頑丈な扉が、運命を開くように開け放たれた。
 薄暗い檻が並ぶ部屋の中を、光がビロードを敷くように一点へ導いていく。光の先にあったのは、やせ細った少年の檻だ。そこへこつ、こつと靴音を鳴らしながら入ってきた男がいる。扉の向こう側は光に溢れ、その逆光で姿は見えない。男が歩くたび、掃除もされていない部屋の砂塵が舞う。

 ここは見世物小屋の檻が並ぶ部屋。男は少年を見下ろしている。少年の目の前でしゃがんだ男の目は、見透かすように真っ直ぐでいて、優しい。
 ――僕を見ている。
 少年がそれに気づいて顔を上げた。目が合って、男は目元だけで嬉しそうに喜んだ。その目は、自分を商品として取り扱う主人の目とも、購買を狙う客人の色ともどこか違っていた。まるで、探していた宝物をやっと見つけた子供のような。

「君は美しいね。まるで摩天楼を照らす月明かりのようだ」

 屈託なく笑って言う男の言葉に驚いた。主人にも、客人にも、そんな風に言ってもらったことはなかった。せいぜいこの馬鹿野郎だとか、これだとか、こいつとか。そんな言葉でしか。

 男は「失礼」と短く言うと、帽子を取って軽く一礼する。そこで初めて彼を正面から見て、身分の高い人間だということに気づいた。少なくとも今まで見てきた客人の中で一番だろう。清潔なスーツを身に纏い、黒塗りの艶やかな杖を持ち、余裕のある穏やかな笑みを携えた、立派な御貴族様だ。そんな人がなぜ、見世物小屋にいる奴隷に礼をするのだろう。
 少年は訝しげな顔を向けたが、男は気にもせず話しかけた。

「紹介が遅れたね、私の名前はゴルト・ハインリヒ・ホワイトブルク。この領周辺を統括する伯爵だよ。私は美しいものが好きでね。私たちが住んでいるこの領土はこの国の中でも特に美しいと思うんだ。緑はあるし、街並みの屋根は夕日に照らされればとても綺麗だ。自分で自分の領を褒めるのもなんだけれど」

 頬を指で搔きながらゴルトと名乗る彼は言う。照れているのか。
 少年はゴルトの言う美しいものを知らなかった。ある日突然ここに連れてこられ、高値をつけられ、時に芸をして客人を喜ばせ、金を落とさせる。自分は比較的食事を与えてもらっていたほうだったけど、それでも育ち盛りの少年は、いつもお腹を空かせていた。

 それが毎日当たり前になってくると、感情が死んでいく。逆らう気も起きず、反抗する精神もない。なるべく主人を怒らせないように注意して、余分な体力を使わず最小限に働く。それがすべて。彼の世界のすべてだった。
 ゴルトの言う「外の世界」は常に閉ざされ、手を伸ばすことさえしなかった。それが、

「君の名前はなんていうんだい?」

 今は目の前にいる男によって、扉が開かれている。

「ブラウ」

 少年は短く答えた。早く答えなければ、いつも怒られるから。

「そうか、ブラウというのか。ブラウ、はじめまして。これからどうぞよろしく頼むよ」

 にっこりと笑ったゴルトの言葉に、ブラウは首を傾げた。よろしくとは、どういう意味だろう。
 少年が一人答えかねていると、ゴルトの後ろから主人が顔を出して何か言っている。ゴルトは振り向いて「ああ、変わらないよ。その値段で十分かい?」と答えた。
 ブラウは、思ったままに口にした。

「もしかして、僕は、買われたんですか。あなたに」

 そうだよ、とゴルトが優しく微笑んだ。

 信じられない。

 ブラウは自分の値段を知っている。珍しい銀色の髪に青色の目、稀有な褐色の肌。そして特殊な身体能力を持つ異民族の自分は、主人によって高額になっていたはず。奴は客人によって値段を変える下衆な野郎だ。値段を聞いて客人が卒倒したり悔しそうに帰っていく様に悦びを感じるような、そんなやつなのだ。

 ゴルトには――目の前の男には、一体いくらの値段を提示したのだろう。伯爵という身分を足元に見て、きっと、とんでない額を言い渡されたに違いない。

 なのに、ゴルトは自分を買ったという。どうして。なぜ。頭の中でその思いがぐるぐると巡る。確かなことは、ブラウは目の前の男によって外に出る権利を今得たのだ。その事実が、彼の頬を熱くさせていく。この気持ちを何と呼べばいいんだろう。

「あっ!?」

 固まって動かないブラウを見て、ゴルトはもしかしてと慌てた。

「言っておくけど、私は返品などしないよ。美しいと思ったものはちゃんと大事にするし、傷つけたり、捨てたりもしない」

 もう、苦しまなくていいのか。

「屋敷には愛しい妻と、残り六人の使用人がいる。そして、可愛い娘がいるんだ。シュネーと言ってね。まだ幼いんだが、早く君に会わせたいなあ」

 もう、無性に寂しくなることもないのか。

「君には、使用人として彼女のお世話をして欲しいんだ。私が居ない時は、私の代わりに守ってくれる存在として側にいてやって欲しい。……え、あれ? どうして泣いているんだい?」

 ブラウは枯れていた泉から水が溢れるように、涙を流していた。この気持ちを何と呼べばいいのだろう。少年には学がなく、当てはまる言葉が思い浮かばなかった。わかっていることは、もう寒い思いをすることも、心が枯れてしまうことも、ひもじい思いをすることもないということだ。
 どこへでも行けるということだ。
 ブラウの涙から感じ取った彼は、目を伏せて言った。少年は、その言葉を生涯忘れはしなかった。

「……辛かっただろう、ブラウ。大丈夫。君はもう、自由だ」

 ――自由。

 少年は何度も何度も心で反芻する。自分の中に染み渡らせるように。
 それがやっと自分のものになったとき。ブラウは泣きじゃくりながら、ゴルトの手を取る。扉の向こうから差す光が、温かく彼らを照らしていた。

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