広大で肥沃な平原が続いていた。
 一羽の鳥が急ぐように羽ばたけば、影が坑道にもう一羽描かれる。一層高く舞い上がったその先に見える、橙色の煉瓦の街並み。朝焼けの光で姿を現していく街は、まだ、目覚めていない。
 鳥は坑道を抜け門を潜り、一番高い塔のもとへと飛んだ。この街で一番早く起きるのは、鐘を鳴らす仕事の人だ。

 リーン、ゴーン。

 重く、しかし美しい音色が早く起きろ、朝だぞと皆を起こす。鐘の音に誘われて、街の家々の煙突から煙が上がった。パン屋、新聞屋、牛乳配達。花屋、魚屋に肉屋……。
 職人の工房や警察、民家の隅々までもが一斉に目を覚ます。美しいこの街を潤滑に動かすために。

 鳥は役目を終えたかのように時計台の隅に舞い降りる。ゴルト・ハインリヒ・ホワイトブルクが治めるこの領土は、どこまでも美しい景色で溢れていた。

 そんな目覚めたばかりの街並みを見下ろすように、少し離れた場所に建つ立派なお屋敷が一つ。街の建物とは反対の、青い屋根に白い煉瓦。この領土を管理しているホワイトブルク家の者たちが住む、大きな建物だ。

 黒い門の向こうにある噴水を越え、手入れされた花壇を通り過ぎる。大きな青い扉から足を踏み入れれば、一寸の塵もないロビーへ。二階へと続く階段を上り、ホワイトブルク家当主・ゴルト伯爵の肖像画を横目に一番奥の部屋へと向かう。その部屋の中で、少年の苛立った声が屋敷内を貫いた。

「シュネーお嬢様ッッ!!!」

 銀髪の髪を振り乱し、襟元を正しながら少年が遺憾な表情で佇んでいる。サファイアのように青い瞳と、あまり見ない褐色の肌を持つ少年。彼はまさしく数年前、ゴルト・ハインリヒ・ホワイトブルクに買われたブラウ少年だった。

 数年前のあの邂逅の時。ゴルト伯爵は他の奴隷たちを解放し、ブラウだけを使用人として雇った。それ以降、言葉通りに伯爵の娘の執事として身の回りの世話をするよう、教育を促した。ブラウに学はなかったが、もともと憶えはよかったのだろう。教えたものをスポンジのように吸収し、立ち振る舞いを覚え、今では立派な使用人の一人としてホワイトブルク家を支えている。
 その彼をいま困らせているのは……。

「そんなに怒らなくってもいいでしょう、ブラウ」

 シュネー・ハインリヒ・ホワイトブルク。
 ホワイトブルク家の跡取りであり、ゴルト伯爵の一人娘だ。シュネーは豪奢な椅子に座って優雅に紅茶を頂きながら、腕を組んで彼に言った。わなわなと握りこぶしを震わせながら、ブラウは「そうですね」と言って、

「シュネーお嬢様が勉強を再開すれば、僕がこんなに怒らなくてもいいんですけどね!」

 とも言った。

「シュヴァルツがさっきからロビーを行ったり来たりしているから、どうしたのか聞いてみれば……部屋から逃げ出して紅茶を頂いているとは、どういうことですか!」
「だって、勉強に飽きたんだもの」

 シュネーはふうっと一息ついて、嘆いて言う。

 こ、この我儘令嬢め……。

 ブラウの額に青筋が浮かぶ。
 シュヴァルツはシュネーの専属家庭教師で、争いを好まない温和な青年だ。その青年を煙に巻き、苦手な勉強をほっぽりだす。こんなことは日常茶飯事で、逃げたシュネーを見つけるのがブラウの仕事だった。シュネーはもともとじっとしているのも苦手で、一時間の座学も五分で姿が見えなくなったかと思えば昼寝をすることもしばしばだった。

「飽きたじゃありませんよ。貴女はいずれ、ホワイトブルク家を継ぎ! 支え! 御父上が守るこの領土を統括していく使命がございます。今、苦手だと思っている勉強も、全ては未来の貴女の力となるのですよ」
「わかってるわよ……」
「なら、今から戻って勉強を再開してください。それとも、彼の教え方はわかりにくいですか?」
「そんなことは……ないわ。シュヴァルツの教え方は上手だし、私にもわかりやすく話してくれるもの。でも……」
「でも?」
「楽しく! ない!! の!!!」

 シュネーは子供らしくぷぅーっと顔を膨らませる。その様子は、こんな状況でなければ誰もが微笑ましく思っていただろう。だが、ブラウは違う。公務で多忙なゴルト伯爵の代わりに、病弱な奥様の代わりに。彼女に着いて正しく寄り添うという責任があった。
 今日は駄々がいつもより、長い。……ならば。
 ブラウは眉をひそめて厳しい顔をして言い放った。

「……シュヴァルツが困っていましたよ。勉強の途中で貴女が居なくなったから、心配もしていました」

 心配していたと聞いて、シュネーはさすがに眉尻を下げ俯く。勉強が苦手なことも、逃げ出したい気持ちも本当だ。けれど、家族のように過ごしてきた使用人の一人を困らせたことには、罪悪感はある。頻繁に逃げ出したとしても、そのすべてがただ衝動でやったこと。
 困らせたくて、逃げ出したわけじゃない。

 組んでいた足をもとに戻し、あきらかにしょんぼりした様子でシュネーは立ち上がる。銀髪の執事の前にやってくると、目を合わせないまま、

「……今から戻ったら、シュヴァルツは許してくれると思う?」

 そう、頬を桃色にして呟いた。ブラウは優しく微笑む。

「心配いりませんよ、シュヴァルツは滅多に怒ったりしません。素直に謝れば、笑顔で勉強の続きをしてくれますよ。ホワイトブルク家の使用人は皆、貴女の事が大好きですからね」

 その言葉を聞いて、少女はぱっと顔を上げる。つややかな瞳を揺らして、急いで駆け出し部屋を出て行った。
 やれやれ。
 ブラウは正直、ほっとした。素直で甘えん坊な彼女にこの方法が”効く”のは、いったいいつまでだろうか、と。

 腰に手を当ててため息をついていると、シュヴァルツの元に戻ったはずのシュネーが扉から顔を出してこちらを窺っている。

「シュネー様。どうかされましたか?」

 ブラウは何か言い忘れたのだろうかと、しゃがんで彼女の目を覗き込んだ。と思えば目を逸らされる。
 何なんだ一体。シュネーは黒髪の先をいじりながら、強張った顔で。

「ブラウも私のこと、好き?」
「は?」

 彼から間抜けな声が出て、むむうとシュネーの頬が膨れる。何が不満だったのか、ブラウは困惑しながらシュネーに訪ねた。子供の言う言葉は、ときどきよくわからない。

「だから、私のこと、好き?」
「……はあ、そうですね。好きですね」

 口に出せば少々照れながらも、少年は誤魔化さずに彼女に言った。
 今よりもっと幼い頃からシュネーを見てきた彼からすれば、可愛くないわけがない。嫌いなわけがない。自身の恩人であるゴルト・ハインリヒ・ホワイトブルクの娘ならば尚更。
 シュネーはその言葉を聞くと、頬をつやつやとさせながらブラウに飛びついた。

「わーい! 私もブラウがだい、だい、大好きよ!」
「ちょ……っ、シュネー様!」

 シュネーは一旦離れたかと思えば最大級の笑顔をブラウに向ける。ほんのり赤ら顔のブラウを無視して、ご機嫌な彼女はシュヴァルツが待つ勉強部屋へと戻って行くのだった。
 ……本当に一体、何なんだ。
 ブラウは大きなため息をつくと、疲れた体を持ち上げるように持ち場へと戻る。

 ホワイトブルク家の屋敷には、伯爵様とその奥様、そして愛娘のシュネーが住んでいる。その三人に召し使えるのは七人の使用人。
 専属執事のブラウ。
 メイドのオランジュ。
 料理人のゲルプ。
 家庭教師のシュヴァルツ。
 庭師兼警備のグリューン。
 支配人のリラ。
 医者のロート。

 この使用人たちが、ホワイトブルク家を支え、主人であるゴルト伯爵を支えていた。

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