていく。段々と夜に飲まれていく街並みの中。紫色の外壁を軽快に伝っていく一人の男が、警棒を持った男達に追われていた。
 薄汚れたきなりのシャツを着て、くたびれたズボンは邪魔にならないように裾を折って上げている。男の髪は明かりに照らされて黄色い髪がさらに煌めいていた。光が街の中を進んでいくその様子はまるで流れ星のよう。それと反するように、瞳は黒のサングラスで覆われていた。

 なんという身体能力か。積まれた木箱を踏み台にして跳躍し、洗濯物を干すロープをバネにし飛び上がると壁を蹴って距離を開けていく。男を追っている警察達もそろそろ体力の限界だった。だがしかし、こちらにもプライドというものがある。男との追いかけっこは今日で終わりにしなければ市民への面目が立たない。ふと、男が狭い路地裏に入り込んだのを確認して、一人の警官が「しめた」と不敵な笑みを作った。その先は行き止まりだ。

「ここで終わりだ! ゲルプ!」

 髭の生えた警官が語気を荒げてゲルプと呼ばれた男へ叫んだ。ゲルプは突き当たりまで差し掛かると背後を見遣って、握りしめていた袋を見つめた。その袋には、かすかに金属の擦れる音が聞こえる。

「もう逃げられないぞ……大人しく捕まれ。そしてその金は元の持ち主に返すんだ」

 警察達はゲルプを包囲し、じりじりと距離を詰めていく。しかしゲルプは焦った様子も無く、むしろ急に口角を上げて笑い出した。髭の生えた警官はとうとう彼の気が狂ったかと訝しげに思ったが――違う。そうではないと気づいて仲間に知らせようとした時には遅かった。ゲルプは背後の壁を大きく二度蹴って、あっという間に飛び越えてしまった。

「しまった! 逃げられたか」
「ハハッ、油断しすぎなんだよ!」
「くそっ、お前ら、二手に別れてあいつを追うぞ! このままでは帰れん!」

 ゲルプは高らかな笑いを壁の向こうで響かせながら、盗んだ金を手に夜の闇へと姿を消した。



「そろそろブラウの料理も飽きてきたわねぇ……」

 はあと盛大なため息をついて、シュネーが頬杖をついた。そのため息にミシンを踏んでいたオランジュが顔を上げ、ブラウは料理をしていた手を止めて眉をピクリと動かす。
 三人は未だオランジュと出会った街に滞在していた。シュネーも特に何も言わないので、街を変えたり何か行動に移したりということもなく、ただブラウが料理や周りのお世話をし、オランジュが紅茶を入れシュネーの服を作り、シュネーはただだらだらと毎日を過ごすだけだった。
 店から逃げたあの日から三日ほどが過ぎただろうか。店主や関係者に見つかることもなく、借りていた家にひっそりと暮らしていれば商業の街でもそれほど見つかる事はないのだなとブラウは感心した。

 もうすぐ昼食の時間がやってくる。シュネーの希望で作っていたパエリアを三人分用意していたが、目の前にいるお嬢様に本人の前で悪口を言われたので、彼女の分の配膳はやめようか……とブラウは一瞬考えた。

「別に食べなくても宜しいんですよ、シュネー様」

 明らかに不機嫌を表す声に、シュネーはからかうように「やあねぇ」と手を振った。

「別にブラウの料理に文句があるわけじゃないわよ」
「わ〜っ、パエリア、美味しそうですね! ブラウさん、ありがとうございます」

 オランジュがお茶を注いでくれている間に、スプーンで海老をすくうシュネーへ視線を送った。いただきますも言わぬブラウの主人は、多少はしたなくとも本日も美しい。長いスプーンの先をブラウへ向けて、シュネーは薄く笑い言った。

「ゲルプを探しましょう」

 ゲルプはホワイトブルク家に仕えていた使用人の一人で、屋敷の料理を一人でこなしていた腕のある料理人だ。嗅覚と舌に優れ、その才能を早々に見出された彼は孤児であったところをゴルト伯爵に拾われ、屋敷で教育を施された。ブラウより先輩で、オランジュよりも後に屋敷にやって来た後輩になる。オランジュが見つかった次は、彼を探そうというシュネーの提案だった。

「ゲルプですか……屋敷を出てから他の皆の居場所は僕もわかっていないのですが……当てはあるんですか?」
「わかんない」
「……はあ?」

 悪びれもなく肩をすくめるシュネーの様子に、ブラウの美しい顔が怒りに歪む。神様の力作と言ってもいい整った顔立ちで怒る彼はやや迫力があった。それでも幼い頃から面倒を見てもらっていたシュネーは、そんなブラウの表情にちっとも臆することはない。慌てているのはオランジュただ一人。

「それでどうやってゲルプを探せって仰るんですか? ホワイトブルク領はとても広いんですよ? 端から端まで闇雲に探せと言われても効率が悪いだけです。せめて何か手がかりでもないと……」
「そこは使用人であるブラウの仕事でしょう? 有能な貴方なら手がかりの一つや二つ、わけないでしょうに」
「そりゃあ僕は有能な使用人です。でもしらみ潰しにゲルプの足跡を辿るのは少々面倒なんです。その辺りをお嬢様もご理解頂けると……」
「うわ、自分で自画自賛するとは思わなかったわ」
「……シュネー様?」
「あああああああのっ」

 ブラウの青筋が深くなっていく様子を見て、とうとうオランジュが間に入って声を上げた。ブラウとシュネーが同時に振り返ると、お針子が恐縮しながら片手を小さく挙げていた。

「あの……私、ゲルプさんの居場所を知っているかもしれません」
「え!?」

 二人は同時に驚いた声を上げた。その声が思ったよりも大きかったせいで、オランジュがびくりと体を跳ね上げる。慌ててしまって覚えていることを忘れてしまっても困ると、ブラウとシュネーは顔を見合わせて肩の力を抜いた。聞いてもらえる体勢になったところで、オランジュがようやく口を開いた。

「私……実は買い付けにいくつもりで道を間違えて、隣町まで行ってしまった事があって」

 どう間違えたら隣町まで行ってしまうのか。話が逸れてしまう事を危惧して二人は突っ込む事をやめた。
 多分、迷子になったんだろうな……。ブラウは直感でそう思った。

「その時、スラムストリートでゲルプさんに似た方を見たのです。お見かけした事は今までずっと忘れていたのですが……シュネー様とブロンさんに再会してから少しだけ思い出したのです!」

 なぜスラムのようなところに居たのかは謎だが、かつてゲルプは孤児だった事を考えればそう不思議ではない、とブラウは思った。ブラウ自身もシュネーに再会するまでは屋敷に勤めていた時と同じように奴隷としてサーカスで働いていたし、オランジュは屋敷を出てお針子として働いていた。もしかすれば、ゲルプも同じようにスラムの片隅を拠点として生活をしているかもしれない。

 ゲルプがどこの街の出身であったかは、ブラウは正直話した事がなかったのでわからない。触れてはいけない事のように感じていたからだ。自分でも、屋敷に来るまでの過去の事を皆が全員知っているわけではなかった。知っていても話題にすることはなかった。話題になっても、楽しい話ではないので会話の広げようがなかったからだ。

 ただもしもゲルプの出身が隣町のスラムであったならば、過去のスラムでの仲間と再会し暮らした方が気持ちは楽だろう。自分がもしゲルプだったならそうしていただろうとブラウは思った。
 とりあえず、

「オランジュが僕の名前を間違えている事はツッコミたいです」
「ブラウ、我慢して。とにかく、今はゲルプに関して少しでも情報が欲しいところだし、準備ができたら隣町へ向かう事にしましょう」
「はいっ!」
「もう昼を過ぎていますし、明日の朝に出るという事でよろしいですか?」

 時計の針は十二時半を回っていた。

「そうね。それでいいと思うわ」

 シュネーはバターの効いたご飯を大きく掬って、満足そうに頬張った。

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