路地裏を出て元の場所に戻ったブラウを迎えたのは、落ち着きのないオランジュと不機嫌にむくれたシュネーだった。
二人の顔が見えるまで、ブラウはゲルプの事をどう説明するか考えていた。自分達と一緒に行く事をはっきりと拒否した彼に、その理由を聞けなかったことをブラウはとても後悔していた。
そんなブラウにお構いなしに、シュネーはぷりぷりと頬を膨らませながらブラウの方へ詰め寄っていく。
「もーっ! 遅いじゃないの、ブラウ! どこまで行ってたのよ! もうお腹空いてぎゅうぎゅう鳴ってるんだからね」
「……すみません。あの少年も思ったより足が早かったものですから」
ちゃんと財布は取り返しましたとブラウはシュネーに持ち帰った財布を返し、二人を置いてそのままにしてしまっていたことを謝罪した。神妙な顔をしていたのが二人に伝わったのか、シュネーが真面目な顔でブラウに尋ねた。
「何があったの?」
「…………実は」
ブラウは一瞬躊躇したが、隠してもどうせ後で話す事になるならと、その場で打ち明けることにした。
「ええっ!? ゲルプさんにお会いしたのですかっ!?」
オランジュがまんまるな瞳をさらに丸くさせて驚く。彼女がこの街でゲルプを見かけたのは見間違いではなかったのだ。思ったよりも早く見つかったことに嬉しさを表す自分とは反対に、眉を寄せたシュネーが黙り込んでいるのを見てオランジュは首を傾げた。
「しゅ……シロ様、どうかされましたか?」
シュネーという名前は外で呼ばないように言われているのを思い出したのか、オランジュは即座に言い直す。シロという名前は、シュネーが孤児院に居た時につけられたあだ名だった。今は継母であるオリーブへ復讐を果たすため、自分の身分を隠して過ごしているのだ。
シュネーは怖い顔をブラウに向けて尋ねた。
「……で? ゲルプ本人はどこにいるわけ?」
「!」
ブラウは気まずそうに視線を逸らした。シュネーはブラウの事もゲルプの事もよくわかっている。ゲルプ本人と出会っておいて連れて帰っていないということは、ブラウはゲルプに逃げられたか、何らかの事情でここには来られないという事がバレている。ブラウは隠し立てもせずにシュネーに頭を下げた。
「申し訳ありません。ゲルプは僕達と一緒に行くことを拒否し、逃げられてしまいました」
「そんな! ゲルプさんに断られたってことですか……? どうして……」
オランジュもブラウと同様、一緒についてきてくれると疑っていなかったようだ。だから尚のこと信じられない様子で真否を確かめる。
「それは……僕にもわからないんだ」
「もしかして理由も聞けずに行かせたってわけ? 呆れた」
シュネーの大きなため息に、元主従としてブラウはぐっと口を一文字に結ぶ。どんなに仲が良くとも、どんなに普段はからかわれようとも、シュネーとブラウにはきちんとした上下関係がある。主人の役に立てず失敗することが一度でもあれば、ブラウだって大小あれど落ち込むのだ。
それも、少し前に言い合っていたのだから、余計に。
「随分有能な使用人様だこと」
「も、申し訳ありません……」
しゅんとなっているブラウをよそに、シュネーは腕を組んで考え込んだ。
「さて、どうするかしらね」
「もう一度、ゲルプさんを三人で探しましょうか?」
オランジュがおずおずとシュネーに言った。探すといっても、居なくなってしまったゲルプを一から探すには骨が折れる。唯一、ゲルプと関係がありそうなホイと呼ばれた少年の行方ももうわからない。一つずつ店に聞いて回るにしても途方もない気がして、三人ははあと大きなため息をついた。
そこへ、人並みを避けるようにして紺色の人影がブラウたちにふらりと近づいてきた。
財布を盗まれたばかりだった一行は人の気配に身構えたが、振り返った先には体格も愛想もよい穏やかな人相の男性の顔があった。白い髪に、透けるような水色の瞳をしている彼は柔らかな笑みを携えながら、ブラウたちに尋ねて来た。
「すまない、今お時間を頂いても構わないだろうか?」
発された声もテノールの穏やかな声だった。
「……どちら様でしょうか?」
ブラウがシュネーを庇うように前へ出て真っ直ぐな目を男性に向けた。同時に、彼の身なりを一通り観察する。するとそれほど怪しいものではないということがわかった。
まず、その服装。胸元のポケットには狼と剣が交差するようなロゴマークの刺繍があることにブラウは気づいた。これはこの領土の警察を表すマークで、警察以外が勝手にこのマークの入った服を着てはいけない決まりがある。
さらに男性は上着もズボンも紺色の服を着ている。紺色の服は警察の中でも上位の役職に就く者だけが着ることを許されており、目の前のこの男性は少なくとも得体の知れない者ではないことは明らかだった。
彼はブラウに警戒されて困ったような顔を一度見せたが、すぐに元の柔和な笑みに戻って答えた。
「私はクレールハイトという。君たちに少々聞きたい事があって声をかけさせてもらった」
「聞きたい事って?」
ブラウの背後からシュネーが口を出した。それと同時にくぅぅ、と間抜けな音が響く。オランジュが恥ずかしそうに言った。
「すみません……今のは、私のお腹の音なのです……」
真っ赤になって片手を上げた彼女に、クレールハイトと名乗る男性はくすりと笑って提案を持ちかけた。
「食事をする前だったんだな。この街は初めてかい? 良ければおすすめの店を案内しよう、もちろん私の奢りだ。そこで話を聞いてもらえれば嬉しい。どうかな?」
シュネーは幾分か考える素振りを見せたが、ブラウに頷きを返す事で彼について行く事を伝えたのだった。
ぴちゃん。ぴちゃん。
一定のリズムで、溜まった雨の滴が裏通りの地面に落ちていく。ぬかるんだ足元にはウジがわき、腐敗物やゴミの破片があちこちに鎮座している。腐敗しすぎて元が何だったのかわからないものまで堕ちている、ここはシャオの街の中でも一番奥のスラムストリートだった。
夜のような薄暗い通りを、ゆっくりとゲルプは歩いていく。アンモニアと腐った卵が混ざったような、この道の臭いにもとうに慣れた。扉のない窓や玄関の隙間から見える、死んだような暗い瞳がこちらを見つめていても彼はお構いなしに奥へと進んでいく。
時折、恨むようなうめき声がどこかの家から聞こえてきた。何に対して恨んでいるかなんて決まっている。
“どうしてこの世に自分を誕生させたのか” それだけだ。
この通りで生まれた人間は、一生最下層の人間として暮らして生きていかなければならない。人間の暮らしと呼べるのかも不明だ。まともに働いて生活なんてできやしなかった。物乞いをする、盗みをする、誰かを貶める、他人から出たゴミを集めて形にして売り捌く、そういうやり方を選ぶことしかできない。
死んだ方がマシなのに、死にたくないから生きている。だから死に際は皆、生まれた事を呪って死んでいく。
俺もいつか、ああなるのかね。
もしかしたらアレよりも酷い死に方かもしれない。
息絶え絶えの老人の気配に、ゲルプはそう思い嘲った。
スラムストリートを突き当たりまで進んでいくと、腐ったこの世界に似合わぬ子供のはしゃぐ声が僅かに聞こえてくる。光が差し込むその先には、建物で四方に囲まれた集合住宅の空き地に繋がっていた。
隅には野菜が育てられ、建物の窓から窓へと張られたロープには住民の洗濯物が干されている。中央には木々が何本か植えられおり、その周りを子供達が走って遊び回っている。天井は吹き抜けで、雲一つない青空が広がるそこは、地獄のようなスラムに唯一ある集落の広場だった。
「あ! ゲルプのにいちゃだ! みんな、にいちゃが帰って来たよ!」
「本当だ!」
「早く行こうよ!」
ゲルプがやって来たことに気づいた少年達が、嬉しそうな顔で他の子供達に知らせて彼の元へと走り寄っていく。ゲルプは嬉しそうに笑いながら、彼らをまとめて抱きかかえた。
「おー、お迎えご苦労さん! お前ら、ちゃんといい子にしてたかー?」
「してたよ!」
「うちも!」
「にいちゃ聞いて! ユーチャ、私のご飯をすこし食べたのよ!」
僕じゃないもん、とユーチャと呼ばれた少年が慌てて言ったのを見てゲルプは軽快に笑った。物の取り合いは、ここでは日常茶飯事だ。特に食べ物の事に関しては。
「ユーチャは後で事情聴取するとして。お前ら、今日の分の飯だぞー!」
「わーい!!」
ゲルプは持っていた荷物の中から、パンや牛乳、肉などの手に入れにくいものを出して子供達に見せていく。子供達は目を輝かせながら、頬を真っ赤にして喜び、はしゃぎ回った。彼らはゲルプの手を引きながら木の下へと連れていく。そこには手作りの長テーブルと、不恰好な調理道具が並べられていた。
「にいちゃ、今日は何を作ってくれるの?」
一番小さな少女がゲルプに尋ねた。その瞳は期待に満ちていて、ゲルプは胸が少し痛んだ。
少年達が騒ぐ様子に、何人かの大人達も現れてくる。今日の分の食材だけでは足りない分を、植えていた野菜やわずかに残していた干し肉などを持ってきてくれた。手の空いた者は、彼の代わりに火をおこし始めている。ここでのゲルプは皆の生命線であり、料理長だった。
「そーだなぁ、今日は……」
ゲルプが料理名を告げると、わっと歓声が上がる。楽しみのないスラムで、ゲルプの料理は皆の唯一の楽しみだった。
毎日誰かが死んでいくこの街で、ゲルプは生きていた。たったひとつの隠し事をしながら。