ブラウはひとたび仕事を終えて調理場へと向かう。自分の食事は主の後。料理長のゲルプがご主人様たちの食事を作って、その余り物でブラウ達の賄いも作ってくれる。

 調理場はロビーまで一度出て、一階のホール隣りの通路から入ってすぐ。決して広くはないが、ゲルプが料理し、メイドのオランジュが円滑に運ぶにはちょうどいい広さだ。調理場へ着くと、さっそく鼻腔を美味しい匂いでくすぐられる。ブラウはこっそり、料理の名前を当ててみようと企んだ。今日の賄いは――

「シチュー……かな?」
「おう、ブラウ。今温め直したところだ、食べるか?」

 金髪グラサンの青年、ゲルプが振り向かずに言った。シチューの答えに、否定をしないゲルプを見てブラウは口元を三日月にする。ゲルプは手早く水をコップに注ぐと、ブラウの前に置いた。温めたシチューを木製の器に盛りつけ、固いが癖になるパンも隣に置く。シチューの湯気がそのおいしさを物語っている。

「もう食べてもいい?」

 食器を揃えていたブラウが苦笑して彼に尋ねた。どうぞ、と肩を竦めて笑って見せるゲルプは、実は目が見えない。すべて「勘」と「経験」と「匂い」で動いている。
 息を吹きかけ、冷ました後にハフッとスプーンですくって頬張った。調理場では作法など無用。美味しいものを美味しそうに食べることがゲルプにとって一番の礼儀だ。
 ところで、とゲルプが言う。

「伯爵様は今も例の伝染病を追っかけてんのか?」

 ああ、とブラウは伏し目がちに頷いた。

 最近、この美しい領土にゴルト伯爵にとって「美しくないもの」が流行っている。
 特定の魚・肉料理を食べるとかかる伝染病の一種で、下痢や食中毒と似た症状を起こす。次第に物も食べられなくなり、全身が真っ黒になり死に至る。

 伯爵は急いで原因となった料理に使われた食材を食べぬよう街に注意を促した。しかし、心当たりのある食材を無くしても新しい患者は増えており、伯爵は街の医者を集め他の原因を探った。使われている水や患者の記録を照らし合わせ、他の領土や貴族の医師たちにも話を聞いたが……なかなか改善に至らず、死人はすでに何人か出ている。
 港や牧場で伝染病に関係しそうなものも調べた。だが、原因が突き止めきれず事態は深刻さを増すばかりだ。 

 ブラウはシチューを食べる手をふと止めた。険しい顔になる理由は、伯爵や領のことだけではない。ホワイトブルク家の奥様、ジルヴァのことだ。
 先日、彼女の左腕に病の兆候である黒い斑点が見つかり、屋敷中が騒ぎとなったのだ。
 屋敷の医者であるロートによれば、ジルヴァは下痢や食中毒の疑いもないため、食べたもので感染したわけではなさそうだった。その言葉にゲルプは肝を冷やしたが、同時に安堵もした。食べ物の扱いはゲルプしかしないからだ。
 ロートの治療もむなしく、今は衛生に注意したり、薬の効果で病気の進行を遅らせることしかできない。伯爵は寂しそうに、使用人たちに大丈夫だと笑った。食べたものでかかったわけじゃない謎に、頭を悩ませているはずなのに。

「早く食べねェとせっかく作った料理が覚めんぞ」

 ゲルプが意地悪そうに笑って、洗ったばかりのスプーンで横からすくう仕草を見せる。とっさに皿を引いたブラウは「ちょっと休憩してただけだ!」と言って、慌ててシチューの残りを食べた。
 ブラウもゲルプも、ただただジルヴァの回復を祈るばかりだった。


 夕暮れになって、外から馬車の音がブラウの耳に届いた。
 ――こんな時間に、いったい誰が。
 ブラウは眉を寄せてロビーまで顔を出す。すでに支配人のリラが玄関へ来客を出迎えていた。

「リラ」

 足早に向かい声をかけたが、リラは薄紫の髪を揺らして「大丈夫だ」とだけ答えた。リラは一見、中性的な青年に見えるが、男性的な女性にも見える不思議な存在だった。今でも彼……いや、彼女だろうか。どちらが正解なのかは本人にも教えてもらえていない。
 ブラウは戻る振りをして、そっと玄関の扉へと張り付く。リラが出た扉から見えたのは、ゴルト伯爵の叔父だった。

「ときどき、金を借りに来てんだよ」

 後ろで声がして、驚いて振り返った。ブラウの後ろに立っていたのは、庭師兼警備のグリューンだった。緑のおかっぱに気の強そうな表情のその女性は、昔戦士だった。それが垣間見れる大きな傷跡が頬に残っている。

「あちらも貴族の方なんだろう? なぜ伯爵に」
「無駄金ばっか使ってやがるから、家がすっからかんなんだよ。小さい頃は伯爵様が可愛がってたモンだから、家族の情を擦り付けて寄ってきてんだ。今一度も返したこたァねえぞ。あいつら」

 バカが、と吐き捨てるように言って、グリューンは屋敷の奥へと戻って行った。使用人からすれば、主人であるゴルト伯爵の親族とはいえよく借りに来る輩は好ましくない。伯爵様がそれでいいなら、いいのだが。
 もう一度扉の向こうを見た。リラは前もって伯爵様からお金を渡すように言いつけられているのだろう、封筒を叔父へと渡して帰ってもらっているところだった。
 不安はつきない。けれど、今自分の仕事はシュネーお嬢様のお傍についておくことだ。
 ブラウが踵を返そうとしたとき。グリューンと入れ替わるようにして、メイドのオランジュが転びそうになりながらやって来る。

「――ブラウさん!! 大変なのです、奥様の体調が――」

 ブラウは跳ねるようにして部屋へと向かう。振り向きざまにロートを呼ぶようオランジュに頼んだ。
 ――シュネー様。
 彼はジルヴァを思う前に娘の彼女の名を心で呼ぶ。大したことがないといい。そうでなければ、悲しむのは、一番、悲しむのは――。
 ジルヴァの部屋の前に立ち、息を整えながらノックする。

「奥様、ブラウです。入ってもよろしいでしょうか」

 返答はない。

「……ッ、入ります」

 扉を開けて入った。ベッドに横たわる彼女の姿を見て、ブラウは絶句した。
 元気だったときのジルヴァの面影はない。顔は青く生き物としての気配はなく、伝染病の悪化により全身が黒ずみ、息は浅かった。今朝まで何ともなかったのに――。

 どけ、と声がしてわずかな希望が胸に沸く。入り口を見遣ると、ロートやオランジュの姿がそこにあった。
 ブラウは素早く身を引いてロートに任せた。自身の火傷を覆うように包帯で顔を巻いている彼の、その隙間から見える瑠璃の瞳が、光っていた。熱、脈を測り容体を調べるが、しばらくして震える手で拳を作る。

「クソッ!!」

 持っていた聴診器を床に叩きつけた。隣にいたオランジュの顔が、見る見るうちに青くなっていく。ロートは叫ぶように若い二人に怒鳴った。

「早くリラに言って伯爵様を呼んで来い!!! 今すぐにだ!!!」
「はい……っ。う、」

 オランジュはついに、泣きながら廊下を走っていった。まだブラウよりも若い彼女に、人の死が近づいているという現状を突き付けられるのは、誰の目に見ても酷だった。ブラウは足元を見ると、自分の膝が揺れていることに気づく。震えているのか。怖いのか。ブラウは唇を噛んだ。

「僕は何をすればいいですか」

 ブラウはロートに震え声で言った。険しい顔をしていた彼は、長いため息をつくと自分の手で顔を覆う。彼も、彼自身の気持ちを押さえつけることはできないのだろう。ロートは押さえていた手を外すと、振り返りもせずに呟いた。

「……シュネーお嬢様を連れてこい」

 ブラウは、その宣告にあんまりだと心の中でロートを罵倒した。ジルヴァの命があと少しだと。生きているうちに別れを済ませと、彼の口調が言っていたからだ。

 深夜遅く。
 ジルヴァは伯爵とシュネー、使用人たちに見守られながら、息を引き取った。

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